『日本画』の前衛 各章解説


T.「日本画」前衛の登場

 はじめに2点の作品を紹介したい。1点は山岡良文の《シュパンヌンク》(no.1)と題された作品。もう1点が山崎隆の《象》(no.2)。ともに1938(昭和13)年の制作である。
 「日本画」の表現舞台に登場する「前衛」作品として、本展覧会では、冒頭にこれら2点の作品を位置づけた。それ以前の1920年代にも、来日したブルリュークらロシア未来派の画家たちの影響を受けた尾竹竹坡や、「三科」に属し自ら「前衛」立体作品までも制作した玉村善之助(方久斗)らの「日本画家」がいた。しかし、《シュパンヌンク》そして《象》の作品こそは、尾竹や玉村も達し得なかったばかりか、それまでの「日本画」にまったく見られない「純粋抽象(非対象)」表現だった。
 本展覧会は、この2点の作品に注目することからはじまる。そして《シュパンヌンク》は第1回の歴程美術協会展(1938年11月)に、《象》は翌年の歴程美術協会の試作展(1939年4月)に出品された。このように思い切った表現の作品が出品された「歴程美術協会」とはどのような集団であったのか。「歴程」については、次章で触れるとして、まずは《シュパンヌンク》と《象》の作品に眼を向けてみたい。
 「日本画」としては異色のタイトル《シュパンヌンク》。《シュパンヌンク》(Spannung)とはドイツ語で「緊張」、そして造形的には「ふたつ以上の事象の間に派生する緊張関係」を意味する。しかもこの言葉は、「抽象絵画の父・カンディンスキー」がバウハウス時代に発表した著作『点と線から面へ』(1926年出版)のキー・ワードでもあった。なぜ、作者・山岡良文がこの言葉に想を得て作品化したのか。意外に思われるかもしれないが、この疑問に答える鍵として、1934(昭和9)年に出版された川喜田煉七郎と武井勝雄の共著『構成教育大系』(学校美術協会出版部)をあげたい。
 建築家・川喜田煉七郎の主導で公刊された同書は、当時の美術教育界にも流布して影響力をもっていた。ここで展開された中心テーマのひとつが「シュパンヌンク」であり、それは本邦初公開の概念だった。この『構成教育大系』には、『点と線から面へ』の掲載図版も引用されていた。同じく建築家をも志していた山岡良文が、「シュパンヌンク」について、この『構成教育大系』から学んでいたことはほぼ間違いない。実際《シュパンヌンク》の作品は、バウハウスでカンディンスキーが学生たちに伝授した造形実践かとも見まがうようだ。また、V章でも紹介する同じく山岡の《作品》(no.45)にも、バウハウス的造形が試みられている。さらに興味深いことに、『構成教育大系』にはフォトグラムの作品例も数多く紹介されていた。フォトグラムといえば、バウハウス時代のモホイ=ナジの実践を思い起こすが、「歴程」の機関誌『歴程美術』第1号(M‐2)には、ナジの「アメリカの新バウハウスに就て」の翻訳文まで掲載された。これも「歴程」で中心的役割を果たしていた山岡の意向が強くはたらいていたからだろう。
 山崎隆の《象》に見られる躍動感あふれる「抽象」表現も、あたかも『構成教育大系』で「舞踊家が飛躍した瞬間」と「シュパンヌンク」を説明しているその記述とも響きあう。こうした新機軸の「日本画」表現は、それまでの「日本画」にはまったく存在しない。まさに伝統的表現との決別を謳う日本画「前衛」の登場だった。


