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おうちで楽しむ展覧会 小田原のどか
旧多摩聖蹟記念館:台座の消失と彫刻/彫塑のための建築

「分離派建築会100年 建築は芸術か?」展(以下、分離派展)は7つの章立てで構成されている。私は彫刻を専門とする者であるので、やはり、第Ⅲ章「彫刻へ向かう『手』」と、第Ⅴ章「構造と意匠のはざまで」の「都市に現れる彫塑的建築」においてそれぞれ用いられた「彫刻」と「彫塑」という言葉の使われ方に注目せざるを得なかった。前者の英訳はToward Sculpture: The Hand、後者はSculptural Architecture Emerging in the Cityである。sculptureが「彫刻」「彫塑」と訳し分けられているわけだ。

分離派建築会100年 京都会場の様子 撮影:若林勇人 分離派建築会100年 京都会場の様子
撮影:若林勇人

少し補足をしておこう。そもそも彫刻とは、彫塑とは、何を指すのか。彫刻とは日本におけるsculptureの訳語だが、その定着の契機は1876年の工部美術学校創立に求められる。ここに彫刻学科が置かれたことで、本邦の公的機関における彫刻教育が始まった。ここではそれまで日本に見られた仏教彫刻や人形文化、石造美術が教えられることはなく、西洋の芸術を手本とした教育カリキュラムが組まれた。設立理由に「本校ハ鷗州近世ノ技術ヲ以テ我国旧来ノ職風ヲ移シ百工ノ補助ト為サント欲ス」とあるように(「フォンタネージと工部美術学校」)、粘土を用いた塑造による西洋彫刻の模倣が重視され、お雇い外国人のヴィンチェンゾ・ラグーザが教師を務めた。

工部美術学校彫刻学科で育成が目指されたのは、芸術家としての彫刻家ではなかった。ここで求められたのは、西洋風建築物の装飾をつくることができる者である。日本の近代化とは脱・中国化を意味する。西洋列強に劣らない国力を対外的に示すため、近代化な建近物、つまり西洋風建築物の建造は急務であった。そのような背景から国家有用の人材として彫刻家育成が行われた。ここで重要であるのは、建築のために彫刻が要請されたという事実である。

西洋文化を手本した工部美術学校は国粋主義の台頭とともに廃校になる。そして1889年、東京藝術大学の前身となる東京美術学校が開校した。このとき岡倉天心は「皇国美術ノ振興」という言葉を用いて同校設立の骨子を論じた(『岡倉天心全集』)。西洋の模倣ではない、本邦独自の芸術を立ち上げるという気概を示したかたちだ。そしてここでは工部美術学校が反省材料とされる。同校彫刻科では外国人が教師となることはなく、牙彫彫刻と、仏師の流れを汲む日本人彫刻家が教授となった。工部美術学校で重視された塑造は廃され、置かれたのは木彫のみであった。

西洋由来の塑造、本邦独自の彫刻。そのような直線的な図式がこのとき整理されたと言えよう。ところで彫刻と塑造、すなわちカーヴィングとモデリングはいずれも彫刻の技法として知られているが、その実これらはまったく反対の性格を有している。木や石などを彫り刻みボリュームを減らしていく前者に対して、後者はボリュームを付け加えていく技法である。

1894年、大村西崖は「彫塑論」を発表し、彫刻という訳語の不完全を説いた。大村は木彫のみ教育が行われていた東京美術学校彫刻科に塑造を学ぶ環境をつくるために尽力した人物だ。もともとは同校同学科の卒業生だが、東洋美術史に転じた。字義をそのまま読めば彫刻とは彫り刻むことであり、粘土を用いる塑造は当てはまらない。そこで大村は、塑造も意味する彫塑という語の使用を提唱した。1899年、同校彫刻科に塑造が開設されると大村は教授となり後進の育成に励んだ。

