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2024年度 第1回コレクション展

コレクション展

2024年度 第1回コレクション展

2024.03.14 thu. - 05.26 sun.

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西洋近代美術作品選

 当館所蔵ないし寄託の西洋近代美術の優品を紹介するコーナーです。今回は、2023年度の新収蔵作品アルベール・グレーズ《キュビスム的風景、木と川》を中心に、「キュビスム」に関係する作品をご紹介します。
 「キュビスム」とは、20世紀初頭にパブロ・ピカソとジョルジュ・ブラックの二人によって提唱され、20世紀以降の美術の在り方に大きな変革をもたらした造形思考です。絵画という二次元平面において、彼らは、伝統的な遠近法や陰影法を用いた単線的な空間表現を脱し、立方体(キューブ)のような幾何学的形によって複線的な画面構成を試みます。それは、絵画が現実の再現であるというルネサンス以降の考えを根本的に覆し、純粋な視覚表現の可能性を大きく拡げることになりました。この「キュビスム」が、造形的のみならず理論的にも世界に流布することに大きく貢献したのが、アルベール・グレーズ(Albert Gleizes, 1881 – 1953)です。
 グレーズは、絵画制作を独学し、当初の印象派的作風から、セザンヌの影響を受け、ピカソとブラックの作品を知ることでキュビスム的表現に向かいました。1912年には、造形における色彩と画面分割の法則性を重視する仲間たちと「セクション・ドール(Section d’Or)」を結成して展覧会を開催すると同時に、ジャン・メッツアンジェと共著でキュビスムに関する最初の理論書『キュビスムについて』を刊行しています。実作のみならず理論面においてもキュビスムに関する思索を深め、オランダの「デ・ステイル」やドイツの「デァ・シュトルム」、アメリカの「独立芸術家協会」などのメンバーとしても活動し、フランス国外へのキュビスムの普及・展開に決定的な役割を果たしました。今回の展示では、当初予定されていながら実現しなかった11名の作家たちによる版画作品を含む形で、1947年に再版された『キュビスムについて』を紹介しています。
 新収蔵作品である《キュビスム的風景、木と川》(1914年)は、グレーズが分析的キュビスムから、より平面的で抽象度の高い作風へと変化する過渡期に描かれました。画面中心には樹がそびえ、背景右手には工場と思われる建造物が建ち並び、それらを迂回するように灰色の川の流れが認められます。画面は対角線上の堅固な構図をもちつつ、そこに色鮮やかな方形や円形が複数の視点からリズミカルに配されることで、風景の力強い息吹が表されています。遠近法を感じさせる画面構成や色と形のより動的な関係性は、イタリア未来派やロベール・ドローネーのオルフィスムを摂取したグレーズが示す、キュビスムの新たな段階だとも言えるでしょう。
 また本作品は、20世紀ドイツの重要な前衛的美術雑誌『デァ・シュトルム(Der Sturm)』の1920年10月号に一面カラーでその図版が掲載されており、加えて当時のドイツ領ブレスラウ(現在はポーランド領ヴロツワフ)の実業家アドルフ・ローテンベルクの所蔵品でした。1928年刊行のバウハウス叢書第13巻がグレーズ執筆の『キュビスム』であることと併せて、ドイツにおける「キュビスム」受容を知る上でも欠かせない作品です。


明治時代の京都・大阪の日本画 深田直城《瀑布に鷹・雪中鴛鴦図》1895年

 幕末から明治時代にかけて西洋の文物が流入するようになりましたが、日本画の画風がすぐに一新されるということはなく、明治時代初期は江戸時代からの画風が描き継がれました。当時、京都画壇の中心を担っていたのは、岸派の岸竹堂や四条派の塩川文麟であり、大阪の森狙仙を祖とする森派の絵師で、「明治の応挙」とも呼ばれた森寛斎も京都で活躍しました。一方で、江戸時代に流行した文人画(南画)の流れも健在で、大阪で活躍した藪長水や田能村直入の作品のように、中国への憧れを抱き、漢詩や中国の名所から着想を得た絵も多く描かれました。直入は京都へ居を移した後、京都府画学校の初代摂理(校長)を務め、富岡鉄斎らとともに日本南画協会を設立しました。
 京都府画学校設立後の京都では、文麟門下の幸野楳嶺や山田文厚、寛斎門下の奥谷秋石や山元春挙のほか、鈴木百年に師事した今尾景年や鈴木松年、久保田米僊らが活躍しました。鈴木百年は、狩野派や円山・四条派、文人画などあらゆる流派の画風を学んで独自の画風を打ち立てた人物です。
 深田直城は四条派の森川曽文に学んだ画家で、京都府画学校にも出仕しましたが、のちに大阪へ移り住んで多くの弟子を育てました。円山応挙に学び、与謝蕪村の画風を慕った上田耕夫の子として生まれた上田耕冲は、円山・四条派風の山水図や花鳥図を得意として大阪で活躍しました。その息子である上田耕甫は、直城らとともに住友家が来賓をもてなす際の席画を担当していたことが知られており、同じく席画を担当していた京都の望月玉溪とは交流があったと考えられます。また、秦テルヲは京都で学んだ後、一時期大阪で活動していたことなどから、当時、画家たちは京都と大阪を往来し、親しく交流していた様子が窺えます。


