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開館状況  ─  

おうちで楽しむ展覧会 大室佑介
多数の私の棲む家

 今からおよそ15年前、私がまだ建築を学ぶ学生だったころ、通っていた大学のある八王子近辺で深酒をし、しばらくのあいだ記憶が抜け落ちた後、日をまたいだ新宿駅のホームで駅員に肩を叩かれて正気を取り戻す、という失態を幾度となく繰り返していた。当時は経済的な事情からタクシーを利用するという選択肢を持てず、どこかで夜を明かすにも中途半端な時間と場所。自身のふがいなさを悔いつつ、たいていの場合は自宅のある練馬まで2時間強の道のりを歩いて帰っていた。夜風を受け止めながらいざ歩き始めるとまんざらでもなく、景色の変化が乏しい幹線道路を避けつつ、次第に普段では足を踏み入れないような住宅地の中に入っていくと、そこで思いもよらない光景に出くわすことがしばしばあった。
 その夜は、山手通りを越えて中井駅付近の商店街を通り抜け、人気のない夜道を進んでいたところ、急坂の脇に聳える立派な石垣と、鬱蒼とした樹木に囲まれて建つ一軒の住宅を見つけた。タダモノではない雰囲気から足を止め、門の隙間から敷地の中を眺め見ると、密集した住宅地に似つかわしくない、漆黒の闇が広がっていた。酔いの冷めかけた深夜2時過ぎ、日本を代表する作家である林芙美子の旧居の存在を知ったのはまったくの偶然からであった。
数日後、明るい時間帯に改めて訪問してみると、闇に包まれた深夜の印象とは対照的に、木々の緑が陽光に煌めく、清々しい立地に建てられた和風住宅であることがわかった。新たに設けられた入口には「新宿区立 林芙美子記念館」とあり、入館の手続きを済ませれば敷地内をくまなく散策することができる。手入れの行き届いた庭、戦火を免れ、住んでいた当時の雰囲気を残したまま保存されている建物を外から見て回り、東京の住宅地の中にもこのような場所が残されていることに感心した。以来、自宅から近いこともあってか、季節の変わり目やふいに時間ができたとき、建物内部まで見学が許される特別拝観の日などを狙って、年に2~3回ほどの頻度で訪問するようになった。

山口文象《林芙美子邸》1941(昭和16)年(新宿区立 林芙美子記念館) 撮影:大室佑介 山口文象《林芙美子邸》1941(昭和16)年(新宿区立 林芙美子記念館) 撮影:大室佑介

 この住宅は、作家・林芙美子が37歳の時、同世代で活躍する建築家・山口文象に依頼をして建てた職住一体の個人邸である。およそ300坪の広大な敷地の中、戦時統制下に施行されていた「木造建物一棟あたりの総床面積は30.25坪以内」という建築制限に基づき、夫婦それぞれの名義でおよそ30坪ほどの住居を二棟別々に建て、一棟は主屋(生活棟)、もう一棟は離れ(アトリエ棟)として計画された。
 施主である林芙美子は土地を見つけた後、建設資金の準備と並行して、自身の思い描く理想の住居のための知見を蓄えた。竣工から10年後に残された『家をつくるにあたって』という短文には、「…私は、まづ、家を建てるについての参考書を二百冊近く求めて、およその見当をつけるやうになり、材木や、瓦や、大工に就いての智識を得た。大工は一等のひとを選びたいと思った。…生涯を住む家となれば、何よりも、愛らしい美しい家造りたいと思った。まづ、参考書によつて得た智識で、私はいゝ大工を探しあてたいと思ひ、紹介される大工の作品を何ケ月か私は見てまはつた。」と書かれてあり、この家に対しての並々ならぬ熱意が感じられる。また、同じ文中に「私は自分の家の設計図をつくり、建築家の山口文象氏に敷地のエレヴヱションを見て貰って、一年あまり、設計図に就いてはねるだけねつて貰った。」とも書かれているとおり、施主の強い要望に対して、設計者による専門的かつ深い知見が応答した、密度の高い住宅が目指されていたことがわかる。