U.前衛集団「歴程美術協会」の軌跡

 山岡良文や山崎隆らが参加していた「歴程美術協会」とはどのような集団であったのか。 「歴程美術協会」は1938(昭和13)年4月に結成されたが、ここには次章でもあらためてとり上げる「日本画家と洋画家」交流の一端が如実に示されている。同年2月に、日本画家集団である新日本画研究会が新美術人協会へと発展するのを機に、新日本画研究会に属していた山岡良文、岩橋英遠、船田玉樹、田口壮らの画家たちは、新たな表現を模索する団体の結成へと動く。山岡、岩橋、船田は「日本画家」でありながら、すでに長谷川三郎や村井正誠らを擁する「洋画の前衛」集団・自由美術家協会にも属していたのは、それぞれ相通じあう造形意志を共有していたからだろう。加えて、自由美術協会展にも出品していた丸木位里、濱口陽三、そして美術評論家の四宮潤一らも集まり、「歴程美術協会」は結成の運びとなった。「歴程」の名は瀧口修造の命名によるもので、シンボルマークのデザインも瀧口が行った。東京で開かれた研究会には、福澤一郎や長谷川三郎、村井正誠、小野里利信らも参加したという。
 結成の年の11月、第1回の展覧会が開催され、前章で紹介した《シュパンヌンク》(no.1)をはじめ、山岡良文の代表作《放鳥》(no.5)や《朝鮮古廟》の連作(no.6)、若くして亡くなった田口壮のシュルレアリスムの詩というべき秀作《季節の停止》(no.3)、そして船田玉樹の色彩も鮮やかな《花の夕》(no.4)などの力作が並んだ。本展覧会ではじめて公開する第1回展の『芳名録』(M‐1)には、福澤一郎、村井正誠、小野里利信、瀧口修造をはじめ、靉光、山口薫、瑛九、難波田龍起、山本敬輔、太田聴雨、柳宗理、東山魁夷らの名もあった。
 しかしながら、何よりも見逃せない事実は、「歴程」結成の4月に国家総動員法や灯火管制規則が公布され、美術界でも同年6月に大日本陸軍従軍画家協会が結成されるなど、日本全体が緊迫した雰囲気に包まれ、まさに開戦前夜の非常時であったことだ。こうした時代に、果敢にも新たな「日本画」表現を求め、志を同じくする若い画家たちが集まったことこそ見逃してはならない。
 そして、機関誌『歴程美術』第1号(M‐2)には、次のような宣言文が記されていた。 「歴程美術協会は今日の日本画人の因襲的なる思想と技術を拒否し造形芸術の本質に立返り反省と再出発を自覚した人々による団体であります。我々は新時代の建設に向かう為所謂、温故知新、古今東西に視野を拡大することによって彼の因襲的な頭脳の固定を打破して民族財としての芸術を明日の世界文化の線に沿う世界財として実現せんとする意欲を持つものであります」と。
 「民族財としての芸術を明日の世界文化の線に沿う世界財として実現せんとする意欲を持つ」というくだりには、明らかに時局が反映しているかのような印象を強くもつ。しかし、それまでの伝統にもとづく「今日の日本画人の因習的なる思想と技術を拒否」するという自覚に、新たな「日本画」を創造していこうとする意志が明確に表明されている。
 ところで「歴程展」に出品された作品群のきわだった特色は、抽象やシュルレアリスム、さらにはバウハウスといったヨーロッパ・アヴァンギャルドからの影響のみならず、ジャンルを超えた自由な表現をも認めていたことにある。歴程の第1回展が開催された翌1939(昭和14)年3月に第1回試作展が開かれ、早くもこの展覧会には、村山東呉らが、「フォトプラステイツク」と名付けたフォトグラムの作品を出品していた。まさにモホイ=ナジに感化を受けた実験的試作であり、村山は以後の「歴程展」にも、同じ技法の写真作品を出品していった。だが、この村山や馬場和夫(不二)、松本一穂、蒔田晧成といった注目すべき作家たちの戦前作について、現在ではまったく手がかりが失われてしまっているのは残念だ。
 また「歴程展」は、回を重ねて、刺繍や染織、日本間の襖(「室内装飾」と呼ばれる)、八木虚平(一夫)や戦後日展審査員となる山本正年の陶芸作品、安達式盛花なども並び、いわゆる「綜合芸術表現」を標榜するかのような集団へと変容してゆく。  この章では、「歴程美術協会展」に出品された作品のうち、現存するほぼすべてを集め、あらためて同協会の軌跡とその意義について確認してみたい。