書を持って街へ出よう——引用・参照の美術 ドミニク・ゴンザレス=フォルステル《無題(映画について)》2013年 「オーダーメイド」展での展示風景、2016年 撮影:河田憲政

 富岡鉄斎が座右の銘とした「万巻の書を読み、万里の道を行く」という言葉にちなみ、過去の歴史や文学、映画などの引用・参照を通して創作活動を行うアーティストを紹介します。
 書物に親しむこと自体を作品化したのが、ドミニク・ゴンザレス=フォルステルによる緑色のカーペットの上に書物を積み重ねたインスタレーション。映画論や映画の原作小説など映画にまつわる作家推薦の図書が並び、来場者もカーペットの上で手にとって読むことができます。
 映画と写真の関係に注目したのがアナ・トーフです。男性が杯を向けるのは、スライド映写機の光の画面上に書かれた「vérité(真実)」の文字。これはゴダール監督の映画『小さな兵隊』の登場人物の台詞「写真が真実なら、映画は一秒24コマの真実だ」を参照したものです。同様にスライド映写機を用いて静止画の連続によって映画的な時間を生み出しているのが、マルセル・ブロータースの《バトー・タブロー(船の絵画)》です。詩人でもあったブロータースは、ボードレールやマラルメなど19世紀の文学者を主題とした作品を手がけましたが、ここでは19世紀のアマチュア絵画の船や海、乗組員などのクローズアップを通して、抽象的な航海の物語を紡ぎ出そうとしています。絵画に時間性を与えるという意味では、福田美蘭もまた、ベラスケスの厨房画の制作過程を3段階に描き分け、レンチキュラー板を利用し、視線を右から左へと移すことで、名画の制作過程を提示しています。
 モチーフとする原作に独自の解釈を加えることで、表現につなげる作家もいます。やなぎみわが取り上げるのは、ガルシア=マルケスの著作『エレンディラ』の「無垢な」少女と「無慈悲な」老女の物語。やなぎの作品では、両者とも少女が演じることで、おとぎ話における女性の老若についての先入観に疑問を投げかけます。マックス・エルンストは、19世紀の百科事典や挿絵入り小説の版画を丹念にコラージュした『慈善週間または七大元素』を手がけています。ここでは頭を動物に置き換えられた人間による、さまざまな残虐的行為が描き出されています。大義の元で振りかざされる人間の残虐性は、ヤン・ヴォーが見出した、フランス占領下のベトナムで布教活動を行っていたカトリックの宣教師の手紙からも読み取ることができます。宣教師が処刑直前に書いた父親宛の手紙の文面を、ヴォーはカリグラフィーを得意とする父親フン・ヴォーに書き写してもらい、無限に複製させていくのです。この丁寧に綴られた文字を読む私たちは、ベトナム戦争時に家族とともにボートで国を逃れ、デンマークの商業船に難民として救助されたというヴォー自身の生い立ちと、西欧による植民地政策という政治的歴史をおのずと重ね合わせることになります。トーマス・シュトゥルートやダヤニータ・シンによる美術館や資料庫の写真が伝えるのは、こうした過去の記憶を未来に向けて記録・保存しようとする人間の営為そのものであると言えるでしょう。


