映像:すじすじ
触察:安原理恵
このコンテンツでは、八瀬陶窯から掘り起こした石黒宗麿の陶片を、作家(Artist)、視覚障害のある方(Blind)、学芸員(Curator)がそれぞれの専門性や感性を生かして読み解き、さまざまな感覚を使う鑑賞方法を創造していきます。
ページを閉じる触察:安原理恵
テキスト:中村裕太
石黒は「東籬下素質清純 仔細看花初学人 彫琢求工描幾帖 不知缾菊一枝真(東の垣根に咲く菊の花は清純で美しい。この花をよく見て工夫を重ねて何度も描いてみるが、花瓶に挿した一枝の真の姿には遠く及ばない)」と漢詩を読んでいる。この漢詩は、中国の南北朝時代の田園詩人であった陶淵明の「飲酒二十首」のなかの「采菊東籬下 悠然見南山(東の垣根の下で菊を採り、悠然とした気持ちで南の山を眺める)」がもととされる。「東の垣根」ではないが、八瀬の庭一面に菊の花が咲いている古写真が残されている。この陶片には、漢詩の一部「花初学人 彫琢求工描幾」の染付の筆書きを読み取ることができる。石黒はそうした庭の情景から漢詩や陶器作りを行っていたのだろう。
テキスト:
石黒宗麿が制作の地として選んだ八瀬。京都北部の山間のこの土地は、もちろん山の緑と、川の青の美しい景色ですが、じつはその家並みは、「赤」かったんです。いまも八瀬に残る古い家をみれば、いまだ外観が赤く塗られています。この赤は「弁柄」と呼ばれる、日本古来の塗装剤で、科学的には「酸化鉄」と呼ばれています。この弁柄を壁に塗ることで、防虫や耐腐食性の効果があり、建物を長持ちさせるのだそうです。いまも京都には、こうした弁柄を売ってくれるお店もあります。
ただこれは、粉なので塗るときにはまた別の材料が必要です。そのとき、この弁柄と混ぜるのが「柿渋」なのです。柿渋は、その名のとおり柿の渋み成分であり、正体はタンニンです。石黒宗麿も作品のモチーフに選んだ干し柿!あの、まさに渋くて食べられない!あの渋さこそが、この「柿渋」そのものです。
この渋さのタンニンは、よくお茶やワインにも入っている、あの渋さと同じもの。柿を干すことを渋抜きといいますが、実際には口の中で溶けると渋さを発揮するタンニンを、むしろ干すことで不溶性の成分に変える目的で、ああして吊るしておくのです。そうして出来た干し柿は、むかしは砂糖の代わりとして使われるほどに甘さを増すのです。
テキスト:
京都から大原に抜ける途中に位置する八瀬。昭和10(1935)年、石黒宗麿はここに窯を構えて、その後の生涯を過ごしました。八瀬には、古からの多くの言い伝えが残っています。まず「八瀬」という名前の由来ですが、これは壬申の乱(672年)にまで遡るのです。この乱で敗れた大海人皇子(後の天武天皇)が敗走したおり、この地で背中に矢を放たれてしまいます。そうしたエピソードから、この場所を「矢」「背」と呼び、それが転じていまの八瀬になったという由来が残されています。
また、南北朝時代(1336-1392年)には足利尊氏が京都に入ると、後醍醐天皇が比叡山に逃げ込みます。この叡山御潜幸と呼ばれる出来事を、八瀬の村の人々が警備役として手伝ったとされています。その恩として、この村の人々は年貢を免除されました。もともと谷あいで平地も少なかったこの村の人々は、この待遇に感謝し、その謝意を示して。祭り「赦免地踊り」が行われるようになりました。いまもこの地の人々で大切に守られています。地元の少年たちが切子灯籠をかぶり、行列を組み練り歩くその姿は、とっても美しいですよ。じつは行列がおわると催し物で京都大学の落研が落語を披露するという、まちの人たちの憩いの機会でもあります。
テキスト:
戦争の日々をこの八瀬で過ごした石黒宗麿。同時期、おなじく八瀬で過ごし、そこでの生活を描いた建築家がいます。日本の建築計画学の礎を築いたとされる西山夘三(1911-1994)です。京都大学の教授もつとめました。また大阪万博では、会場計画の陣頭指揮を建築家の丹下健三と一緒に担った人物としても知られています。彼の主著である『住み方の記』(1965)には、京都大学営繕課につとめていた西山が、戦局の悪化にともない市内から八瀬に疎開した、そこでの生活の様子が多くの図面とともに詳細に描かれています。
彼も書いていますが、この八瀬の民家の特徴はなんといっても、立派な「おくどさん」。つまり「竈」です。大きなくの字型を描く左官によって作られる竈の、もっとも大きい炊き口に、火の神を祀ったものです。むかし、この周辺の民家を数々調査させていただいたときに知ったのですが、八瀬に古くから住んでいる方々は、この竈を使わなくなったいまでも、このおくどさんだけを残して大事に祀っている家も多いんですよ。驚きました。
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