V.「洋画」との交錯、「日本画と洋画」のはざまに

 前章でも紹介した『芳名録』からもわかるように、第1回の「歴程美術協会展」には、自由美術協会に属していた画家をはじめ、数多くの「前衛・洋画家」たちが会場を訪れていた。
 たとえば靉光は、丸木位里とともに1936(昭和11)年から翌年にかけて、動物をスケッチするため、しばしば上野動物園に通っていた。第1回歴程展への出品作《馬(部分》(no.10)や《ラクダ》(no.28)は、このときのスケッチをもとに制作されたものである。靉光の《馬》(no.27)や本展覧会で初公開となる《ライオン》(no.34、『實現』1937年1月号に藝州美術協会展出品として図版が掲載)も、スケッチした下絵から構想が練られた作品に違いない。《ラクダ》は、ふたりの合作ともいわれる。
 ところで本章では、はじめに田口壮の《喫茶室》(no.21)や山岡良文の《窓辺の静物》 (no.22)、初公開となる《消費都市》(no.24)、西垣籌一の《風景》(no.25)などの作品を紹介することからはじめた。これら日本画家たちの作品には、明確に当時のいわゆるモダニズム、すなわちモダンな都市的気分が充満している。それは当時の「洋画」表現とも重なるものだった。なかでも山岡良文の《消費都市》は、新日本画研究会の第2回展(1935年)に出品され、立体的構成にモダニズムの雰囲気が溶け込んだ、まさに「日本画と洋画のはざまに」位置する作品だ。
 また、岩橋英遠の《土》(no.36)は、「前衛洋画集団」自由美術協会展に出品されていたが、山岡良文、船田玉樹、丸木位里らもこの自由美術に出品していた「日本画家」だった。そして、自由美術協会を代表する長谷川三郎の《蝶の軌跡》(no.31)における黒い線描などには、長谷川が生涯のテーマとした「東西文化の融合」の萌芽も指摘できるだろう。同じく自由美術に属した村井正誠の《URBAIN》(no.33)や小野里利信の《黒白の丸》(no.47)の純粋抽象画も、白色の余白の効果を生かした画面処理に、「東洋的」表現の追及の痕跡が刻印されている。岩橋英遠の《森》(no.44)は、本展での初公開作品だが、かつて『實現』(1939年7月号)の巻頭ページを飾り、シュルレアリスムの影響も濃厚に漂う貴重な「日本画」作例である。
 さて、「歴程美術協会」の結成まで、「日本画」における新表現を模索した旗手といえば、吉岡堅二と福田豊四郎そして小松均だろう。とりわけ吉岡と福田は、「洋画」的な新感覚を「日本画」に盛り込んだ大作を精力的に描く。この時代を象徴する「日本画」家として、ふたりは欠かせぬ存在であり、本章でも大きな位置づけを与えている。
 また本展覧会では、堀尾実という「日本画家」にも注目した。この作家については、昨年末から本年はじめにかけて、名古屋市美術館ではじめての回顧展が開催されたが、日本画制作のかたわら油彩画も描き、特異な抽象表現で、美術文化協会でも活動した。そして美術文化協会といえば、京都の北脇昇と小牧源太郎を抜きにして語ることはできない。本展覧会でも、北脇のほとんどの作品を収蔵する東京国立近代美術館から、「日本画」との関連性の色濃い作品を選んだ。
 こうして本章では、モダニズム的傾向の作品から、「日本画」の革新的表現としてのシュルレアリスム、そして山岡良文のバウハウス的抽象作品である《作品》(no.45)、堀尾実らの抽象「日本画」を紹介し、あらためて「日本画と洋画のはざま」に位置するさまざまな問題について、再考できる場とした。