しかし依然として、sculptureの訳語の主流は「彫刻」である。各美術大学に設置されているのも「彫刻学科」や「彫刻コース」が多数派だ。一方で、中国ではsculptureは「雕塑」と訳される。台湾でも同様である。しかしながら日本においては、彫り刻まないものも総称して彫刻と言われる。ロダンの彫刻は彫り刻まれていない。それでもわれわれはロダンの作品を彫刻と呼ぶ。このように彫刻と彫塑は、近代日本にとってsculptureとはどのような存在か、その悪戦苦闘を鏡映しにする言葉なのである。

さて、分離派展に戻ろう。ここにおいて、彫刻と彫塑はどのように使い分けられているのか。第Ⅲ章「彫刻へ向かう『手』」の解説文にはこうある。

鉄筋コンクリートの導入によって、それまでの建築様式は垂直な柱や壁の構造に装飾が表面的に貼り付けられる、いわば骨と皮が分離した関係に陥りつつあった。[…]そうして状況で、この技術の可能性をいかに芸術において拓かせるかは、分離派建築会のメンバーにとって喫緊の課題であったわけだ。そこで彼らがヒントを求めたのが、同時代の芸術に新風をもたらしていたオーギュスト・ロダン、それにオズヴァルト・ヘルツォーク、ヴィルヘルム・レームブルックといった近代彫刻であった。(展覧会図録、97ページ)

いっぽう第Ⅴ章「都市に現れる彫塑的建築」は、「彫塑的造形」という表現で蔵田周忠が手掛けた多摩聖蹟記念館と、森田慶一による京都大学関連施設の有機的な意匠を説明した。

蔵田周忠(関根要太郎事務所)《多摩聖蹟記念館》1930(昭和5)年 撮影:若林勇人 蔵田周忠(関根要太郎事務所)《多摩聖蹟記念館》1930(昭和5)年
撮影:若林勇人

第Ⅲ章では、分離派建築会の構成員たちにとっての「喫緊の課題」を解くための手がかりとして「近代彫刻」が参照されたという解説とともに、会場にはロダンらの立体作品が展示された。しかし前述したように、ロダンの彫刻は彫っても刻んでもいない。ロダンだけではない。本章で紹介されたブロンズ製の彫刻のほとんどが塑造の技法でつくられている。技術に即して言えば、ここで使われるべき語は「彫塑」であろう。

おそらくここで「近代彫刻」という言葉が採用されたのは、その概念としての側面が強調されたゆえではないかと私は想像する。「近代彫刻」とは何より思想的なタームである。一方、第Ⅴ章において「彫塑」という語が用いられたのは、技術面をより集中的に照射せんという意図からであろう。これもまた興味深い。本展を鑑賞すれば、いかに彫塑という語があの時代の建築家に参照されたかがわかる。

しかしそのように使い分けがなされているならばいっそう、「近代彫刻」なる呼称がどのような思想的課題であるのかについての言及があってもよかったのではないか、……などと考えてしまうが、これを建築の展覧会に求めるのは酷か。それは私の仕事だ。そのために、こうして書いている。

さて、さきほど説明したように、本邦においてsculptureとしての彫刻が必要とされたのは、近代化な建築物の装飾としてであった。江戸は東京となり、「帝都」として改造されていく。帝都は建築だけではなく、無数の彫像で飾られることになった。ここに出現した銅像と呼ばれる人型の彫刻もまた、近代的都市の装飾と捉えられるだろう。

彫刻とは洋の東西を問わずその出自から建築の一部分であることが多く、また公共空間の彫刻はそのほとんどが近代的都市の景観に従属的につくられている。そのようななかで例外的と言えるのが多摩聖蹟記念館だ。第Ⅴ章においてまさに「彫塑的造形」と評されたこの建築は、ある彫像を安置するためにつくられた。建築と彫刻は本邦の近代化のために要請された長子と末子だ。ここでは、末子を擁するためにこそ長子がつくられた。そこに「聖蹟」という名が冠されている。あらゆる意味で類例のない事例と言えよう。

