このコンテンツでは、八瀬陶窯から掘り起こした石黒宗麿の陶片を、作家(Artist)、視覚障害のある方(Blind)、学芸員(Curator)がそれぞれの専門性や感性を生かして読み解き、さまざまな感覚を使う鑑賞方法を創造していきます。

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映像:スマホのフィルター

触察:安原理恵

陶片からなにがみえるかな?

カキ_ノ_ツヤ

テキスト:中村裕太

石黒の支援者であった京都の外科医大屋幾久雄(1882-1962)の所有していた北宋時代の柿釉の小壺《柿釉双耳壺》は、石黒の柿釉の手本となったと言われている。石黒は自らが調合した柿釉の光沢を嫌がったという。味噌や梅干しの壺のように見えるからだろうか。弟子であった清水卯一によると、大屋はフッ化水素の薬品を持って八瀬まで行き、柿釉を失透させるのを手伝っていたという。この陶片は、柿釉の帯留めと思われる。裏には、紐を通すためのくぼみが彫り込まれている。《柿釉火鉢》は、柿釉の下に石黒の轆轤の跡をじっくりとみることができる。

石黒宗麿《柿釉火鉢》
石黒宗麿《柿釉火鉢》1937年、京都国立近代美術館所蔵

陶片はどんなコレクションと
つながるかな?

赤い八瀬と、渋柿の妙な関係

テキスト: 本橋仁 京都国立近代美術館 学芸課専門:建築史

石黒宗麿が制作の地として選んだ八瀬。京都北部の山間のこの土地は、もちろん山の緑と、川の青の美しい景色ですが、じつはその家並みは、「赤」かったんです。いまも八瀬に残る古い家をみれば、いまだ外観が赤く塗られています。この赤は「弁柄」と呼ばれる、日本古来の塗装剤で、科学的には「酸化鉄」と呼ばれています。この弁柄を壁に塗ることで、防虫や耐腐食性の効果があり、建物を長持ちさせるのだそうです。いまも京都には、こうした弁柄を売ってくれるお店もあります。

ただこれは、粉なので塗るときにはまた別の材料が必要です。そのとき、この弁柄と混ぜるのが「柿渋」なのです。柿渋は、その名のとおり柿の渋み成分であり、正体はタンニンです。石黒宗麿も作品のモチーフに選んだ干し柿!あの、まさに渋くて食べられない!あの渋さこそが、この「柿渋」そのものです。

この渋さのタンニンは、よくお茶やワインにも入っている、あの渋さと同じもの。柿を干すことを渋抜きといいますが、実際には口の中で溶けると渋さを発揮するタンニンを、むしろ干すことで不溶性の成分に変える目的で、ああして吊るしておくのです。そうして出来た干し柿は、むかしは砂糖の代わりとして使われるほどに甘さを増すのです。

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陶片詳細

作家名
石黒宗麿
制作年
1936-1968
サイズ
3.0cm×3.5cm×0.8cm
技法
柿釉

ABCコレクション・データベース vol.1 石黒宗麿陶片集

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