コレクション・ギャラリー

平成18年度 第7回コレクション・ギャラリー(計121点)

期間
平成18年9月12日(火)〜10月1日(日)
主なテーマ
【特集展示】災禍の記憶
【工 芸】 富本憲吉と関連工芸家たち
【西洋美術】海外の近代美術
展示作品
平成18年度 第7回コレクション・ギャラリー 展示目録

特集展示 「災禍の記憶」

T 浜田知明・池田遙邨
 当館でも5月から7月にかけて、藤田嗣治(1886-1968)の生誕120年を記念し、待望の回顧展を開催いたしました。この展覧会には、22万人を超える多数の方々が来館され、はじめて全画業を網羅した作品群によって、藤田の全貌に触れていただけたことと思います。そして、この藤田展で大きな関心を集めたのが、代表作《アッツ島玉砕》(1943年、東京国立近代美術館・無期限貸与作品)をはじめとする4点の「戦争記録画」です。京都の地でも、「戦争記録画」の公開は、1990(平成2)年に当館で開催された「小磯良平遺作展」以来のことであり、この展覧会にも、藤田とともに従軍画家となった小磯良平(1903-1988)の《娘子関を征く》(1941年、東京国立近代美術館・無期限貸与作品)ほか、4点の「戦争記録画」が含まれていました。
 しかし、数多くの洋画家や日本画家たちが、戦時中「戦争記録画」を描いたにもかかわらず、藤田嗣治がその制作責任をひとりで負ってしまうという、まさにその宿命によって、戦後、藤田はふたたびフランスへと旅立ち、二度と日本の土を踏むことはなかったのです。
 そして第二次大戦前から戦後にいたる、わが国1940年代の近代美術史についてふり返るとき、戦前・戦後と二分された「分断の歴史」ではなく、第二次大戦中の動向をも視野に収めた「連続の歴史」として捉え直すこともまた、必要でしょう。太平洋戦争での下級兵士としての原体験を創作の根源に、「この戦争に生き残ったものとして、それは私がどうしても描かずにはいられなかったところのものである」と語る、浜田知明(1917- )の「初年兵哀歌」の銅販画連作(同シリーズは全部で15点制作されていますが、当館では今回陳列した12点を収蔵しています)は、まさにこの「連続の歴史」を記録する貴重な証言作例であり、藤田とはまた異なった視線で、戦争の「記憶」を強烈に刻んでいます。
 さらに戦争のみならず、一方でわが国の切実な自然災害である震災について、その悲惨な光景を「記憶」する作例も残されています。それが池田遙邨(1895-1988)の、当館でははじめての展示となる「関東大震災」の連作スケッチです。当館では、このスケッチを計156点収蔵し、今回は、そのなかから横浜で取材された作品5点を含む12点を紹介いたします。「関東大震災」は、東京の被害の大きさばかりが強調されていますが、実はこの地震の震源地は相模湾沖であり、横浜や鎌倉を含む広域に被害が及んでいました。倒壊家屋の比率がもっとも高かったのは湘南地方や三浦半島で、わが国第一の貿易港であった横浜港も、完全閉鎖されてしまいます。遙邨は、その事実も見逃すことなく、東京とともに横浜の被災市街も歩きまわり、すっかり様変わりした光景を描きとめました。 遙邨には、《災禍(さいか)の跡》(1924年、倉敷市立美術館蔵)という代表作も知られています。

(主任研究員・山野英嗣)

U 星野真吾・工藤甲人・麻田 浩
 戦後、「日本画」の世界で、京都市立絵画専門学校の日本画科卒業生を中心に、いわゆる「革新的な膠(にかわ)表現」とも呼ばれる新たな造形表現を求めて、「パンリアル美術協会」が結成されました(1949年)。三上 誠(1919-1972)、山崎 隆(1916-2004)、不動茂弥(1928- )、星野真吾(1923-1997)ほか11名の作家が創立会員として名を連ねた「パンリアル美術協会」は、「温床をぶち壊せ、・・・自由な芸術の芽生えを育てよう。・・・モティーフ、マチエールにおいても無自覚な伝習によって宿命づけられた限界を撤廃し、膠彩(こうさい)芸術の可能性を拡充し具体化しようと努力する」という「宣言」を発し、新たな「日本画」表現を目指そうとしたのです。
 なかでも星野真吾は、はじめての肉親の死となった父との死別を契機に、「人体拓本」というべき「人拓」の手法を生み出しました。「初めての肉親との訣別は大ショックであった。灰と消えゆく有様にうろたえ、何か残しておきたい衝動が手形とか、足形となり人拓シリーズに向かうことになった」と、星野は語っていますが、続けて「人拓」は、「戦災地で見た焼死体を連想せずにはおれなかった」とも指摘しているのです。さらに、パンリアルの展覧会に発表当時、「記憶の濾過」と題されていた作品は、のちに「喪中の作品」と改題され、一連の作品群として、独自の表現様式を示しています。
 また、あまり紹介される機会には恵まれませんが、青森県出身の日本画家・工藤甲人(1915- )も、川端画学校でともに絵を志して学んだ親友・西村勇の出征と戦死を体験、自らは中国大陸での戦線に赴きながらも復員したことから、「生命感」の充実を制作に求めました。そして、画家自ら「現実と非現実、夢と覚醒、光と闇、いずれにせよ、それら相反するものの合体にこそ、すべてのものの機敏がうかがわれそうに思えてならない」と記し、さらに1958(昭和33)年晩秋の、深夜の「幻視」体験を経て、「心の中のドロドロした得体の知れないもの」という、幻想世界の確立へと向かい、それ以前の日本画表現には見られない特異な作品を残しています。
 この同じような「幻想」空間の創造は、洋画家・麻田 浩(1931-1997)にも共通する表現様式でもありました。日本画家・麻田辨自(1899-1984)の次男として京都に生まれた麻田 浩もまた、「災禍」に見舞われ荒廃したかのように思われる光景のなかに、やがて芽生える「生命」を暗示させるかのような表現を追求しています。1985(昭和60)年には、500号大作たった1点だけによる個展を開催しましたが、そのタイトルも、まさに幻想的な光景が描写された《地・洪水のあと》だったのです。

