映像:櫛でとけるかな
触察:安原理恵
このコンテンツでは、八瀬陶窯から掘り起こした石黒宗麿の陶片を、作家(Artist)、視覚障害のある方(Blind)、学芸員(Curator)がそれぞれの専門性や感性を生かして読み解き、さまざまな感覚を使う鑑賞方法を創造していきます。
ページを閉じる触察:安原理恵
テキスト:中村裕太
八瀬の主屋の囲炉裏の縁には、三島手の魚紋の陶片がアジの開きのように埋め込まれている。石黒は、出生地である富山県新湊を振り返り「漁師町ですね。海岸寄りの静かな町です。魚は新しいですね。みなとれたてのピチピチ生きるのを子供の自分に食ったわけです。」と『NHK映画』で語っている。三島は、李朝期に日本にもたらされた白化粧を用いた装飾技法である。粘土が少し乾いてきた時に線刻し、その溝に白化粧を施し、完全に乾く前にその化粧の表面を削り落としていく。この陶片とともに菱形が連続して彫られた素焼きの印花(判子)も見つかっている。陶片に合わせてみると、その大きさがおおよそ合う。《刷毛目蓋物》は、刷毛目の下をよく見ると、規則正しく彫られた三島手をみることができる。
テキスト:
「点」が印象的な京近美コレクションといえば、吉原治良《作品(黒地に白い点の円)》。183×183cmの大画面に点が円環状に配置された最晩年の代表作です。一見、大きな筆にたっぷり絵具を含ませて一気に描いたように見えます。ですが近寄って観察してみると筆で丁寧に塗り重ねた跡があり、ひとつひとつの点の位置や形が緻密に計算して描かれていることが分かります。
1954(昭和29)年に「具体美術協会」を結成した吉原は「人の真似をするな。今までにないものをつくれ」と説いて、「具体」のグループの中でリーダー的な役割を果たしました。「具体」には、嶋本昭三、正延正俊、山崎つる子、白髪一雄、田中敦子、村上三郎、元永定正らが参加しており、素材と作者の身体が具体的に関わることによって(例えば足を使って描くなど)、人間の精神の自由さを示すことを目指して関西で活発な活動を続けました。しかし1972(昭和47)年に吉原が急死してまもなく解散し、その活動は突然に終わりを迎えました。
ところでこの作品は、中高生との鑑賞活動でよく取り上げる一枚です。単純な構図ながらも抽象的で、作品の解釈や見立てをめぐってさまざまな意見がでて対話が盛り上がります。あるとき一緒に鑑賞した高校生たちは、「ご飯粒の集合体」、「ペンギンが丸く集まっているのを上から見た様子」などユニークな解釈を発表してくれました。同じ作品から人それぞれ多様なイメージが膨らむのは、興味深いですね。さて、みなさんはこの作品から何を感じますか?
テキスト:
日本の洋画界では、60年代以降にアンフォルメル絵画が流行するなかで、絵画の表面を同じパターンの繰り返しで覆いつくす作品が盛んに制作されました。
ここでは、高瀬善明という作家に着目してみましょう。高瀬は1960年代半ばから、画面全体に”おはじき”をならべたり焼ゴテを用いる作品を作りはじめ、同じパターンの繰り返しと単純な色彩によって、独特な深みのある画面空間を生み出しました。当館が1964年に開催した「現代美術の動向 絵画と彫塑」展の出品目録の表紙には焼ゴテを用いた高瀬の作品が採用され、こうした表現が当時の人たちに与えたインパクトの大きさをうかがい知ることができます。
また陶芸の分野でも、同じパターンをスタンプのように押して模様をつけていく「印花」という技法があります。さらに陶芸家石黒宗麿は、なんとジャガイモを版にして繰り返し押しつけることで器全体にリズミカルな意匠をあらわす「芋版」という技法を考案。身近なモチーフを版として使ってみようという作家の豊かな創造性が、新しい表現を生みだしていくんですね。
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