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陶片 No.23

陶片からなにがみえるかな?

ナマコ_ノ_カケワケ

テキスト:中村裕太

石黒は蛇ヶ谷時代から中国の古陶磁を写していた。そのなかでも鈞窯は石黒が得意とした技法の一つである。こうした海鼠釉による鈞窯は、京都を拠点に作陶した河井寛次郎(1890-1966)の陶器にもみることができる。河井は、1921年に東京京橋高島屋にて「第一回創作陶磁展」を開催し、中国や朝鮮の古陶磁を逐った陶器を発表した。当時の新聞や評論家に絶賛される一方、思想家の柳宗悦(1889-1961)は、そうした作陶の方法に不服を申し立てる。その後、河井の作陶は、柳らと民藝運動を協働するなかで、古陶磁の写しから暮らしに即した陶器作り、さらに表情豊かな造形へと展開していく。一方で、石黒はその陶器作りの手法を大きく変えることはなかった。石黒は鈞窯をはじめとしたさまざまな技法を組み合わせることを手法とした。だからこそ、その素材選びや技術開発に対する探究心は凄まじい。清水卯一によると、石黒はどこをいくにもリュック一杯に釉薬の原料を担いでいたという。そして石黒は、千葉県の房州の磨き砂の中に入った鉄分が釉薬に反応することを発見する。この陶片は、流し込みによって海鼠釉の上に銅で濃いブルーの線が掛け分けされている。

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河井寛次郎《海鼠釉碗(呉須碗)》
河井寛次郎《海鼠釉碗(呉須碗)》1942年頃、京都国立近代美術館所蔵

ABCコレクション・データベース vol.1 石黒宗麿陶片集

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