 敷地の東側に面する「四の坂通り」に向けた門をくぐり、孟宗竹に囲まれた石段を上ると、大きな妻面を持つ「主屋」が見えてくる。中心から少しずれて穿たれた玄関戸を引き開け、ほの暗い玄関に入ると、正面の一段上がったところに2畳ほどの「取次の間」がせり出し、沓石で下足を脱いで畳に上がる。右手は8畳の「客間」、左手は飛び石のようになる沓石を挟んで広縁、そして4畳半ほどの「小間」へとつながっている。
 「客間」には「取次の間」からの引戸の他に、廊下へと通じる引戸が設けられ、台所や便所へ行き来するための動線を担っている。部屋から東側の坪庭に向かって開口が設けられていて景色は良いものの、あまり陽の当たらない北東角部屋になるため、部屋の中央には掘りこたつが設置され、記者や編集者などの客人が暖をとりながら待つ場としても使われていた。対照的に「小間」は、4畳半と小ぶりな部屋ながら、陽当たりの良い南側の庭に半島状に突き出ており、明るく過ごしやすい小空間となっている。

2時間、じっくりと林芙美子邸を見学する機会をえた 撮影:松木直人 2時間、じっくりと林芙美子邸を見学する機会をえた 撮影:松木直人

 建物の北側には使用人室、便所、台所、浴室など、生活を支える諸機能がまとめられ、玄関の上階に載せられた屋根裏収納と合わせて、十分な幅を持つ廊下に面するよう配置されている。主屋の中央に位置する「茶の間」は生活の中心となっていた部屋であり、壁面には充実した収納が付属している。部屋の3方を廊下と広縁に囲まれ、視線の先には敷地の大半を占める庭が広がっているため、6畳という広さ以上の大きさを感じられる。
 ガラス引き戸に囲まれた広縁、そして、台所に隣接する勝手口から外に出ると、中庭を挟んで「離れ」が続く。「アトリエ棟」とも呼ばれる離れの玄関は主屋とは反対側になるため、近くにある掃き出し窓の前で履物を脱いで直接上がっていくと、6畳の「次の間」と8畳の「寝室」が広がる。ここは、この家の中で唯一の続き間となっているため、襖を引き分けると大きな一室として使うことができる。北側に隣接する一段下がった小部屋は「書庫」であり、そこに穿たれた小窓は風の通り道として機能している。「離れ」北側の小庭に面した廊下に出ると、竣工時から変更されて作家の仕事場となっていた4畳半の「書斎」、画家であった夫・緑敏の「アトリエ」へと通じ、夫婦それぞれの職と住が一体となった生活ができる間取りとなっている。

林芙美子邸 平面図(新宿歴史博物館 提供) 林芙美子邸 平面図(新宿歴史博物館 提供)

林芙美子邸 立面図(新宿歴史博物館 提供) 林芙美子邸 立面図(新宿歴史博物館 提供)

林芙美子邸 矩計図(新宿歴史博物館 提供) 林芙美子邸 矩計図(新宿歴史博物館 提供)

 全体としては施主である林芙美子の要望にある通り、板間のアトリエ部分を除いて、庭も建物も細部にわたって和の意匠で統一されており、大工棟梁の子として、また、宮大工の孫として生を受け、職人の手ほどきを受けた設計者の山口文象、その山口の事務所で主に和の建築の担当をしていた所員の角取廣司氏、そして、施主から「一等の大工」として見初められた渡辺棟梁の手腕がいかんなく発揮された数寄屋風の住居である。
 しかしながら、この建物はただ日本の伝統にならった「和の建築」ではない。素材や雰囲気に囚われずに改めて目を凝らしてみると、現場出身の叩き上げでありながらもエリートの集まりであった分離派建築会に迎え入れられ、展示などを介して最先端の建築表現を模索し、30歳の目前でヨーロッパに渡り、およそ一年半の間、当時の最先端であった西洋近代建築に浸かってきた建築家による「前衛的な建築」であったことが見えてくる。

