コレクション・ギャラリー

平成30年度 第5回コレクション展 (計165点)

会期

2018(平成30)年12月19日(水)〜2019年(平成31)2月24日(日)

主なテーマ

展示作品

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ウィリアム・ケントリッジ《俺は俺ではない、あの馬も俺のではない》

*本作品のみ、展示期間:12月21日(金)〜2019年4月21日(日)

 ウィリアム・ケントリッジ(1955年、南アフリカ共和国ヨハネスブルグ生)は、大学で政治学を修めた後、演劇や映画制作の経験をへて、1980年代末から木炭とパステルで描いたドローイングのコマ撮りアニメーション・フィルムを発表して注目を集めます。南アフリカの人種隔離政策の歴史と社会状況を背景に生み出されたケントリッジ作品への評価は、1990年代のポストコロニアル的状況の反映のみならず、不条理な現実を前にした個人の苦悩や人間の尊厳、そして分裂した自我といったテーマの普遍性に対する共感と支持によるものと言えるでしょう。ストーリーボードなしに描いては消し、そして長時間かけて一コマずつ撮影しながら、ドローイングのなかに物語を見出し紡いでいく独自のスタイルで制作された短編アニメーション作品は、後進世代のアーティストたちの映像表現に大きな影響をもたらしました。
 2009年の大規模な個展以来、当館ではおよそ10年ぶりの展示となる《俺は俺ではない、あの馬も俺のではない》は、ゴーゴリの短編小説を原作としたショスタコーヴィチのオペラ『鼻』(1930年)のプロダクションの準備過程で制作された8面映像インスタレーションです。タイトルは、ロシアの農民が一切の罪を否定する際の決まり文句で、スターリン体制下で大粛清の犠牲となったブハーリンに関するソ連共産党中央委員会の議事録に由来します。ケントリッジは、ロシア構成主義者の視覚言語を用いながら、紙の切り抜きと映像のコラージュ、ダンスの影、1920・30年代ソ連のアーカイヴ映像、ヴェルトフの映画の抜粋、政治文書の引用などさまざまな要素を作品に取り込んでいます。ケントリッジの朗読と本人が登場する映像を組み合わせた同名のレクチャー/パフォーマンスでも、コワリョフと彼の鼻をめぐるゴーゴリの不条理劇に、分裂した自己、支配する側とされる側の反転、世界の秩序の破綻といったテーマが重ね合わせられています。

ウィリアム・ケントリッジ、俺は俺ではない、あの馬も俺のではない、2008年
ウィリアム・ケントリッジ《俺は俺ではない、あの馬も俺のではない》2008年

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冬の日本画

 日本には四季があり、古来日本人はそれぞれの季節の美を愛で、詠い、書き、描いてきました。今回のコレクション展日本画コーナーでは、冬の風物を描いた作品をご紹介いたします。
 冬と言えば「雪」。四季の植物に小禽をとりあわせた花鳥画をよくした麻田辨自の《暮雪》は、雪に覆われた熊笹の茂みを一羽ゆくオスの雉を描き、冬の寂しさを表現しています。一方、伝統的な春日曼荼羅の形式に写実味を持ち込み近代によみがえらせたような松元道夫《雪の春日》では、境内や周囲の山を雪で覆うことにより、清浄な聖域であることを強調します。それぞれの作品から、「雪」に対して日本人が抱く、種々の想いを感じとっていただけるのではないでしょうか。また「梅」も「雪」と並んで、日本人が好む冬の風物です(但し、季語の分類では春)。梅の花は雪や寒風に負けず、あらゆる植物の魁として年始から花を咲かせます。その潔さや靭さ、更に、紅白の可憐な花の形や香り、古木になってもなお勢いよく上に向かって伸びるその枝ぶりなどに惹きつけられてきたのです。日本画家達を魅了する「雪」と「梅」の競演をお楽しみください。