昨年末、私は同展の学芸員・本橋仁さん、本企画の寄稿者のひとりである建築家の大室佑介さん、建築を専門とする松木直人さんと多摩聖蹟記念館を尋ねた。京王線聖蹟桜ヶ丘駅を下車し、なだらかな丘陵のてっぺんを目指す。都立桜ヶ丘公園内の森林に守られるようにこの館はあった。訪れたのは紅葉のさなか。目に鮮やかな景色が広がっていた。とはいえここは公園と呼ぶにはあまりに平地が少ない。サバイバルゲームなどの愛好者には好適の地ではないかという印象だ。

撮影:松木直人 撮影:松木直人

時系列をたどれば、都立公園の中に記念館が建設されたのではなかった。多摩聖蹟記念館の竣工に合わせてここは公園化された。そして、聖蹟桜ヶ丘にあるから聖蹟記念館なのではない。聖蹟桜ヶ丘駅はもともと関戸駅という名であった。多摩聖蹟記念館の開館から七年後、関戸駅は改称される。この記念館が置かれたために駅名が聖蹟桜ヶ丘となったのだ。そのようにすべての発端に多摩聖蹟記念館がある。

多摩聖蹟記念館が開館したのは1930年11月9日のことだ。当時、ここは現在とはまったく異なる眺望の中にあった。同館は大松山の頂上に位置するが、駅を下車すればすぐに、丘陵のてっぺんにある同館が見えたのだという。時間の経過とともに周囲の木々が育ち、いまではそれらに包まれ外界から阻まれるかのように、よくよく近づかなければこの場所に多摩聖蹟記念館があることはわからない。

なぜここは「聖蹟」と名付けられたのか。聖蹟とは時の天皇が行幸した地の呼称であり、聖蹟を記念する記念碑は日本各地に存在する。1881年2月20日(兎猟)、6月2日(鮎漁)、82年2月15日・16日(兎猟)、84年3月29日・30日(兎猟)、明治天皇はこれらの日程で多摩村連光寺(現在の聖蹟桜ヶ丘)を訪れていた。この行幸がきっかけとなり、多摩村が「御猟場」に定められた。多摩聖蹟記念館はこの数度にわたる行幸を顕彰し、第3代宮内大臣および初代内閣書記官長を務めた田中光顕が発起して多くの寄付を集め開館に至った。

旧多摩聖蹟記念館建設に関する寄付者名簿 撮影:松木直人 旧多摩聖蹟記念館建設に関する寄付者名簿
撮影:松木直人

田中光顕は1843年、現在の高知県高岡郡に生まれた。尊王攘夷運動に傾倒して戊辰戦争で活躍し、維新後は元老院議員、警視総監、学習院院長など要職を歴任、宮内大臣として約11年明治天皇に仕えた。天皇親政派の宮廷政治家として大きな力を手にした人物だ。政界引退後は維新烈士の顕彰活動に尽力した。

「行幸啓の聖蹟を永遠に保存し、其の洪大なる余光余聲の跡をあまねく国民に周知せしめ、聖徳の奉頌、尊皇心の涵養に資せんことを期す」(『連光聖蹟録』聖蹟奉頌連光会、1928年)

これが田中と連光寺周辺の名士や土地所有者らが聖蹟地の保存のために組織した「連光会」のコンセプトであった。田中が同会の名誉会長に就任した2年後、多摩聖蹟記念館が完成した。田中がとくに連光寺という地に着目したのは、ここが「維新烈士の顕彰」にふさわしい土地柄であったことも関係している。自由民権思想が独特のナショナリズムへと結び付いた「三多摩壮士」もこの地の出身だ。

田中の意志だけではない。1917年の御猟場廃止にともなって地域振興のあり方を模索していた地元有力者、加えて1926年に玉南電気鉄道と併合して沿線の開発を進めていた京王電気軌道、それぞれの思惑が交錯する。記念館が建設されると植樹による自然公園化がなされ、明治天皇顕彰の意欲の高まりによる観光地化を後押しするために駅名も改称された。こうしてこの地は「聖蹟」として設計・開発されたのだ。