明治の工芸―継承と変化 七代錦光山宗兵衛《煎茶飾図花瓶》1868-1926年

 明治時代の工芸は、幕末の混乱から、大政奉還と東京奠都を経て、それまでの作家と顧客との関係が大きく変化するなかで制作された作品が多くみられます。京都においても、寺社や将軍家の庇護のもと成立していた制作に、新たな販路を必要としました。近年では、分業された各制作工程のもと、技術の高い工人たちが結集して生み出した明治工芸の魅力と、ジャポニスムに留まらない、国内での歴史的位置づけの検証が進められています。
 例えば七代錦光山宗兵衛は、天保年間から京都の粟田口で陶器を製造してきた錦光山家において、六代錦光山宗兵衛(1824–1884)が着目した海外輸出の道筋を飛躍的に発展させます。薩摩金襴手様式にならった京薩摩は、錦光山工房の代表的な作風であり、水金を応用した上絵の金色の表現や、西洋絵の具の使用など、新たな技術を導入しています。国内外の博覧会は発表と研鑚の場となり、明治33年(1900)には自らパリ万博を訪れて、国際的な動向を視野に、経営をおこないました。
 海外の需要に応えるためには、洗練された図案が重視されました。明治7年(1874)に設立された起立工商会社では、専門の絵師が図案の作成や絵付をおこない、職人を組織して制作しています。すでに江戸で蒔絵と絵画の評価が高かった柴田是真や、その内弟子の池田泰眞、また白山松哉なども参画したといいます。海外に向けては一般的に、花鳥画や日本の風俗が好まれたとされますが、そのモティーフだけをみれば、雀や燕、鶏に、蝉、竹や柳、瓢など古典的にも思われ、作り手が継承してきた価値観や、需要者層の幅の広さがうかがわれます。「田子浦」や「名取川」などの歌枕は、描かれ方を変えながらも息づき、誰かの「現地への憧れ」を搔き立てたのかもしれません。


河井寬次郎作品選 河井寬次郎《愛染鳥子》1920年頃

 近代日本を代表する陶芸家の一人である河井寬次郎は、明治23年(1890)に現在の島根県安来市に生まれました。東京高等工業学校(現、東京工業大学)を卒業後、京都市陶磁器試験場に技手として勤務し、膨大な数の青磁や辰砂などの釉薬の研究に没頭します。大正6年(1917)に試験場を辞した後、大正9年(1920)に自身の登り窯(鐘溪窯)を手に入れます。大正10年(1921)には、最初の個展を開催し、中国や朝鮮陶磁を手本とした作風で高い評価を得ます。この時期の河井は、「彗星登場」「国宝的存在」などと称されますが、その評価に安住することなく、河井はその後、創作の方向を大きく変え、民藝運動を推進する中で、暮らしと創作の密接な関係において作陶を展開していきます。河井の作品における造形性は、晩年に向かうほど、ますます意欲的となり、生命の喜びに溢れたものとなりました。
 当館所蔵の河井寬次郎作品は、長年にわたる河井の支援者であった川勝堅一氏によるコレクション(川勝コレクション)が中核をなしています。川勝コレクションは、昭和12年(1937)のパリ万国博覧会グランプリ作品を含む、質、量ともに最も充実した河井の作品群です。また、初期から晩年までの河井の代表的な作品を網羅した、河井の創作意識の変遷を辿る上での基準資料としても広く知られています。さらに当館には、これまでに川勝コレクション以外にも河井作品が寄贈されてきました。ここでは、川勝コレクション及びそれ以外にご寄贈いただいた河井作品を通じて、河井寬次郎の世界をご紹介します。


鉄斎を慕う洋画家たち

 江戸時代に儒学や国学や仏教学を修め、絵画を独学し、近代以降も長く活躍し続けた文人画家、富岡鉄斎。彼は同時代の人々からは不思議な評価のされ方をした人です。1924(大正13)年89歳で亡くなった彼は、その生涯の前半までは、旧時代の古い学識の継承者として敬われ、後半からはむしろ、最先端の芸術家たちにも負けないほどのユニークな表現を見せる画家として注目されるようになったのです。日本画家の今村紫紅、安田靫彦、土田麦僊、小野竹喬などが鉄斎の新しさに注目したことはよく知られていますが、大阪出身の洋画家、鍋井克之が「鉄斎は不思議にも洋画家に愛好家が多い」と述べたように、実は鉄斎を特に高く評価したのは、西洋美術の新動向に通じた洋画家たちでした。
 その代表格が正宗得三郎です。アンリ・マティスに学んだ彼は、鉄斎に憧れ、京都の鉄斎宅を何度も訪ねて親しく教えを受けました。晩期には鉄斎研究の成果を一冊の書物にまとめて刊行したほどです。鉄斎が亡くなった際に正宗が制作した油彩の肖像画は、「没後100年 富岡鉄斎」展の冒頭に展示されています。
 京都出身で、ルノワールに学んだ梅原龍三郎も、鉄斎の色彩表現を礼賛し、「近き将来の日本美術史は徳川期の宗達、光琳、乾山とそれから大雅と浮世絵の幾人かを経て明治大正の間には唯一人鉄斎の名を止めるものとなる」とまで述べました。
 同じく京都出身で、ヴラマンクに学んだ里見勝蔵も、「雪舟・大雅・鉄斎の道こそ心ある画家の行くべき道である」と論じました。
 ここでは梅原や里見をはじめ鉄斎を慕った洋画家たちの作品を特集します。