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上野伊三郎とインターナショナル建築会

 第一次世界大戦後のヴァイマル共和政下のドイツでは、きびしい住宅難、それにともなうスラムの形成が社会問題となっていました。それはドイツ国内のみならず、例えば世紀末ウィーンを代表する建築家アドルフ・ロース(1870–1933、企画展「世紀末ウィーンのグラフィック」でも紹介)もウィーン市で住宅供給の仕事に携わるなど世界的な関心事でもありました。
 そうした背景のなかで国をまたいだ建築家の交流も活発となり1928年7月、"インターナショナル ハウジング アソシエーション(国際住居協会)"がパリで設立されます。そののち、ロースとともにウィーン市で技師をつとめたハンス・カンプフマイヤー(1876–1932)を事務局長にすえ、フランクフルトを拠点にドイツ、オーストリアのみならずイタリア、オランダ、ノルウェー、スペインと世界各地に会員をひろげました。そのため彼らの機関誌『ハウジング アンドビルディング(住居と建設)』は独・英・仏の三ヶ国語併記による誌面構成が特徴です。
 じつは日本にも会員を持ちました。京都の建築家、上野伊三郎(1892-1972)です。彼は早稲田大学を卒業後、ベルリン工科大学へ留学。その後にウィーンに移り、1924年からウィーン工房の設立者の一人でもあるヨゼフ・ホフマン(1876-1957)の事務所で働きます。1年と数ヶ月を事務所で過ごした上野は、ウィーン工房のメンバーでもあったリチ(1893–1967、 Felice "Lizzi" Ueno-Rix)と結婚し日本に帰国します。帰国後まもなく設計した《島津邸》(1929)は、ホフマンの影響をつよく感じさせるものです。そして上野は京都での設計活動と並行して、本野精吾(1882–1944)ら関西の建築家を中心に1927年7月に「インターナショナル建築会」を発足させます。
 まさにこの機関誌である『インターナショナル建築』には、同人たちの寄稿と並べるかたちで「ハウジング アンド ビルディング」から記事が邦訳され掲載されています。海外の最新動向は、こうして日本とも密接に連関しながらリアルタイムに共有されていたのです。ここでは、企画展「世紀末ウィーンのグラフィック」に関連し、世界的な建築のネットワークを、上野伊三郎を通して紹介します。

日本インターナショナル建築会発行、インターナショナル建築 第1巻創刊号、1929年
日本インターナショナル建築会発行
『インターナショナル建築 第1巻創刊号』1929年

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ルーシー・リーとヨーロッパの陶芸

 「窯を開ける時はいつも驚きの連続」と述べたように、ルーシー・リーは93歳の生涯を閉じるまで常に好奇心に溢れ、発見と喜びから生まれるその作品は片時も瑞々しさを失うことはありませんでした。ルーシーの作品は、轆轤成形による均整の取れたフォルムに揺らぎの要素が取り入れられたもので、そこに線の掻き落としや釉薬の色彩が加わることで、緊張感と大らかさ、伸びやかさが同居しています。
 ルーシーは、1902年にオーストリアのウィーンで裕福なユダヤ人家庭に生まれました。当時のウィーンは、画家グスタフ・クリムトや建築家ヨーゼフ・ホフマンらがウィーン分離派を結成するなど、新たな造形活動を展開していました。これらの芸術に触れて育ったルーシーは、1921年にホフマンも教鞭をとったウィーン工業美術学校で学び始め、そこで轆轤の面白さに目覚めたことから陶芸家になることを決意します。ウィーンでルーシーは数々の公募展等で受賞を重ねますが、ユダヤ人であったことから迫り来る戦争の足音の中で1938年にイギリスへの亡命を余儀なくされます。以後、イギリスを拠点に世界中で高い評価を獲得し、日本においても当館でも開催した1964年の「現代国際陶芸展」、1970年の「現代の陶芸−ヨーロッパと日本」をはじめとする数々の展覧会に招待出品されています。
 ここでは当館のコレクションの中から、ルーシー・リーを軸にルーシーの工房でともに制作したハンス・コパーをはじめとするイギリス現代陶芸作品、1964年の展覧会に出品されたルーチョ・フォンタナやベルント・フリベリの作品、1970年の展覧会に出品されたインゲル・パーションらの作品を通じて、戦後のヨーロッパ陶芸の一端をご紹介いたします。

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河井ェ次郎作品選

 近代日本を代表する陶芸家の一人である河井ェ次郎は、明治23年(1890)に現在の島根県安来市に生まれました。東京高等工業学校(現、東京工業大学)を卒業後、京都市陶磁器試験場に技手として勤務し、何万種もの釉薬の研究に没頭します。大正6年(1917)に試験場を辞し、陶芸家として独立後は、中国や朝鮮陶磁を手本とした作風で大正10年(1921)の最初の個展で「天才は彗星の如く突然現れる」と評されるなど華々しいデビューを飾りました。しかし河井は、その後、創作の方向を大きく変え、民藝運動に参画することで、「暮らし」と創作の密接な関係において作陶活動を展開していきます。河井の作品における造形性は、晩年に向かうほど、ますます意欲的となり、「生命」の喜びに溢れたものとなりました。
 当館所蔵の河井ェ次郎作品は、長年にわたる河井の支援者であった川勝堅一氏によるコレクション(川勝コレクション)が中核をなしています。川勝コレクションは、昭和12年(1937)のパリ万国博覧会グランプリ作品を含む、質、量ともに最も充実した河井ェ次郎作品のパブリック・コレクションで、初期から晩年までの河井の代表的な作品を網羅した、河井の創作意識の変遷を辿る上で欠かせないものです。また、当館には、これまでに川勝コレクション以外にも河井作品が寄贈されてきました。ここでは、川勝コレクションに加えて、これまであまり紹介する機会のなかった川勝コレクション以外の作品を通じて、河井ェ次郎の世界をご紹介します。