多摩聖蹟記念館は開館後、都心からほど近い郊外の観光地として、小中学校の遠足コースにも組み込まれた。また大戦中は「精神発揚」の施設として多くの来場者を集めたという。利用は一般の者だけにとどまらない。1938年11月19日には「日独伊防共協定締結」の1周年を記念し、陸軍首脳や各国の武官がここを訪れている。

一枚の写真がある。1930年の開館時に多摩聖蹟記念館の内部で撮影された集合写真だ。館内の8本の柱には注連縄が張られ、供物が備えられた。神聖な空間が立ち現れ、注連縄の中に彫像が「奉安」されている様子が記録されている。写真の後方にある回廊部分には志士の遺墨が展示されていたという。これは幕末の志士の顕彰活動の一環として田中が収集し、各地で展示していたものである。ここに「勤皇の志士たちが天皇を補佐して明治維新を成し遂げた」という田中の考えを具現する空間が実現したのだ。

除幕式、注連縄と供物が彫像のまわりに備えられているのがわかる 撮影:松木直人 除幕式、注連縄と供物が彫像のまわりに備えられているのがわかる
撮影:松木直人

分離派展でも大きく取り上げられているように、多摩聖蹟記念館は蔵田周忠が手掛けた現存する数少ない建造物である。この建築の設計の特異性について私は十分に論ずることはできない。しかしここが同心円を意識して構成されていることは、外観からも、そして一歩内部に足を踏み入れれば胎内からもただちに了解できた。放射状に波及する楕円の重なりによってここはかたちづくられている。この建造物がそのような放射状の広がりを想起させる構造を有するのは、その中央に文字通り、価値的中心を擁しているからにほかならない。それが《明治天皇騎馬像》なる彫刻だ。多摩聖蹟記念館はこの彫像の力を拡散させるため、そしてこれを安置するためにつくられた建造物である。

《明治天皇騎馬像》を制作したのは彫刻家・渡辺長男(わたなべ・おさお)だ。「東洋のロダン」とも称された朝倉文夫の実兄と紹介したほうが耳なじみはいいだろうか。1874年に大分県に生まれ、大分中学卒業後、特待生として東京美術学校に入学、彫刻を修学したのち洋風彫塑を学んだ。1900年、日本彫塑会を結成する。同年5月には第1回彫塑会を開催。55名が参加し、117点が出品された。ここで渡辺は彫塑作品を6点展示している。渡辺の長子は彼を「彫刻家」ではなく、「彫塑士」として振り返っている。渡辺もまた、彫刻と彫塑の相異について生涯をかけて考え尽くした人物であった。

多摩聖蹟記念館 現在の内観 撮影:若林勇人 多摩聖蹟記念館 現在の内観
撮影:若林勇人

渡辺は近代日本彫刻史に名を残す作家だが、現存する作品は多くはない。もっとも親しまれた代表作は、かつて万世橋に存在した《広瀬中佐と杉野孫六像》だろう。旅順口閉塞作戦時の軍神・広瀬のエピソードを「美談」として彫像化したもので、渡辺と弟の朝倉が合作した。軍国日本を体現する戦意高揚のための国民的記念碑である。この群像は多摩聖蹟記念館と同じ1930年に完成した。神格天皇の赤子としての臣民としての日本国民。そのような天皇制ファシズムが国家主義と結びつき、これを視覚化するための様々な仕掛けが要請された時流である。そのひとつが広瀬中佐と杉野孫六像であり、《明治天皇騎馬像》だった。

渡辺が多く手掛けた公共彫刻は、そのほとんどが金属供出と戦後のGHQによる撤去方針が示されたことによって失われている。京都は三条大橋に現存する《高山彦九郎像》はもとは渡辺の作であったが金属供出で失われ、戦後に再建された際に伊藤五百亀の作へと変わった。多摩聖蹟記念館の付近に建立された田中光顕の米寿を記念して渡辺が制作した田中の座像も、1944年に供出され失われた。《広瀬中佐と杉野孫六像》は供出を免れるが、戦後に「敵愾心」を取り除くという名目から撤去された。