W.戦禍の記憶

 すでに「歴程美術協会」が結成されたその時代背景については、T章でも少し触れたが、「歴程」結成の4月には、国家総動員法や灯火管制規則が公布され、時代はまさに「太平洋戦争開戦前夜」といえる非常時を迎えていた。「歴程」とほぼ同時に陸軍美術協会が結成されると、いわゆる「戦争画」の制作も急増したという。そして同年(1938年)7月には、同協会が「第1回聖戦美術展」を開催し、翌年の4月に、陸軍省から川端龍子、宮本三郎、小磯良平ら12人の画家が大陸へ派遣された。
 こうして日本全体が緊迫した雰囲気に包まれた時代に、果敢にも新たな「日本画」表現を求め、志を同じくする若い画家たちが集まったことは驚きだ。しかし、機関誌『歴程美術』第1号の宣言文中の「民族財としての芸術を明日の世界文化の線に沿う世界財として実現せんとする意欲を持つ」というくだりは、あらためて指摘するまでもなく、明らかに時局が反映しているかのような思いを強くする。
 そして、1939(昭和14)年7月に開催された第2回「歴程展」で歴程美術協会賞を与えられた作品が、山崎隆の《歴史》(no.65)の大作だった。屹立する黒々とした不気味な岩肌に、要塞のように埋められた白亜のモダンな新建築物が描かれているが、画面中央近くにある赤い旗の表現に、作者にも圧力がかかったようだ。そして山崎は第3回展に、その名も《戦地の印象》という作品を3点出品するが、その中の1点が現存し、本展覧会にも出品している(no.66)。
 さらに山岡良文は、フランスとドイツの国境に建設された要塞線を主題に《ヂーグフリード線》(no.9)や《マヂノ線》といった作品を、1939(昭和14)年に開催された「歴程」の第2回試作展に出品した。ここでは《ヂーグフリード線》のように、地図上に乱舞する要塞線に想を得て「抽象化」をおしすすめる実験が試みられていた。
 《ヂーグフリード線》が示すごとく、いわば隠された表現としてではなく、明確に時局を意識した「戦争画」が、回を重ねるごとに「歴程展」にも頻出するようになる。特に1940(昭和15)年に開かれた第4回展には、山岡良文の《矢叫び》(no.12)が出品される一方、現在ではほとんど無名の作家である徳力榮一の《新東亜建設》、中島進の《贅沢は敵だ》《空だ男の行く所》、中村富久男の《日獨伊同盟》、向井四六の《無敵日本》《護れ傷兵》などの作品が並んでいた。
 ところで、吉岡堅二と福田豊四郎は、従軍画家として華北、華中の戦線に赴く経験をもつ。そして1940(昭和15)年2月、吉岡は樺太に渡り、野生のトナカイの放牧を取材し、《氷原》(no.69)の代表作を描く。この動感あふれるダイナミックな画面の創作の根底に、キュビスムの影響があることは疑いない。そして、当時の日本画としても破格の創造意欲は、戦争画《ブラカンマティ要塞の爆撃》(no.76)にも連なるとともに、この作品では「戦争画」という主題を超えて、「洋画」にも迫りうる日本画の迫力といった可能性にも挑戦しているようにさえ見える。
 前章で、日本海の怒涛の様を刻印した福田豊四郎の《濤》(no.29)にも、《氷原》と一脈通じるような表現の痕跡が認められるが、同じく福田の戦争画《英領ボルネオを衝く》の波頭の表現は、さらに表現主義的な趣が漂う。
 そして、山崎隆の《風》(no.71)のまるで亡霊のような人影にも「戦禍の記憶」は忍び寄っているであろうし、《高原》(no.72)《戦地の印象(其四)》(no.73)《戦地の印象(其五)》(no.74)などは、これらすべての作品は、歴程展にも出品されていたのだった。
 「歴程美術協会」は、結成当初、暗雲漂う時代にありながらも、《シュパンヌンク》(no.1)や《象》(no.2)といった作品を掲げることによって、それまでの因襲的な「日本画」表現から脱却しようという姿勢を示していたことがわかる。しかし、日本画に限ることなく、あらゆる造形活動が、それ以前の豊かな成果を踏みにじられる時代へと突入し、歪曲された「伝統回帰」のかたちを露呈してゆく。こうした時代の宿命に楔をさされるようにして、「前衛」活動は否定され、太平洋戦争へと召集される作家も現れ、作品も失われてしまい、そして運動体そのものの終焉へと向かわねばならない運命をたどるのであった。


