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展覧会投稿 No. 3  岩城見一「《没後10年 麻田 浩展:電子メール討論会》のための幾つかの視点」

投稿 No. 3  岩城見一「《没後10年 麻田 浩展:電子メール討論会》のための幾つかの視点」


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京都国立近代美術館 館長・岩城見一

  すでにお知らせしましたように、現在開催中の「心の原風景 没後10年 麻田浩展」に関連して、展覧会最終日にシンポジウムを開催します。このシンポジウムを実りあるものにするために、「揺らぐ近代」展に続き、今回もシンポジウムに向けて「電子メールによる討論会」を展覧会の会期中続けてゆくことにしました。幸いすでにお一人の方からご意見をいただいていますが、今後さらに多くの方の積極的なご参加をお待ちします。
  この電子メール討論会に参加いただくために、この展覧会の企画と展示、図録作成を担当しました当館主任研究員山野英嗣より、この展覧会、そして討論会の趣旨をまずホームページでお知らせしています。ご参照ください。
  どの展覧会に関しても、それぞれの展覧会がどのような意味をもつのか、なにをどのように見ていただきたいのか、このような展覧会についての考え方(コンセプト)をできるだけ分かりやすく説明し、また美術館を訪れる方々に理解していただくこと、さらにはこの問題について人々の意見や批判を聞き、それに答える努力をしてゆくことは、国公立の美術館で展覧会を開催する者にとりもっとも初歩的で大切な務めです。展覧会自体に対して少々懐疑的とも言える(「今、なぜ麻田浩なのか」)がこの討論会のタイトルに掲げられましたが、それも、そのような「展覧会自体の意味を問う」という意図からです。しかも、今回展示される麻田浩の作品については、大変熱心なファンがおられるとともに、ほとんど知らない方も多くおられます。それだけに、上のようなタイトルで一度議論しておくことは、この画家の作品の意味を考える上でも、またこの画家が日本現代美術史や批評の世界であまり論じられてこなかった理由を考える上でも、必要なことだと私は考えています。
  ここでは、麻田浩の絵画を語り合うための糸口として、現在私が考えています幾つかの視点を呈示させていただくことにします。
  〈第一の視点〉は、言うまでもなく麻田作品を実際に見て理解に努めることにあります。これが出発点であり、また色々なことを考えたり調べたりした後に戻る最終点でもあります。特に麻田の作品には実に多くのものが描き込まれ、濃密な絵画世界が生み出されていますので、細かな作品理解の試みは楽しくもあり、また不可欠でもあります。描かれているモチーフの幾つかは、しばしば過去の絵画から引用されてもいます。これによって麻田の絵画は単に感覚的な喜び、美的なものへの喜びを得るために描かれたものではなく、深い歴史的な意味とつながるかたちで描かれたものだという側面が際立ってきます。言い換えれば、麻田の絵画は、「知覚に照準を合わせた絵画」であるよりも、「記憶に密接に関わる絵画」だということになります。このような過去の記憶についての麻田自身の理解にはどのような特色があるのか、描かれているモチーフはどこから来たのか、これは麻田の作品を理解するうえで一つの大切な視点になります。
  この点で、麻田の言葉が参考になります。ここでは、1976年と1980年に大阪のフォルム画廊で開催された麻田の個展のときに作られた小さな図録に掲載された麻田の文章を参考資料として挙げておきます。これを敢えてここで紹介しますのは、この二つがそれ以後の麻田の絵画についての「批評」の基礎になり、また麻田の絵画についての理解を方向づけているからです。ここに第二の視点が出てきます。麻田絵画についての批評言説の検討です。これも第一の視点に劣らず大切な視点になります。芸術作品は決して直接見て楽しまれ、また理解されているのではなく、意識的無意識的を問わず、いつもある「特定の批評の枠組み」から見られているからです。
  例えばゴッホも「直接ゴッホ」なのではなく、私たちはゴッホの作品をいやおうなしに、様々な「ゴッホ言説の枠」から見ています。近年多くの人がゴッホ展に殺到したのは、「強度のゴッホ言説」がすでに、そして今もなお、私たち日本人の感覚の深いところまで浸透し、私たちを背後で動かしていたからに違いありません。このことを知るためにも、批評に眼をとめる必要があるわけです(注1)
  麻田の言葉についても注意が要ります。参考資料にある二つの文章は、ともに麻田が自分の過去を振り返るかたちで書かれています。つまり「自伝」のかたちになっています。「自伝」さらには「伝記」では、それが自分の過去であれ他人の過去であれ、常に「現在のその人」から見た「過去」が描かれます。つまり過去(子供時代や若い時期)は、決して「客観的なのもの」として描かれるのではなく、過去をすでに後にした現在との関係から、あるいは現在の自分や他人を正当化したり、逆に否定したりするための過去として語られます。言い換えれば〈過去に現在が読み込まれている〉のです。ですから〈現在によって、あるいは現在の視点から脚色された過去〉が、「自伝」や「伝記」における「過去」です。注意が要るのは、そのような自伝や伝記に描かれた(=脚色された)過去を、そのまま作者や作品理解のための「客観的証拠」としてもち出す事はできないということです。客観的で純粋な過去などありません。過去はいつも現在から見られることで、はじめて「過去」の意味を受け取るからです。しかしこのことは、芸術を語る際には残念ながら余り反省されてはいません。だからしばしば、作家の過去の生活の苦労や精神的な悩みや、あるいは生い立ち、生まれつきの気質等々がそのまま作品理解に当てはめられてしまうわけです。私はそのような説明にいつもうんざりしています。このようなことを考える一つの視点を得るために、これまでの麻田論をみておくことが「第二の視点」になります。この点については、しばらく準備させていただき、一週間ほど後に改めてホームページに載せたいと思います。

