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ピピロッティ・リスト:Your Eye Is My Island -あなたの眼はわたしの島- 「ピピロッティ・リスト:Your Eye Is My Island -あなたの眼はわたしの島-」作品解説

2021年4月~6月の展覧会開催中に音声ガイド(京都・水戸会場共通)として公開した作品解説のアーカイブです。


京都国立近代美術館では、コレクション展と一部の企画展において、作品解説のための音声ガイドアプリ「カタログポケット」を導入しております。
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ご利用方法は「作品ガイド、音声ガイドアプリご利用手順」(PDF)をご確認ください。

目次

1.
ヒップライト(またはおしりの悟り)2011年

Hiplights(or Enlighted Hips)

ハウザー&ワース サマセットでの展示風景、2014年

 《ヒップライト(またはおしりの悟り)》は、物干しのように吊るされたさまざまな白い下着がモチーフとなった屋外展示作品。下着はヒップ(臀部)のなかに収まったさまざまな器官の運動やそれらによってもたらされる極めてプライベートな官能を連想させ、また、誰もがそこを通り、真暗な胎内から光溢れる明るい世界へと生まれ出てきたことを思い起こさせる。吊るされた下着を見るとき、私たちはそのなかに詰まった重力にも似たものを思い描いては羞恥を覚え、いつかその重みから解き放たれたいと願うのではないだろうか。
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2.
わたしの草地に分け入って2000年

Open My Glade (Flatten)

 女性(リスト本人)の顔がスクリーンに押しつけられている。見えない壁に一心不乱に挑み続ける姿は、性別や人種を理由とした社会や組織における障壁(いわゆるガラスの天井)を想起させる。あなたは、一刻も早くフレームのなかに閉じ込められた女性を助けたいと思うだろうか。または、彼女が自らの力でガラスを叩き割って、こちら側へ飛び出してくることを期待するだろうか。それとも、その直情なさまを笑うだろうか。
 1970年代における第二波フェミニズムとアートの関係について、ルーシー・R・リパードは次のように記述している。「多くの場合知らず知らずのうちに受け入れられている[女性運動に触発された]問題意識は、目や口、心、扉をこじ開けて解き放たれること、時には窓を叩き割ることさえ肯定した」。後続世代のリストもまた、その例外ではないだろう。
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3.
わたしはそんなに欲しがりの女の子じゃない1986年

I’m Not The Girl Who Misses Much

 ピピロッティ・リストの初期のヴィデオ作品では、女性の身体に焦点を当てたものが多い。1980年代に急速に普及したミュージック・ヴィデオにも通じる、音楽と映像を融合させた独自の世界観を提示している。
 本作では、黒いドレスをまとい、胸をはだけた状態でヒステリックに歌い踊るリスト本人が登場する。タイトルはジョン・レノンとポール・マッカートニーの楽曲『ハピネス・イズ・ア・ウォーム・ガン』の一節から取られており、主語を「彼女」から「わたし」に替えることで、男性のモノローグが女性主体の意思表明へと転換される。変速によるコミカルな動きとピッチの高い歌声によってリストが描こうとするのは、「弱さを外に出せる強い人間」としての女性像だ。
 スイスのゾロトゥルン映画祭に本作を出品したのをきっかけに、リストが美術館でヴィデオ作品を発表する機会は増えていった。
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4.
眠れる花粉2014年

Sleeping Pollen

 天井からさまざまな高さに吊られた鏡面状の球体が壁面に植物を映し出す。投影されるみずみずしい枝葉や花、光の粒のイメージは固定された位置にとどまらず、ほかの球体やその間に踏み込んだ鑑賞者の身体を媒介として空間のなかを漂う。リストはこの銀色の球体を「冬の間、植物が暗闇のなかで安心して眠るための電動ベッド」と喩え、「植物の見る夢が空中をゆっくりと回転している」のだと語る。
 作中に映し出される植物は、生命科学の研究機関であるチューリヒ応用科学大学付属植物園で撮影されたもので、そこで起こることはまさに魔法だとリストは語る。植物の密かな生の傍らで技術の発展と生命現象が探求されるこの創作の舞台は、「冷たいテクノロジーに血を通わせ、機械と有機的なものを分け隔てなく扱うことを目指す」という彼女の表現に通底した意志とも共鳴し、豊かな着想源となっている。
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5.
わたしの海をすすって1996年

Sip My Ocean

 本作は色鮮やかなサンゴ礁が生息する中東の紅海で、水中カメラを用いて撮影された。揺らぎのある心地よいサウンドの後ろでヒステリックに叫ぶ声が合間に挿入され、自由で明るい雰囲気のなかに一抹の狂気をうかがわせる。リストによると、この作品では恋愛にまつわる願望と不安の間で揺れる緊張状態を扱っているという。
 この作品が発表された1996年当時、展示室壁面のコーナーに映像を投影する手法に注目が集まった。従来のフレームを離れたリストの斬新な手法は、その後のヴィデオ・インスタレーションの展開に新たな境地をもたらした。フェミニズムの文脈では、欲望の対象としての女性の身体というステレオタイプな眼差しとは一線を画したアプローチが指摘できる。誘惑的とはいえない作家自身のユーモラスな表情や、極端に接写されたバストショットなど、身体的性差を受け入れた上で新たな女性像が提示される。英語タイトル「シップ・マイ・オーシャン」の「シップ」には「Sip=すする」と「Ship=船に乗る」のふたつの意味が重なる。黄色の水着姿で前を泳ぐリストに導かれながら、私たちは自由とスリルに満ちた広大な海=人生をたゆたう旅へと誘われる。
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6.
永遠は終わった、永遠はあらゆる場所に1997年