(主任研究員・山野英嗣)

V ユージン・スミス、ジュヌヴィエーヴ・カデュー、笠原恵実子
 住民たちと共に生活しながら、水俣公害の現実を世界に伝えた写真家ユージン・スミス(1918-1978)にとって、日本との最初の出会いが第二次世界大戦でした。アメリカの正義を疑うことなく戦争通信員として従軍したスミスでしたが、サイパン、レイテ、硫黄島、沖縄の最前線の悲惨な現実を見つめることで、しだいに戦争行為への憎悪と自分の立ち位置に対する疑問を抱くようになります。ふとした偶然で私は向こう側にいたかもしれない、私がこちら側にいる理由=国家という立場は単なる名分でしかないのではないか、私は加害者ではないのか、彼はこうした根源的な疑問に至ります。沖縄で身体的に負傷したスミスにとって第二次世界大戦は、精神的にも深い傷を残すことになります。その後のスミスの記念碑的フォト・エッセー、『カントリー・ドクター』(1948)、『スペインの村』(1951)、『水俣』(1972)などの原点は彼の戦争体験にあり、またこの時点でスミスは、「カメラ(写真家)の中立的視線」という近代写真の通俗神話を踏み外していたと言うことができます。
 カナダの作家ジュヌヴィエーヴ・カデュー(1955- )は急速に変化し過ぎ去る現実を映画に例え、「その実相を見るために、世界という(動く)映像を止め、拡大しなければならない」と主張します。女性の顔、唇の3枚の巨大な写真で構成され、あたかも拡大された映画の静止画(スティル)のような作品を見ることで、私たちはその画像の表面にモデルの痛々しい叫び(物語)を読み取り、同時に、自分自身の記憶と心の痛みを表象し重ね合わせてしまいます。静かで、しかし鋭く私たちの心を衝くカデューの映像表現は、80年代の脱男性原理的表現の一つの到達点を示しています。
 笠原恵実子(1962- )は、身体に関わる様々な表現を通じて女性と社会との関係を検証してきた作家です。女性の特権的行為である化粧などに、隠蔽された社会的制度(あるいは強制された役割分担)と、それを享受する女性側の共犯関係までも怜悧に分析する彼女の作品は、きわめて硬質で知的強靱さを備えた作品といえます。着座式便器の形態をした《Untitled-Slit #3》は、明らかにマルセル・デュシャンの《泉》(1917)、男性用小便器を使ったレディ・メイドを参照する作品であり、私たちはこの作品に、あらゆる非男性原理の表象を重ねることができます。
 コレクションギャラリーの展示ではユージン・スミスの戦争記録写真と、ジュヌヴィエーヴ・カデューと笠原恵実子の作品とが向かい合う形で展示されています。それは両者が表象する二つのもの、表象された戦争という男性原理と、静かに何かを訴えかける表象された女性原理とが向き合っている状態だと理解することが可能です。

(学芸課長・河本信治)

工芸 「富本憲吉と関連工芸家たち」

 当館では9月10日まで、富本憲吉(1886-1963)の生誕120年を記念した展覧会を開催しています。コレクション・ギャラリーでは、この「生誕120年 富本憲吉展」にちなみ、本展には出品されていない富本憲吉の作品と、「新匠美術工芸会」所属の作家たちの作品などを、「富本憲吉と関連工芸家たち」として展示しています。
 新匠美術工芸会とは、富本憲吉を中心に結成された工芸家の団体です。1927年、国画会工芸部が設立され、富本は重鎮として活躍していましたが、国画会を離脱していた民芸系の作家たちが、戦後まもなく会に復帰したいと主張しました。この時すでに、民芸系の作家たちと主張を異にしていた富本は、国画会を脱会しました。そして、富本を慕っていた作家たちも富本を追って国画会を脱退し、新たに工芸家のみの団体が結成されることとなったのです。この会は「新匠美術工芸会」と名付けられ、第1回の公募展が1947年の6月に開催されました。現在、コレクション・ギャラリーで作品を展示中の稲垣稔次郎や徳力孫三郎、福田力三郎などは結成当初からの会員です。その後、新匠美術工芸会は会員の脱退など、紆余曲折を経て「新匠会」と改名、その後「新匠工芸会」となり、現在まで意欲的な活動を続けています。

(研究員・中尾優衣)


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