小作品はいくつも残されている一方、このように現存する屋外作品は少ない。《日本橋獅子麒麟橋飾》、そして高尾みころも霊園にある《菅原道真公像》がいまもなお屋外で見ることができる代表的な作例である。

《日本橋獅子麒麟橋飾》は日本橋の欄干彫刻だ。とくに麒麟像は東野圭吾の推理小説『麒麟の翼』で鍵となる存在として登場してもいるから、ご存じの方も多いのではないか。これらは渡辺が原型を制作し、長男の義父である岡崎雪声が鋳造を担当した。多摩聖蹟記念館の《明治天皇騎馬像》も同様に岡崎が鋳造を担っている。『開橋記念日本橋志』によれば、日本橋の獅子像は奈良・手向山神社にある狛犬が手本とされ、三種類のひな形を制作したのち現存の像が採用された。いっぽう麒麟像の特徴はその翼が「ひれ」であることだろう。これはあらかじめ翼とひれをつくり、ひれのほうが面白いということで採用されたという。

渡辺長男にとって明治天皇の彫像制作は《明治天皇騎馬像》が始めてではない。明治天皇をかたどった像としては、明治神宮宝物殿と「幕末と明治の博物館」がそれぞれ所蔵する《明治天皇御立像》《明治天皇御尊像》などがある。1914年に完成した立像《明治天皇御尊像》は田中光顕の依頼によるもので、田中が開館に尽力した水戸常陽記念館(現「幕末と明治の博物館」)のためにつくられた。ここから田中と渡辺の交流が深まっていく。多摩聖蹟記念館の《明治天皇騎馬像》も田中の委託によって制作された。《明治天皇騎馬像》は1881年2月20日、多摩村連光寺を始めて行幸した明治天皇30歳の姿を再現したものである。

渡辺長男《明治天皇騎馬像》1930(昭和5)年 撮影:小田原のどか 渡辺長男《明治天皇騎馬像》1930(昭和5)年
撮影:小田原のどか

《明治天皇騎馬像》は騎馬像として特段変わったところはない。人物像を得意とした渡辺らしく見所は多い。明治天皇の軍服はもちろん馬具にも細かな装飾が再現されている。馬像は後藤貞行が手掛けた《楠木正成像》の躍動的な馬とは対照的に穏やかな様子だ。肌艶は良好で、筋肉の状態からもこの状況が切迫したものではないことがわかる。対して馬に跨がる明治天皇の表情はとても険しい。

『連光聖蹟録』の兎狩り当日の様子をひもとけば、兎が網にかかり侍従長が捕らえたのを見て明治天皇は愉快に笑い、それから連光寺から第二狩場、第三狩場へと移動しそれぞれ兎一頭ずつ捕獲したが、その度に微笑したとある。これを受けて150名ほどの勢子(猟場で動物を追い込む役割の人々)は万歳を合唱したそうだ。

しかし明治天皇の顔は一見して、そのような情景にいる姿をあらわしたとは思えない。記念館の説明文には「おきついお顔」と表現されている。ここに渡辺は「当時の多難な情勢の中、ひと時の休息を終えて再び国務にあたろうとする青年天皇の決意を」込めたのだという。

彫像の高さは3メートル強。ここに1メートル強の台座が加わる。当時この像に相対した人々は天皇の尊顔を見上げ、逆に天皇に見下ろされるという構図の一部となったことだろう。しかしいまはそうではない。《明治天皇騎馬像》は台座が削られている。私がこの彫像に関してもっとも興味を引かれたのが、もともとあった台座が失われているということだった。

かつての多摩聖蹟記念館 台座が切り取られる前の姿が建築探偵団の資料のなかに残されていた 撮影:建築探偵団(藤森照信、堀勇良)、1974(昭和59)年 かつての多摩聖蹟記念館
台座が切り取られる前の姿が建築探偵団の資料のなかに残されていた
撮影:建築探偵団(藤森照信、堀勇良)、1974(昭和59)年