 西洋の影響はまず立面に現れる。建物の東面は、鬱蒼と茂る竹林によって輪郭が見えづらく、玄関と窓を覆う庇によって視線が低く抑えこまれることで全体像が把握しにくくなっているが、緩勾配の大屋根が架けられた妻面が、内部の間取りの影響によって「シンメトリー」を少しだけ崩しながらも、上部に戴く腰屋根によって対称に見えるよう整えられ、西洋建築の特徴である「ファサード」という概念が意識されていることがわかる。
 建物正面から左側に回り込み、庭から建物の南立面を望むと、南東角部屋の小間が、大屋根を伴いながら古典建築を思わせる美しい「プロポーション」で突き出し、広縁をL字型に覆っているガラス引き戸による透明性との間に強い「コントラスト」をもたらしている。これら外来語で表すことのできる手法は、西洋の建築に触れた建築家でなければ扱いえない意匠であり、渡欧中に山口が師事したワルター・グロピウスの建築などにも共通して見出すことができる。

南東角の小間を南側よりみる(林芙美子邸) 撮影:大室佑介 南東角の小間を南側よりみる(林芙美子邸) 撮影:大室佑介

ガラス引き戸による透明性(茶の間、林芙美子邸) 撮影:大室佑介 ガラス引き戸による透明性(茶の間、林芙美子邸) 撮影:大室佑介

ワルター・グロピウス、アドルフ・マイヤー《ファグス靴工場》1911 ワルター・グロピウス、アドルフ・マイヤー《ファグス靴工場》1911
(Photo taken by Edmund Lill licensed under CC BY-SA 3.0)

 続いて平面図を見ていくと、先に紹介した各部屋は、続き間となっている寝室以外は全て独立した居室になっていることがわかる。しかし、その部屋を完全に孤立させることはなく、1つの居室に対して2つ以上の動線を伴うことで、外から引き込まれる風の流れと合わせて、建物の内部に緩やかな回遊性を持たせることにつながっている。
 このような平面を持つ建築空間は「行動的空間」(井上充夫)と呼ばれ、近世書院造の特徴の一つとされているが、同時に、モダニズム建築が全盛を迎えた頃の欧州の小住宅に共通して現れる特徴でもある。限られた面積の戸建住宅において、人間の移動と滞留を包摂しながら空間に奥行を与えるこの手法は、当時を生きる同時代人にとっての「機能美」から導き出されたものであり、地域の垣根を越えて住宅の中に用いられていたのである。

ワルター・グロピウスの住宅にみられる「行動的空間」 ワルター・グロピウスの住宅にみられる「行動的空間」
(『Walter Gropius Buildings and Projects』をもとに筆者作成)

 建物の細部について確認するために内部に入り、生活者や客人の動きを想像して歩き回りながら、細かい箇所に注視してみる。するとこの家が、床の段差、畳など床材の割り付け、天井の上げ下げと勾配の付け方、前室としての小空間、明暗の対比、建具の開閉による抜けの作り方、庭と床の関係性など、挙げればきりがないほどの細かい操作による、小さな「アーティキュレーション」(分節)の連続で成り立っていることがわかる。部屋ごとだけでなく、半畳単位の場ごとに設けられた無数の敷居は、平屋であるはずの家の内部に立体感を生み出していく。
 20世紀を代表する建築家の一人であるアドルフ・ロースの提唱する「ラウムプラン」は、限られた内部空間を三次元的に扱い、床の段差と天井高の操作を主体としながら各室に分節点を与え、実際の面積以上の奥行を作り出す手法であった。そこで生まれる想定外の奥行きは、住む者、訪れた者を迷いへと誘う。迷いの中で人は距離感を失い、一時不安に苛まれるが、座したときの安堵感は増長されていく。
 山口の渡欧記録によると、ロースの拠点であったウィーンには帰国前の1932年5月19日から3日間滞在しただけなので、実際のラウムプランに触れたかどうかは定かではないが、建築面積の上限が決められた条件下において「迷い」によって内部の広がりを創出するこの手法は、建築様式を越えても有効に働くということが、この家によって証明されている。

