第2回フォーラム 「伝える・感じる・考える――制作者と鑑賞者の対話」実施報告

開催日
2017年12月16日(土)13:00~17:00
登壇者
  • 石原友明(アーティスト)
  • 鈴木康広(アーティスト)
  • 広瀬浩二郎(国立民族学博物館 准教授)【コーディネーター】
  • 鑑賞・ディスカッション協力者(視覚に障害のある方6名、晴眼者5名)
  • 松山沙樹(京都国立近代美術館 特定研究員)【司会】
会場
京都国立近代美術館 1階ロビーおよび講堂
イベント詳細
第2回フォーラム「伝える・感じる・考える――制作者と鑑賞者の対話」
参加者
86名
配布資料
PDF版、490 KB
会場の様子, 撮影:木村明稔(以下すべて) 会場の様子  撮影:木村明稔(以下すべて)

 2017年12月16日、京都国立近代美術館において第2回フォーラムを開催した。
 今回は、作品のつくり手としての制作者と美術館で作品と対峙する鑑賞者、その両者が触覚を使った体験を通して作品の意味や価値について共に考え、また「見る」ことだけに捉われない作品鑑賞の可能性についても意見交換を行った。
 なお本フォーラムには、京都府立盲学校や京都府視覚障害者協会などから視覚に障害のある方6名と、近隣の小学生から大人まで5名の晴眼者、合計11名に鑑賞者としてご協力いただいた。

 冒頭、コーディネーターの広瀬浩二郎氏より「今日は、美術館の既成概念を壊すつもりで、からだ全体を使い、積極的に対話をして鑑賞しましょう」と話があった。そして、会場全員で両手を挙げて揺らして体をほぐした後に、一斉に「エイッ」と勢いよく声を出し、会場の緊張を和らげた。
 その後、引き続き広瀬氏がマルセル・デュシャン《泉》※を模した既製品の便器を用いながら「さわる鑑賞」の簡単なデモンストレーションを行った。触れてみてはじめて、表面のつるつるした質感や内側の様子といった、視覚だけでは捉えづらい特徴が把握できる。また、触覚的な体験を通して、"便器"に関する過去の経験が自然と呼び起こされるという話もあり、会場が笑いで包まれ、和やかなムードの中でイベントは幕を開けた。

※1917年にマルセル・デュシャンが展覧会に出品した作品で、既成の男性用小便器に「R. Mutt 1917」とサインをし、《泉(Fountain)》とタイトルをつけたもの。

全員で体を動かす全員で体を動かす
《泉》に触れる広瀬氏《泉》を模した便器に触れる広瀬氏 

公開鑑賞会

 最初の公開鑑賞会では、11名の協力者のうち、まず視覚に障害のある方が、次に目の見える方が鑑賞するという流れで進めた。

ガラスの中身を想像する
ガラスの中身を想像する 入念に点字を読んでいく
入念に点字を読んでいく

 はじめに石原友明氏による点字を用いた作品3点と、関連する小説作品「美術館で、盲人と、透明人間とが、出会ったと、せよ。」(点字印刷物)を鑑賞。作品の額や支持体にもまんべんなく触って質感や温度の違いも感じ取りながら、2人1組でゆっくりと鑑賞していった。以下に、それぞれの作品を鑑賞者の感想について紹介する。

《Untitled》1993年、紙に鉛筆、点字、ガラス 42.4×34.4×15.0cm

 本作は、鉛筆で一面を塗り潰した紙の上から『いちばん みにくい ものが いちばん みたい もの。』と点字で打ってあり、さらにその紙を厚みのある透明ガラスで覆ったものである。
 視覚に障害のある方は、まずはコンコンと叩いてガラスであることを確かめると、「きっと中に何かある」と中身を予想したり、ガラスに耳を近づけて中の音を聞こうとしていた。晴眼者の多くは、ガラスの中を見つめながら「鉛筆でぐしゃぐしゃって書いたのかな?」、「点字が打ってあるみたい。何て書いてあるんだろう?」と様々に推測をはたらかせていた。