多摩聖蹟記念館は1986年に多摩市に寄贈され、改修後、87年に旧多摩聖蹟記念館としてリニューアルオープンした。このとき上部の装飾のみ残して《明治天皇騎馬像》の台座は失われた。高価な大理石を換金して館の改修費用に充てたという裏話もあるようだが、真偽の程は不明だ。市が管理する公共施設として、往時の国家体制を称揚するために制作された像をそのままの姿で擁し続ける困難があったことは想像に難くない。台座の剥奪は「時宜にかなった処置」とでも言うべきか。

台座がなくなった現在では、ほとんど天井を見るように首をあおむけながら彫像を見上げ、その威光を浴する装置としての印象は薄れている。これに伴い、「おきついお顔」に見下ろされることもなくなった。どことなくぼんやりと締まりのないように見えるのは、本来渡辺が鑑賞を想定した高さから1メートル強低くなっているためだ。

いま《明治天皇騎馬像》を見ると、馬像の胴体や明治天皇のつま先に目線が合うのだが、これは作者の意図ではない。当初は、建物に入るとまず台座に視線が集まるようになっていた。入館し、台座を見て、それから彫像を見上げる。そして、見下ろされる。ここにはそのような体験が用意されていた。そして見上げれば、多摩聖蹟記念館の建築の特徴である重なる楕円が明治天皇の頭上に後光のような広がりを示すのだ。これから多摩聖蹟記念館を訪ねる方は、ぜひその点を考慮して鑑賞されたい。

美術史家の木下直之は『銅像時代 もうひとつの日本彫刻史』において本邦の西洋式銅像の草創期には、彫像をのせる碑=台座こそが本体であったと述べている。事例として兼六園の《明治記念之標》などが挙げられる。《明治天皇騎馬像》はどうかと考えるのも面白い。《明治天皇騎馬像》に碑文はなく、これが記念碑であるかどうかは定かではない。台座こそが本体であるのなら、ここにはもう本体は存在しない。そして冒頭の話題に立ち戻れば、ここには「彫刻」も存在しない。後述するもうひとつの明治天皇像および5人の賢人像はすべて「彫塑」である。つまりここでは、台座とともに消えゆく彫刻史の文脈の一端を垣間見ることができるのだ。

さらに興味深いのが、1963年に桜ヶ丘公園に隣接して「拓魂公苑」が造成されたことだ。「非業に斃れた満州開拓犠牲者の御霊を祀る」ため「満州開拓殉難者之碑」が建立され、170基を超える慰霊碑がここに集合している。圧巻のひと言だ。満州開拓もまた植民地政策の表裏である。こうして「聖蹟」に新たな「聖域」が誕生した。そして1968年には明治維新100周年のタイミングで、記念館のすぐ隣に「明治維新五賢堂」が建立される。当時記念館を管理していた財団法人多摩聖蹟記念館が「維新の志士の顕彰」という名目で建設した。

《拓魂公苑》1963(昭和38)年 撮影:小田原のどか 《拓魂公苑》1963(昭和38)年
撮影:小田原のどか

《明治維新五賢堂》1968(昭和43)年 撮影:松木直人 《明治維新五賢堂》1968(昭和43)年
撮影:松木直人

《明治維新五賢堂》内部 撮影:松木直人 《明治維新五賢堂》内部
撮影:松木直人

ここには小金丸幾久が制作した三条実美、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、そして西郷隆盛の胸像がずらりと並んでいる。西郷は西南戦争で朝敵とされたが、吉田茂のすすめによって賢人に加えられたそうだ。いまこの五賢堂は学芸員が出勤していれば、鍵を開けてもらい内部を見られるようになっている。異様な密度の空間だ。5人の賢人の中央には明治天皇の立像があり、その背後にはかつて「御真影」と呼ばれていた明治天皇の写真が飾られている。

