映像:陶器と室温
触察:安原理恵
このコンテンツでは、八瀬陶窯から掘り起こした石黒宗麿の陶片を、作家(Artist)、視覚障害のある方(Blind)、学芸員(Curator)がそれぞれの専門性や感性を生かして読み解き、さまざまな感覚を使う鑑賞方法を創造していきます。
ページを閉じる触察:安原理恵
テキスト:中村裕太
石黒の描いた仏様は、異国情緒溢れた顔立ちである。1940年1月に真清水敬四郎[三代蔵六](1905-1971)と中国東北部と朝鮮半島を旅している。朝鮮慶州の寺院で撮られた石黒のポートレートの背景には、陶製と思われる浮き彫りの仏様が壁面を埋め尽くしている。石黒の弟子であった清水卯一(1926-2004)によると、石黒は無神論者であったが、東福寺によく通っていたという。また二十代の頃には「佛山」を銘としていた。八瀬霊苑にある石黒の墓には、妻とうの墓とともに石黒が所有していた観音菩薩の石仏が移設されている。
テキスト:
石黒宗麿の陶片にのこる線刻と、それによる副産物のバリ。一本の単純な線だけでも、それが作品として結実したときには、作家とモノとの間の力学のようなものが否応なく感じさせられます。作家は、一本の線だけでも緊張や緩和、あるいはスピードなどを宿すことができるのです。
そうした線と力学との関係が作品として昇華されたものに、マルセル・デュシャン(Marcel Duchamp)の《三つの停止原器》(1913-14/1964年)があります。これは長さ1メートルの紐を、さらに1メートルの高さから落とし、その落下した紐が描いた曲線をかたどったものです。床に落ちたその瞬間を停止の原器とつけています。本来、定めようもない「停止」という状況を、あえて原器と名乗ることで、かつての権威の象徴でもある原器の地位を嘲笑するかのようです。
こうした線に力学を与える作品もあれば、線の抽象性の高さを利用して、そこに意味を詰め込んだ作品もあります。たとえば、長谷川三郎の《蝶の軌跡》(1937年)は、線のみにより、見る人に蝶々の飛ぶ姿を連想させ、同時に、無限の記号にもみえる記号的な意味を付加させることで、そこに軌跡という動きも表現しているといえます。
こうした、「線」による表現は、それが高い抽象性をもつからこそ、そこに様々な意味を見出しうる表現の手法として、作家を掴むのでしょう。
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