(2007/08/17 京都国立近代美術館 館長・岩城見一)


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脚注

(注1)
このような日本における「ゴッホ神話」の形成史をたどった研究成果として、木下長宏氏の研究があります。これは日本の近代芸術史を考える上でも大切な参考文献だと私は考えています。
木下長宏『思想史としてのゴッホ 複製受容と想像力』学藝出版 1992年。

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参考資料

参考資料1
『麻田 浩   絵と語る… (石・水・土)』大阪フォルム画廊 1976年
「石・水・地(小さい世界)」

〔三十年も以前になるはずの幼年時代の事を,近頃はっきりとした映像と土の香りをともなって思い出すことがある.一人で庭の端にひざまずいて,木の葉をみたり,小石を集めたり,下草をちぎったり,秋に木々がつける小さい実に触ってみたり.あきずにそうした孤独な遊びにふけったものだ.そこには充実した透明な時があった。その時が現在に至るまで細くたえず裡を流れて来ているように感じる.それはまず子供が手にする自然と世界であり,小さい部分への偏愛だった.

青年になり,絵を描きはじめて,果物をななめに半分に切った断面に興味をもったり,草花の芽を写生したり,また路上に散乱したモンシロチョウを点々と並べて描いたりしたのを思い出す.欲深くも一つの意味を絵の奥にもたそうとしていたわけだ.

一昨年の“原風景”と題した大作中心の個展作品を制作中に,次は小さいもの,小さい部分の世界をあらためて凝視してみたいと思った.外界の小さい部分を想像力をもって観ると、意外な発見があり,私には発見された小さな出来事が象徴的な意味をもっているように思えるのだ.小さな部分に全世界が宿っていると感じるからだ.

制作にはいってみて,今度は観察よりも空想に多くを頼ったようだ.描きすすんで作品たちを並べて眺めると,雑多なモチーフの中から,おのずと石と水と地といった題が現われてきた.そこで「石・水・地」,副題として「小さい世界」となづけてみた.

パリにて  麻田 浩〕


参考資料2
『麻田 浩油彩画展』大阪フォルム画廊、1980年
「個展によせて」

〔ノアの大洪水の物語は、私が幼い時から心惹かれるはなしだった。創世記の「主は人の悪が地にはびこり、悪い事ばかりなのを見て心を痛めて、主が創造した人も獣も這うものも空の鳥もこの地上からぬぐい去ろう……」と云う訳で暴風雨をおこし地を濁流でおおつて了った……云々の話は、今でも私がそこから想像をふくらませて行く物語の一つだ。