自転車にのって ―乗り物の動力― 國府 理《プロペラ自転車》1994年 撮影:豊永政史

 富岡鉄斎の活動期(1836~1924)は、鉄道や自転車といった乗り物が発展し、市民生活に根差した時期に重なります。1877年に開業した京都駅は現在、国内外からの多くの人々を迎える玄関口です。川端弥之助の油彩画にはこの駅の100年ほど前の姿が記憶され、かつての木造の駅舎や蒸気を上げて走る汽車を見ることができます。ウクライナに生まれフランスで活躍したカッサンドルや、アメリカの写真家W.ユージン・スミスの作品にも、高速で走る鉄道車両の堂々たる姿や、交差した線路が抽象を描く様子が鮮烈なイメージとして表れるように、19世紀以降鉄道は多くの作家を魅了するモチーフになりました。
 鉄道が蒸気や電機の力を使って動くならば、自転車は人の力で移動する乗り物です。自転車の誕生には諸説あるものの、地面を足で蹴り前進する1817年にドイツで誕生した「ドライジーネ」という二輪車が元祖と言われています。そして1860年代には前輪にペダルのついた量産型へと発展し、1890年代に入ると現在のようなチェーン駆動の自転車が欧米で広く普及しました。日本には1860年代後半にヨーロッパの自転車が輸入されたとされ、徐々に国内での生産が盛んになった結果、1930年代頃には保有率が飛躍的に増加します。野島康三の写真と谷中安規の木版画はちょうどこの時期に制作されたもので、どちらの作品にも自転車に乗る女性の姿が印象的に捉えられてます。
 こうした乗り物の創成期に思いを馳せながら制作された作品が、國府理の《プロペラ自転車》です。本作のような國府が生み出すすこしふしぎな乗り物は、ポーランドの作家クシシュトフ・ヴォディチコによる、家を持たない人々のための移動可能な住居《ポリスカー》のユニークな機能やフォルムに通じています。
 乗り物が何らかのエネルギーを動力とするよう、人々は環境へのダメージを厭わずにエネルギーを使い利益や利便性を追求してきましたが、当然ながら人間の社会は自然と地続きにあります。畠山直哉は、エネルギーを象徴する工場の煙が雲のように青空へのぼる様と、真っすぐな水平線が美しい自然の風景を並置しながら、人為的な営みと自然との間には明確な境界線が引けないことを力強く伝えます。しかしチェルノブイリの原発事故のように、人間の欲望は時に取り返しのつかない結果をもたらすことがあります。展示を重ねるたびに形がぼろぼろと崩れる鯉江良二の作品は、自らを差し出すことで社会や人間に対する強い批判を込めているようです。
 自然災害や戦争、人権問題など、厳しくやるせない現実に直面し続ける今日、ルーシー・オルタのシェルターとしての被服は、安全な場所に身を置くことや、どんな時も個の尊厳を尊重する重要性を考えるヒントになるでしょう。そしてたとえ元の形が壊れ、傷ができてしまっても、その姿はなお美しく逞しいことを竹村京の「修復シリーズ」は伝えています。


会期 2024年3月14日(木)~5月26日(日)


テーマ 西洋近代美術作品選
明治時代の京都・大阪の日本画
書を持って街へ出よう——引用・参照の美術
明治の工芸―継承と変化
河井寬次郎作品選
鉄斎を慕う洋画家たち
自転車にのって ―乗り物の動力―
常設屋外彫刻

展示リスト 2024年度 第1回コレクション展 (PDF)

音声ガイド 音声ガイドアプリご利用方法(PDF形式)

開館時間 午前10時~午後6時
*金曜日は午後8時まで開館
*入館は閉館の30分前まで

観覧料 一般 :430円(220円)
大学生:130円(70円)
高校生以下、18歳未満、65歳以上:無料
*( )内は20名以上の団体
国立美術館キャンパスメンバーズは、学生証または職員証の提示により、無料でご観覧いただけます。
*チケットは日時予約制ではございません。当館の券売窓口でもご購入いただけます。

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夜間割引 夜間開館日(金曜日)の午後6時以降、夜間割引を実施します。
一般 :430円 → 220円
大学生:130円 → 70円

コレクション展無料観覧日 2024年3月16日(土)、3月23日、3月30日、5月18日
*都合により変更する場合がございます。

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