《Untitled》1995年、真鍮に点字 37.0×30.0×16.0cm

 続いては、金色の真鍮板の上から大きめの点字で わたしを みて! わたしを さわって! と打たれた作品。
 視覚に障害のある方は、真鍮板のひんやりとした触感を味わいながら、通常よりも大きな点字に「こんなの初めて!」と驚きの声を上げながら鑑賞していた。晴眼者は、それまでに鑑賞した人たちの指紋の痕や、自分の顔が金属板に映り込むことを発見していた。また、目を閉じて両手で金属の温度を感じる姿もあった。

《Untitled》1993年、タイプCプリントに点字、アルミニウム、額縁 70.0×58.0×3.0cm

 3点目は、光を映した写真の上から薄いアクリルをはめ、画面中央に『かたち。 いろ。 うごき。 おくゆき。 ひかり。 せかい。 わたし。』と点字で書かれた作品。額装されており、点字に触れて読むことができる。
 先の作品に比べて文章が長く、一般的な大きさの点字で打たれているということもあってか、視覚障害のある方は点字の存在に気がつくと集中した面持ちで読み始めていた。指を走らせるにつれて表情がどんどん明るくなっていくのが印象的だった。それとは対照的に、晴眼者は手のひらで作品表面のあたたかさを感じたり、点字の上に指を滑らせて触り心地を確かめていたが、「この点字は何と書いてあるんだろう」と"モヤモヤ"とした感想を抱いたようだ。

石原友明氏の作品石原友明氏の作品
指紋の跡指紋の跡
「なんて書いてあるんだろう」「なんて書いてあるんだろう」

《空気の人》2016年、長さ600×幅280×高さ約100cm

鈴木康広氏の作品
鈴木康広氏の作品 様々な場所から触って鑑賞
様々な場所から触って鑑賞

 続いて、鈴木康広氏の《空気の人》を鑑賞した。本作品は、全長が約6メートル、透明のビニルに空気を入れて膨らませてあり、頭の後ろで両手を組んで仰向けに寝そべっている人の形をしている。
 今度は鑑賞者が作品を取り囲みながら、各自がそれぞれの場所から、全身を使って鑑賞を行った。視覚に障害のある方から、「これは…クジラの昼寝かな?」、「一周まわってきたらやっと分かってきた。手枕をしているんやな!」と、全体像が分かるにつれてその感想は変化していった。続いて晴眼者も作品鑑賞に加わった。複数で同時に触ることにより、作品がへこんだり膨らんだりとまるで生き物のように動く様子も楽しんでいるうちに、鑑賞者同士の間に自然とコミュニケーションが生まれていった。

 この作品を鑑賞しながら広瀬氏から「見える人と見えない人の作品鑑賞の違い」についてコメントがあった。見える人は、一目で作品の形や様子を短時間のうちに把握ができる。それに対して視覚に障害のある人は手や足を動かしながら鑑賞し、しばらくして「これが頭で、これが腕で・・・ということは、足があるのかな?」と全体像がつかめてくるという。さらに、後半のディスカッションに向けて、作品に対するアプローチが違う者どうしが対話しながら共に鑑賞することで、作品に新たな価値や意味が生まれてくるのではないか、と問いを投げかけて、公開鑑賞会は終了した。

公開ディスカッション

 ディスカッションの冒頭では、広瀬氏が「無視覚流鑑賞の極意」を紹介しながら、視覚だけではなく手や体、口、心などを動かして行う美術鑑賞には、美術作品や美術館の既成概念を問い直す可能性があるのでは、と話した。

ディスカッションの様子
ディスカッションの様子 石原氏(中央) 石原氏(中央) 鈴木氏(左) 鈴木氏(左)

 続いて、先ほど鑑賞した作品について、鑑賞者に感想を述べていただきながら、石原氏、鈴木氏からもコメントをいただいた。
 石原氏のガラスで覆われた作品について、視覚に障害のある方から、ガラスの中には何が入っているのか、そしてなぜこの作品を制作したのかという質問が出た。これに対し石原氏からは、通常、作品が作家の手を離れた瞬間に作家でさえも作品に手を触れることは許されない。そして美術館で展示される場合は、極力「見ること」に集中させられてしまう状況にある。こうした美術館の制度に対する問題意識から、本作は、「見える人にとっても見えない人にとっても"分からない"ことがあるものを」という思いで作ったとの説明があった。