サン・サヴァン教会堂の身廊のフレスコ画、ミケランジェロのそれ、とヨーロッパ中世以来この主題を描いた名作も多いが、私は何と言っても、フィレンツェのサンタ・マリヤ・ノヴェラ寺院にあるウッチエロの大フレスコ画を見た時の衝撃を忘れられない。ロッテルダムのボイマンス美術館にあるボッシュのそれも大好きで何度も出掛けた。

洪水と云うと、デューラーが夢に見て恐怖で目覚め大急ぎで水彩画にした、天から束となって落下する巨大な水柱も頭にこびりついている。不思議に大好きな絵の題材に水に関係があるものが多い。「バシュラールのものを読んでるでしょう。と言われる事があるが、そんな哲学的なものは、とてもむずかしくて私は苦手だ」単純に恵みと破懐をもたらす、しかも日常的なものとして一応理解しているが、やはりそう簡単なものではない。私の事だから感覚的に捉えられる面からのささやかな観察からだが結構想像力が呼びおこされるのを感じる。今回のこの小個展の20号の「洪水のあと」はそんな思いもあって、くりかえし過去に描いて来た主題だが、又ここに一つ新しく考えて描いて見た。

少年時代に読んで、さっぱり訳がわからないままに心惹かれた本に、リルケの「マルテの手記」がある。彼のパリ体験がどんな種類のものであったか、今はよくわかる。又彼の日記もよく読んだ。

この本を読んだ頃から20年ものちに、私はパリに到着した。と云う事はリルケがパリでロダンの秘書の様な事をしていた頃から80年近くの歳月が流れている(ちなみにリルケが一時住んでいたカンパーニュ・プルミエール街17番地に、今フランス画家のワイズ・ブッシュ、が居て、それが彼の自慢だ。)しかし、私は当時マルテ(リルケ)が見たのとほとんど変りのないパリに出合った様な気がした。この街の異国から来た人々に与える生理的なまでの冷たく、かたい、圧迫感、拒絶感、孤立感は、まさに雨が身に滲み通るごとく身の回りをとりまく物々が、その本来の機能など知ったものかと云う顔で、不気味なしかも硬いオブジェとして追って来る様で、印象派の、エコール・ド・パリ、の画家のあのはなやかなパリは一体何処へ行って了ったのかと思わせる。

パリ到着当初は結構なものにみちている、美術館へ出掛ける元気もなく、日夜身の回りをとりまくオブジェが敵でもあり又唯一の友でもあって、そんなことにかかずらっていた。9年経た后の現在でも、その心理的状況は、さしてかわってはいない。ミュンヘンのシュヴァービンクなどで抒情詩を書いていたリルケはロダンの影響もあり「まず見る事を学ばねばなりません」と云う訳で、パリの街を、もろに生身を硬質な岩の様な物にこすりつける様にして漂泊し、詩をも彫刻の様に一つの実在する物にしたいと希った。それが「新詩集」として世に出たのだった。私はささやかながらそうした思いをこめて物を、オブジェを描いた。

ここまで書いて来るとボードレールの悪の華の「秋の歌」を憶う。このパリでお会いした事のある粟津則雄氏の口語による翻訳と分析のおかげで、私も何か心にのこる歌だ。私のようなものには理解するなど及びもつかないことだが、9年間、パリの秋の「冷い闇」を経験し、漠然としかし圧倒的な不安な力をもって心をしめつけられ、又ささやかな頭を活動状態に引き出させながら、自覚され言語化された形で表現出来ない者にとって、自分の印象に確かな形があたえられる思いがして感動した。「霊性のしみとおった物質感」と指摘される時、私の感覚に言葉があたえられた様な思いがした。20号の「秋の歌」はこの詩がきっかけになって描き出したものだ。

私は勝手に、又この詩から、この世の終末………アポカリプス……を想像している。

ノアは三階建ての「箱」の舟をつくる。そんな巨大な舟を木材で造り得たのも、アスファルト(ヴィチウム)があったおかげだが、アスファルト即ち地にしみ出した原油ガソリンがまさにアポカリプス・ナウの象徴のごとく人類の歴史の草創期以来の大河をはさんで、これを書いている今、現在テレビではジェット機による爆撃ではげしい戦争に突入したありさまを写している。

バベルの塔はさておき、箱舟が漂着したと言われるアララト山は何を見て来たし、又、今、見ているのか。少し身が戦慄する思いがする。

1980年9月27日 
パリにて 
麻田 浩〕




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