アドルフ・ロースの「ラウムプラン」による内部空間 アドルフ・ロースの「ラウムプラン」による内部空間
階段室からホールを見下げる(アドルフ・ロース《ミュラー邸》1930)
photograph: © Albertina, Vienna
Inventory number: ALA2473

アドルフ・ロースの「ラウムプラン」による内部空間 アドルフ・ロースの「ラウムプラン」による内部空間
婦人の私室(アドルフ・ロース《ミュラー邸》1930)
photograph: The Albertina Museum, Vienna
Inventory number: ALA2474

玄関から取次、その奥の客間をみる(林芙美子邸) 玄関から取次、その奥の客間をみる(林芙美子邸)
撮影:大室佑介

書斎から次の間をみる(林芙美子邸) 書斎から次の間をみる(林芙美子邸)
撮影:大室佑介

 建築空間における「迷い」の効果について、宇佐美英治氏は日本の旅館を例に出しながらこのように書いている。
「…この空間はわれわれではなく、多数の私の空間が、いわば中心が私の数だけあり、しかもその中心がどこということなく動き回る空間なのだ。それぞれの泊り客はそれぞれ自分がひそかな中心であり、廊下や玄関すらもが私の延長であることを感じている…」
 思えばこの住宅には、小さな個人邸とは思えないほど多くの人々が、その役を変えて出入りしていた。家主である林芙美子は、妻、母、娘、作家、上司、客をもてなす主人としての顔を持ち、緑敏は夫、婿、画家として、加えて実母のキク、息子の泰、使用人、書生、記者、編集者、作家の友人、後に住んだ親族…。同時ではないにしろ、これだけの役者が互いに干渉することなく一つの建物に集うためには、部屋数以上の「多数の私の空間」、すなわち各々の内面に立ち上がる想像上の空間が必要であった。「迷い」の先に見いだされる個々の居場所=古里を受け容れる寛大な家。それこそが「放浪記」の作者である林芙美子の理想としていた住まいの形なのかもしれない。
 記念館となった現在、この旧居はおよそ40人もの有志によって丁寧に維持管理されている。竣工から80年を迎え、住宅としての機能を失って30年近くを経てなお、「多数の私」たちを受け容れる器としてこの家は生きられている。

茶の間につけられた戸袋(林芙美子邸 茶の間につけられた戸袋(林芙美子邸)

謝辞

本記事の執筆にあたり、新宿区立新宿歴史博物館学芸員佐藤泉さまには多大なるご協力をいただきました。心より御礼申し上げます。

大室佑介
建築家。1981年東京都生まれ。2005年多摩美術大学環境デザイン学科卒業。2007年多摩美術大学大学院美術研究科修了後、磯崎新アトリエ勤務を経て、2009年大室佑介アトリエ/atelier Íchiku設立。2014年に三重県津市に移住し、2015年より私立大室美術館の館長に就任。主な作品に「川崎長太郎の物置小屋 再建計画」(2008~)、「RAUM」(2009~)、「HAUS」(2010~)、「私立大室美術館」(2015~)

参考文献
Carsten Krohn 『Walter Gropius Buildings and Projects』Birkhauser. 2019.
Ralf Bock『Adolf Loos Works and Projects』Skira. 2007.
新宿区立新宿歴史博物館編『林芙美子記念館』新宿区教育委員会. 2005.
宇佐見英治『迷路の奥』みすず書房、1975.
井上充夫『日本建築の空間』鹿島出版会、1969.

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