《明治維新五賢堂》1968(昭和43)年 撮影:小田原のどか 《明治維新五賢堂》1968(昭和43)年
撮影:小田原のどか

五賢堂の明治天皇の立像も小金丸が制作したものだが、北村西望による監修が入っている。これも明治維新100周年を記念して制作され、当初は多摩聖蹟記念館の内部に建立された。しかし1986年の改修工事の際の際に五賢堂へと移された。現在多摩聖蹟記念館にはふたつの明治天皇の立像が存在する。いっぽうは五賢人の視線を集中させ、あたかも「御真影」を隠すように立っている。いっぽうは台座を失い「尊皇心」を高めるための仕掛けは薄れてしまった。しかし、そのように変遷していくことがおもしろい。

多摩聖蹟記念館を訪問し、彫像をめぐり歩きながらかつての鑑賞を想起してみる。すると、天皇制イデオロギーと皇民化を視覚的・身体的に実感するためのしたたかな装置であったことが追体験できるような気分になる。「其の洪大なる余光余聲の跡をあまねく国民に周知せしめ、聖徳の奉頌、尊皇心の涵養に資せんことを期す」。そのようなコンセプトを脳裏に描きながら彫刻を見る経験を、現代を生きる誰しもが一度はするべきだろう。とはいえそれは、大日本帝国の指針を再び身のうちに宿そうというような目的のためではない。

1986年11月の改修以前、多摩聖蹟記念館は「幽霊屋敷」と呼ばれるほど外観が薄汚れ、老朽化していたという。日本は敗戦し、占領を経験して、明治天皇の顕彰のためにこの地を訪れる人は激減した。運営の目処が立たず、記念館は取り壊されようとしていた。このとき多摩聖蹟記念館が保存されたのは、この建築の希少性それゆえであった。市民からの保存の声が上がり、多摩市有形文化財に指定され、管理と運営が財団から多摩市に移管した。ここが残されたのは蔵田周忠の建築のおかげである。こうして「多摩聖蹟記念館」は「旧多摩聖蹟記念館」となった。

「幽霊屋敷」と呼ばれたころの旧多摩聖蹟記念館 出典: 『有形文化財の保護と活用 : 生涯学習施設としての旧多摩聖蹟記念館 : 旧多摩聖蹟記念館特別展』倉持順一編著、多摩市教育委員会、2001年 「幽霊屋敷」と呼ばれたころの旧多摩聖蹟記念館
出典: 『有形文化財の保護と活用 : 生涯学習施設としての旧多摩聖蹟記念館 : 旧多摩聖蹟記念館特別展』倉持順一編著、多摩市教育委員会、2001年

「旧」という名称は現存する多く伯爵邸や邸宅などにも冠される。管理が市政に移った際に「旧」と付けられるためだ。しかしこの「旧多摩聖蹟記念館」に対しては、ここに加わった「旧」という言葉を「いかにわれわれが変わったか」という確認のための定点として使えないかと思うのだ。どういうことか。

明治維新は古い身分制度の廃止、四民平等が実現したという側面から語られる。しかし明治維新を英訳すればthe Meiji Restoration、つまり王政復古である。日本の近代化、近代国家への歩みとは何よりも王政への回帰であった。そのような政体において植民地主義を是とし、一億玉砕へと至ってしまった誤謬に直面することが、旧多摩聖蹟記念館の明治天皇像と向き合うことで求められる鑑賞の態度であるだろう。見上げ、見下ろされるのではない。向き合うのだ。だからこそ、台座はもう必要とされていない。

撮影:松木直人 撮影:松木直人

ところで、明治天皇はなぜ多摩の地を好み、幾度も訪れたのか。多摩への最後の行幸の前年、1883年に明治天皇は次の句を詠んだ。

自ら春の光に洗われて霞たなびく多摩の横山

ここでの「多摩の横山」は、『万葉集』の宇遅部黒女(うぢべのくろめ)の「赤駒を山野に放し捕りかにて多摩の横山徒歩ゆか遣らむ」を参照している。これは防人(さきもり)となる夫の身を案ずる妻の歌である。多摩丘陵は万葉の時代から、二度と戻れない故郷を惜しむ望郷のモチーフとされた。