 このコメントに対し視覚障害のある方からは「"分からないもの"の代表として点字が扱われることに、素朴な違和感をおぼえる」という意見が出された。また、真鍮板に通常より大きく打たれた点字について、障害当事者のあいだでも意見が分かれ「常識を超える驚きがあるのがアートだから、点字が大きくても良いのでは」、「やはり点字を正しく使ってほしい」と、芸術の領域における点字の扱い方についての様々な立場が示された。他方、晴眼者からは、「アート作品をきっかけに、点字に興味を持つことができた」という前向きな意見も出された。

 鈴木氏《空気の人》について、視覚に障害のある方は、触りながら頭の中で過去の記憶を探り、イメージを作りあげていくワクワク感や、見えない人どうしで対話をしながら鑑賞を深めていくことの楽しさがあったという。その様子を見た晴眼者の一人は「探りあてながら鑑賞していく様子が、とても楽しそうで羨ましかった」という意見も出た。
 鈴木氏自身は、作品の制作と展示を通して、自分にとっての世界の捉え方が他者にはどのように感じられるのかを常に考えているという。《空気の人》はこれまでさまざまな場所で展示してきたとのことだが、今回は、視覚障害者という"触ることに長けた人たち"が鑑賞したことで、「お腹から空気が入っていく部分を触って、悩みをため込んでいる若者みたいだと思った」という感想や、ビニルの継ぎ目についての質問など、これまで出会わなかった新たな解釈や意味が、作品に次々に付与されていったようだった。

 公開ディスカッション終了後は、フォーラム参加者も自由に作品を鑑賞できる時間とし、作品を順番に触って鑑賞いただいた。

 今回のフォーラムの意義は、障害のある人とない人が、それぞれの感覚や感性を生かしながら作品を鑑賞し、対話を通して、作品についての印象の違いを共有した点にあったと考えている。
 "ユニバーサルな鑑賞"というと、例えば全員がアイマスクを着用して「視覚を使えない状況」の中で作品に触れる、といった取り組みがイメージされがちだ。しかし今回、晴眼者は視覚に加えて触覚も聴覚も使いながら、見えない人は触覚や聴覚を研ぎ澄ませ、さらに点字の知識も活かしながら、自分なりの方法で作品と向き合った。そして、こうした作品への異なるアプローチにより生まれた鑑賞経験の「ずれ」を前向きに捉えて、対話を通してさまざまな「違い」を共有していった。結果的に、一人では気づかなかった作品の特徴や意味に出合うことができ、多層的な作品理解が可能になったのではないだろうか。こうした意味で、今回のフォーラムは、従来の美術鑑賞の枠にとらわれないユニバーサルな鑑賞の一例を示すことができたと考えている。

(文責:松山沙樹)

<参加者アンケートから(抜粋)>

視覚障がい者の方の"触れて見る"ところをしっかりとは見た事がなかったので、このようにして見られるのか、と参考になりました。
(20代・女性)

見るだけでなく身体全体を使って感じる鑑賞は、障害の有無に関係なく楽しめるものだと思いました。
(30代・女性)

若い人の意見が聞けたこと、見る人(視覚障がい者)、見せる人(学芸員)、作った人(作家)がつながって互いの意見を交換していたことがとても興味深く、嬉しかったです。
(20代・女性)

目の見える人が「アート」と定めたものを、「特別に」触ってもらうことで、視覚だけに頼らない見方があることが分かるのと同時に、目の見えない障害者にも視覚芸術に近づいてもらえたという健常者のある意味勝手な優越感を感じさせる恐さも感じてしまった。
(40代・男性)

もっとふみこんでほしかった。視覚にたよらないアートはありえるのか、ありえるとすれば、どういう表現の可能性があるのか。アートと言われることなく、触ったものをアートとする基準は、どこにあるのか、など、単に面白い、非日常なものであれば、エンターテイメントともいえてしまう。
(40代・男性)

点字の扱い方についての投げかけがありとっても色々な考え方があるのだと思いました。手話の扱い方(手話は言語である)に似たような… 社会参加に必要なツールである一方、それ(点字)を大きくすることによって読みとく楽しさがある。五感をつかって楽しむアートこそユニバーサルなのではないか…
(30代・女性)

話題となった透明をどう理解しているか気になった。もし、先天盲の場合、透明のモノとは、どうイメージされているのだろう。広瀬先生が、過去の記憶とつなげると言っていたが、その記憶とイメージの関係に興味がつきない。
(50代・男性)