キュレトリアル・スタディズキュレトリアル・スタディズ 03 ウィリアム・ケントリッジ——Part II
新収蔵作品研究《やがて来たるもの(それはすでに来た)》
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キュレトリアル・スタディズ 03 ウィリアム・ケントリッジ——Part II
新収蔵作品研究《やがて来たるもの(それはすでに来た)》
2008年11月11日(火)~12月25日(木)
京都国立近代美術館 4F コレクション・ギャラリー
ウィリアム・ケントリッジ 《やがて来たるもの(それはすでに来た)》 2007年
材質・技法・形状 | 35mm映画から変換したDVD、軟鋼製のテーブル、鏡面加工した円筒 |
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上映時間 | 8分40秒 |
音楽 | ドミートリイ・ショスタコーヴィチ 《ピアノ三重奏曲第2番》 |
ミシェリ&ルッツィオーネ 「ファチェッタ・ネラ〔黒いお顔〕」 | |
エチオピアならびにエリトリアの音楽、作者不詳 「ムビルタのソロ」「ラブソング」「皇帝への歌」 |
※京都国立近代美術館 平成20年度 新収蔵作品
ウィリアム・ケントリッジ 《やがて来たるもの(それはすでに来た)》 2007年
マリアン・グッドマン・ギャラリー(ニューヨーク)でのインスタレーション風景、2008年
ウィリアム・ケントリッジ(1955、南アフリカ生)は1980年代末から、木炭とパステルで描いたドローイングを映画用35㎜撮影機を用い、ドローイングの部分修正を重ねながら一コマずつ撮影、文字どおり動く素描と呼べるコマ撮りアニメーションを制作してきた。彼の作品は南アフリカの歴史と社会状況を色濃く反映するもので、自国のアパルトヘイトの歴史を痛みと共に語る初期作品(ソーホー・エクスタインの連作)は、脱西欧中心主義を訴えるポストコロニアル批評と共鳴する美術的実践として、世界中から大きな注目を集めた。しかし彼の作品を冷静に注意深く解読すると、政治的外見の奥で、状況に抗する個人の善意と挫折、庇護と抑圧の両義性、そして分断された自我を再統合しようとする努力とその不可能性など、近代の人間が直面してきた普遍的かつ根源的問題を、執拗に検証し語り続けていることが分かる。彼自身が「石器時代のアニメーション」と呼ぶ素朴な制作技法に固執していることも、それが近代の物語(ナラティヴ)生成の原点を探ろうとする意志によるものと理解すべきなのかもしれない。精緻なセル画アニメやCGが主流である時代にあって、彼の素朴なアニメーション技法による作品は対極に位置するものである。しかしその斬新で力強い表現は、素描によるコマ撮りアニメーションが未だに有力な表現手法となり得ることを証明しており、1990年代初頭から彼の作品は、世界中の若い世代の美術家たちに大きな影響を与え続けている。
1990年代後半からケントリッジは、18、19世紀の光学装置への関心をさらに深め、あたかも映画(ムービング・イメージ)の原点を探るかのように、影絵、ステレオスコープ、カメラ・オブスクーラ(暗箱)、ゾートロープ、アナモルフォーシス(歪像)などから着想した興味深い作品を制作している。
ガスパール・ショット 「アナモルフォーシス」 1657年
《What Will Come (Has Already Come) 〔やがて来たるもの(それはすでに来た)〕》(2007)は、天井から投影される円形の歪像(アナモルフォーシス)を、テーブル中央の円筒鏡で正像として鑑賞する作品であり、回転するメリーゴーラウンドと円盤状のゾートロープから着想されたことが想像できる。しかしこの作品は、ゾートロープのスリットで断続された残像効果によるムービング・イメージではなく、テーブル上に投影された回転する歪像を中央の円筒鏡(スクリーン)に反射させるため、画像は遮断されることなく回転し続ける。この作品で重要なことは、鑑賞者が2種類の映像を同一視野の中で「視る」ことを強いられることである。意味を反転された二重の映像、つまり、テーブルに投影された映像(実像:実は歪像=虚像)と、円筒鏡で補正された映像(正像:実は虚像)を同時に視ることで、鑑賞者は個別的な視覚認識操作を行い、作品として鑑賞者自身が了解できる映像を、鑑賞者自らが再構成し生成する必要が生まれる。
ゾートロープ 1830年代中葉
投影される映像にはメリーゴーラウンドの木馬だけでなく、サイ、ヤギ、ラクダ、飛行機、戦車、爆弾、アヤメの花、鳥、ガスマスクなどが含まれる。音楽も遊園地の騒音と共に1930年代のイタリアとエチオピアの流行歌が使われており、やがて鑑賞者は、この作品が1930年代のイタリアのエチオピア侵攻に言及した物語であることに気付いていく。
この作品は、ケントリッジが継続してきた「西欧世界のアフリカへの干渉」をテーマにしていることは言うまでもないが、それ以上に興味深いことは、彼が20世紀的意味での映画(ムービング・イメージ)の原点を、2種類の異なる技術的、概念的な源泉から語ろうとしていることであろう。私たちは、カメラ・オブスクーラから写真術へ、そして静止画像の連続投影と残像効果の応用による映画術へと至る歴史を、映画の技術史として了解している。ケントリッジはたぶん、影絵や、ガラス板に描いた絵を投影する幻灯(マジック・ランタン)から映画に至るもう一つの映画の技術史について語ろうとしているのかもしれない。光を記録する写真術から展開された映画は必然的に「実写記録(ドキュメント)」を本質とするが、描かれた絵を投影(プロジェクション)することから展開されたもう一つの映画技術史はフィクションを本質とする、と言い換えることができるかもしれない。
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