X.戦後の再生:パンリアル結成への道

 1945(昭和20)年8月15日終戦を迎え、1か月後の9月18日には、早くも文部省美術展覧会の復活開催が決定された。この他、戦争終結後の美術界再開編成の動きには、目を見張るものがある。
 そして1947(昭和22)年7月あたりから、戦前の「歴程美術協会」の再興とさえ思わせるような動きが、「日本画」の画家たちの間で顕著となる。そしてその中心に位置し、さまざまな人脈を駆使してこの動向の立役者となっていた人物、それが山崎隆であった。こう考えるのも、山崎とともに「歴程展」にも出品していた陶芸家・八木一夫(虚平)が、ここに加わっているからだ。
 翌1948(昭和23)年3月、山崎隆、三上誠、星野真吾、不動茂弥、田中進(竜児)、青山政吉、鈴木治そして八木一夫の8名で、「パンリアル」が結成される。いうまでもなく、これまで「パンリアル」の結成については、山崎と並んで、三上誠の名がまず取り上げられてきた。三上は京都市立絵画専門学校(絵専)で、入江波光、上村松篁らに学んだが、卒業後はすぐに副手となり、講師の内定も得るという力量の評価もあった。だが、健康上の理由から、郷里の福井に戻って治療に専念するため、絵専を退職しなければならなかった。しかし、1940(昭和15)年ころから、ともに絵専の日本画科で学んでいたふたりは(山崎は、研究科生として)、 旧知の仲として復員後の1946(昭和16)年に再会し意気投合する。ここで、山崎は、八木一夫や他の作家たちにもはたらきかけて、日本画のみならず、陶芸や写真などの領域までも含んだ戦前においてもっとも注目すべき革新性に富む「総合芸術運動」である、歴程美術協会の再興を目指していたようだ。それゆえ、戦前の歴程美術協会の活動を温床として、「パンリアル」が産声をあげたことは間違いないと思われる。
 そして1948(昭和23)年、「パンリアル」結成の2か月後、京都・丸善画廊(5月21日−25日)に、結成披露の展覧会が開催された。本展覧会では、山崎隆の《神仙》(no.78)《海浜》(no.79)、そして三上誠の《戦災風物誌》(no.80)を紹介する。おそらくこれら3点が、はじめての「パンリアル」に出品された現存する作品のすべてだろう。
 その翌年(1949年)、山崎隆、三上誠、大野俶嵩、下村良之介、不動茂弥、田中進ら計10名のメンバーで、第1回パンリアル展が京都の藤井大丸で開催の運びとなった。このうち、田中進は、パンリアル退会ののち具体美術協会会員ともなり、もはや「日本画」という範疇を超え出た活動を展開した。また創設時に加わっていた青山政吉も、後年は水彩画家として「日本百景」をテーマに活躍した。
 また、「パンリアル」の柔軟な制作姿勢は、美術文化協会の福沢一郎や小牧源太郎を招いての作品研究会の開催にも見ることができる。このことは、主題の上でもシュルレアリスムをはじめとしたヨーロッパの美術思潮の動向に刺戟を得ることのみならず、「日本画と洋画」というジャンル区分さえ超えようとする意志の表れでもあるだろう。それは「パンリアル」が、あくまでも「膠彩」という言葉を標榜しながらも、創作の根底を成す「技法」について、冒険的な実験をあえて試みていることとも共鳴する。
 「パンリアル」の理論的指導者であった京都大学教授・上野照夫が指摘した「従来の日本画の型を破れ」という精神を、「パンリアル」の面々はまさに実践していったのだった。 戦前は「未完の前衛」としての様相を余儀なくされた「歴程美術協会」の活動は、戦後「パンリアル」の結成によって引き継がれ、「日本画」創造の新たな扉が開かれたのだった。

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