Ever Is Over All

 水色のワンピースと赤い靴を身につけた女性が、街を歩きながらクニフォフィアの花の形をしたハンマーで、楽しそうに車の窓ガラスを次々と叩き割っていく様子がスローモーションで映し出される。もう一方の壁には、赤や橙のクニフォフィアのさまざまなクローズアップ映像が、一部オーバーラップするように投影される。
 この作品は、1997年ヴェネツィア・ビエンナーレに出品した際に若手作家優秀賞を受賞して以降、フェミニズムの記念碑的作品として知られるリストの代表作となった。映像の主人公は、自動車に象徴される男性的な文明社会を、野生の花の棒で破壊する女性。女性のゆったりしたハミングや開放的な笑顔から、この作品は発表当時「リラックスしたフェミニズム」とも評された。
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7.
4階から穏やかさへ向かって2016年

4th Floor To Mildness

 リストは本作の撮影場所として、オーストリアとスイスの国境近くを流れる旧ライン川を選んだ。川の中にカメラを潜らせると、そこには「まるでモネの《睡蓮》を水の下側から見たような景色」が広がっていたという。葉の裏についた小さな気泡、さまざまな生物、葉の虫食い穴から漏れる光、泥、藻など今まで見過ごしていた水の中の光景が、クローズアップでとらえられている。こうした水中で撮影された断片的な映像が、天井から水平に吊るされた雲のような形のスクリーンに投影され、観客はランダムに置かれたベッドに横たわって下から上を見上げるように鑑賞する。
 ライン川の濁った水は、メランコリーとユートピア、喜びと哀しみなど相反する概念が混在した状態をほのめかし、その中で身体はもがきながら光に向かって浮上しようとする。「悲しみのなかに希望がある」とリストが語るように、困難を抱えながら生きることを穏やかに肯定する大作だ。
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8.
イノセント・コレクション1985 – approx. 2032

The Innocent Collection

クンストハウス・チューリヒでの展示風景、2016年

 1985年以来、リストは何も印刷されていない半透明または白色のプラスチックや紙製、木製の日用品や使い捨て容器を集めてきた。収集を始めた背景には、前衛芸術運動フルクサスやアーティストのオノ・ヨーコからの影響があった。素材の多くは、さまざまな試行錯誤と製造過程を経て生産されるにもかかわらず、ひとたび用途を失い捨てられればゴミとなって環境負荷をもたらしかねない。本来の役目を終えたこれらの素材が無垢になって照明や映像を映しだしている状態は、リストを穏やかな気持ちにさせるという。
 不用品を「即席のダイアモンド」として迎え入れる同作は、不浄と浄化、公と私、無価値と価値など、日常的に慣れ親しんだものが見せる世界の多面性に対して心を開くことを促している。
 なお、同作の一部には本展のため市民から提供された素材が使用されている。
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9.
アポロマートの壁2020-21年

Apollomat

アポロマートの壁

 「人間が地上を探索し尽くしたとき、脱出をゆるされた未踏の領域は絵画や映像表現にある」というリストの予言的な発想から制作された《アポロマート》の作品群では、自然や人体に近づいたイメージと有機的なテクスチャーによる触覚的な表現が探求されている。
 リストの大型インスタレーションの多くは、「人々が集い、ひとりの人間がより大きな共同体のなかに参与する場所―知識や感情が溶け合い、ともに思考し、巨大な吹き出しを作り出すための場所」として構想され、映像や音響と等しく重要な要素として鑑賞者の動きを受け入れる。ヴィデオアートの創成期から半世紀以上が経ち、光学技術の発展はアーティストにあらゆる表面をスクリーンとして捉える自由を与えた。美術館を含む公共空間におけるリストの試みは、人々とスクリーンとの関係がよりプライベートになった今日、ひときわ重要なメッセージ性を帯びている。
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10.
もうひとつの身体2008/15年

不安はいつか消えて安らぐ2014年

マーシー・ガーデン・ルトゥー・ルトゥー/慈しみの庭へ帰る2014年

Another-Body Worry-Will-Vanish-Relief Mercy-Garden-Retour-Retour

 人間とその環境を主題とする3つの映像作品において、リストは人間と自然界を取りまくさまざまなイメージを混ぜ合わせる。《もうひとつの身体》で夢想される楽園追放が起こらなかった世界、《不安はいつか消えて安らぐ》で描かれる身体の内側と外側の世界、そして《マーシー・ガーデン・ルトゥー・ルトゥー/慈しみの庭へ帰る》が紡ぐ人間と環境にまつわる記憶の断片――穏やかで心地よいイメージに満ちたこれらの作品において、さまざまな主体へと移り変わるパースペクティブの移動が、人間中心的な世界を複数種 が織りなすつながりの世界へと作り変える。
身体心理学や自己催眠によるリラクゼーション法から着想を得たこのインスタレーションは、姿勢を崩して作品に没入する体験へと鑑賞者を迎え入れる。まさに「ヒッピーと言われても構わない。私はピピ。アートが癒しになるという考えを恐れない」というリストの考えに裏づけられた空間といえるだろう。
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