晩年に明治天皇は「雪ふれば駒にくらおき野に山に遊びし昔思い出でつつ」と、多摩への行幸を懐かしむような句を詠んでいる。ここには天皇の郷愁があると郷土史家の佐藤孝太郎は指摘する。64年の生涯はじつに多忙であった。東京奠都により明治天皇が東京に入り、政府は京都から東京に移された。二度と戻れない望郷の想い、その眼差しが「多摩の横山」に重ねられている。

望郷の念、神格天皇の奉頌、勤皇の志士の顕彰、満州開拓の慰霊、観光地化とニュータウン化。こうして多摩丘陵の小さな山は、「聖蹟」となった。なだらかな眉山に、かような本邦の「歴史」が静かに影を落としている。政体が転じ、ここを訪れる人の目的も大きく変わった。しかしかつてのコンセプトがまったく効力を失ってもなお、建築の力によってここは残された。そしていま、分離派展を契機にこうして再び光が当てられている。それもまた建築のおかげだ。建築と彫刻。近代日本と並走し、ともに「公共」という呼称を共有する両者は、本邦の近代化とはどのようなものであったのかを考える導きの糸である。多摩聖蹟記念館はその希有な混交の事例であり、時勢の物言わぬ証人であった。

「乗馬御尊像除幕式に奉仕の人々(昭和5)年」 所蔵:多摩市教育委員会 「乗馬御尊像除幕式に奉仕の人々(昭和5)年」
所蔵:多摩市教育委員会

除幕式と同じ構図で(撮影:多摩市教育委員会) 除幕式と同じ構図で(撮影:多摩市教育委員会)

小田原のどか
彫刻家、評論家。1985年宮城県生、東京都在住。芸術学博士(筑波大学)。主な展覧会に「あいちトリエンナーレ2019」、「PUBLIC DEVICE」(共同キュレーター、東京藝術大学大学美術館陳列館、2020)。主な編著に『彫刻1:この国の彫刻のはじまりへ/空白の時代、戦時の彫刻』(2018、トポフィル)。最近の論考に「近代を彫刻/超克する」(『群像』2021年1月号、講談社)、「われ記念碑を建立せり:水俣メモリアルを再考する」(『現代思想』2020年2月臨時増刊号[磯崎新特集]、青土社)。

参考文献
『有形文化財の保護と活用 : 生涯学習施設としての旧多摩聖蹟記念館 : 旧多摩聖蹟記念館特別展』倉持順一編著、多摩市教育委員会、2001年
『京王電鉄と多摩市の都市開発 : 旧多摩聖蹟記念館企画展』倉持順一編著、多摩市教育委員会、2001年
『雑木林 : 旧多摩聖蹟記念館広報』多摩市教育委員会、1988年から続刊
佐藤孝太郎『多摩歴史散歩 1 (八王子・南多摩丘陵)』有峰書店、1973年
『多摩市史 通史編 2』多摩市史編集委員会編、1999年
『東京の近代洋風建築』東京都教育庁生涯学習部文化課編、東京都教育委員会、1991年
『渡辺長男展 : 明治・大正・昭和の彫塑家 : 旧多摩聖蹟記念館企画展示』多摩市教育委員会社会教育課編、多摩市教育委員会社会教育課、2000年
渡辺長男『彫塑生面』画報社、1900年、1902年
田中修二『近代日本彫刻史』国書刊行会、2018年
木下直之『銅像時代 もうひとつの日本彫刻史』岩波書店、2014年
平瀬礼太『銅像受難の近代』吉川弘文館、2011年
『彫刻1:空白の時代、戦時の彫刻/この国の彫刻のはじまりへ』小田原のどか編著、トポフィル、2018年
『連光聖蹟録』聖蹟奉頌連光会、1928年
『多摩聖史 明治百年記念』多摩聖史編集委員会、1968年
「第3回 彼岸前の遠足 「多摩の「聖地」と「墓地」めぐり」」文化資源学会 http://bunkashigen.jp/excursion/003.html
『東京美術学校百年史』第一巻、ぎょうせい、1987年
『岡倉天心全集』平凡社、1982年
「フォンタネージと工部美術学校」『近代美術』46号、至文堂、1978年

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