河井ェ次郎、辰砂丸紋四方壺、1938年頃
河井ェ次郎《辰砂丸紋四方壺》1938年頃

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没後30年 水木伸一

 水木伸一(1892–1988)は、愛媛県松山市に生まれ、東京へ出て太平洋画会で中村不折に洋画を学んだのち、大正3(1914)年、小杉未醒に見出されて再興日本美術院(院展)の洋画部に参加しました。このとき小杉家で村山槐多と同居し、奔放な青春を過ごしたことが知られます。院展のほか二科展や光風会展にも出品しましたが、やがて画壇を離れ、同郷の河東碧梧桐を師と仰ぎ、俳人や歌人、言論人たちとの交友に生きるようになりました。美術界の動向に煩わされることなく、個展を中心に作画活動を続けた画家でした。
 彼の名は、日本近代美術史においては大正期の小杉未醒、村山槐多や同郷の柳瀬正夢との関連で言及されるのが常です。しかし文学史へ目を転じてみれば、河東碧梧桐をはじめとする正岡子規門下の人々に連なる表現者の一人としての、水木の姿が見えてきます。水木の書いた村山槐多論を読めば、天才と謳われる友、村山の表現への活力を敬愛しながらも、あくまでも自分自身の表現への思いに忠実であろうとした内省の人を見出すことができそうです。
 横山大観没後60年、藤田嗣治没後50年で賑わった平成30(2018)年は、実は水木の没後30年でもありました。ここでは当館蔵の水木の作品をご覧いただき、美術と文学の間を自由に生きた彼の没後30年を記念します。

水木伸一、葉子三歳の像、1920年頃
水木伸一《葉子三歳の像》1920年頃

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長谷川潔の版画:マニエール・ノワール

 長谷川潔は1891年に横浜に生まれ、フランスを拠点に活躍した版画家です。20歳頃から黒田清輝にデッサンを、岡田三郎助と藤島武二から油彩画を学び、美術の道を歩み始めるかたわら、文芸同人誌の表紙や挿絵を依頼されたのをきっかけに、木版画や銅版画を制作するようになります。1919年・28歳でパリへ渡り、サロン・ドートンヌなどパリ画壇で発表を重ね、版画制作にその生涯を捧げました。
 木版、ドライポイント、エッチング、アクアチント、エングレーヴィングなど、さまざまな技法に取り組んだ長谷川ですが、彼の版画家としての評価を決定づけたのは、マニエール・ノワールの再興でした。マニエール・ノワールとは銅版画のメゾチントの異称であり、 17世紀ドイツで発明されヨーロッパで普及したものの、19世紀に写真の発明によって衰退していました。長谷川は技法書を頼りにフランスでこの「忘れられた技法」の研究に取り組み、独自の技法を創案し新たな表現技法としてよみがえらせることに成功しました。
 長谷川は静物画のモチーフにそれぞれ何らかのシンボルとしての意味を込めており、例えば小鳥は「世界を観察する作家自身」、球体は「世界、宇宙、調和、統一」、薔薇は「美、愛、沈黙、秘密」などを表しているといいます。美しく深遠な黒、黄金律にもとづく構図、モチーフと意味の組み合わせによって構築された、知的で静謐な作品世界をどうぞお楽しみください。

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追悼 岩倉 壽

 今年10月11日に逝去した日本画家・岩倉 壽氏(以下、敬称略)を追悼し、当館で所蔵する全作品と、画家が尊敬して止まなかった猪原大華の作品を展示いたします。
 岩倉壽は昭和11(1936)年香川県に生まれました。小学校6年の時絵画に興味を持ち、中学校1年で油彩画を始め、香川県立観音寺第一高等学校で本格的に取り組みます。30年京都市立美術大学(現在の京都市立芸術大学)美術学部日本画科に入学。当時同校講師であった猪原大華に影響を受け、日本画家としてやっていくことにした壽は、在学中の33年第1回新日展に《芭蕉》を出品、初入選します。翌年同大学を卒業後、大華が所属する、山口華楊率いる画塾晨鳥社に入り、以後、日展と晨鳥社展を中心に活動します。また、38年から平成14(2002)年まで母校・京都市立芸術大学で教鞭を執り、画塾と学校で後進の指導にも当たりました。平成15(2003)年に日本藝術院賞を受賞、18年には日本芸術院会員となり、22年長年固辞し続けていた回顧展を笠岡市立竹喬美術館で開催、現代京都画壇を代表する作家となったのです。その初期から一貫して風景をモティーフとし、昭和50年頃から、すりガラスを通して見たような模糊とした形態を、明るい中間色を用いて筆触豊かに描き、60年代からはゆるやかな枠の中に、光や水蒸気、空気を閉じ込めた大小のつぶつぶを撒いたような、潤いと光に溢れた透明感のある画面となっていきました。外は乾燥して寒いですが、しっとりとして陽光のふりそそぐ壽作品をお楽しみいただければ幸いです(なお、「冬の日本画」のコーナーでは、晨鳥社の先輩である麻田辨自、西内利夫、そして、諸先輩亡き後の画塾を共に支え、昨年逝去した中路融人の作品を展示しております)。

岩倉 壽、木のある空間、2009年
岩倉 壽《木のある空間》2009年

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