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展覧会川西英コレクション各章解説

川西英コレクション各章解説


川西英コレクションについて

 版画家・川西英(かわにし・ひで)が生涯にわたって蒐集していた作品・資料は、川西英没後も妻の楢枝(ならえ)氏、さらに英の三男・川西祐三郎(ゆうざぶろう)氏の手によって大切に保管されてきた。祐三郎氏は父の英に師事し、同じく版画家として活躍されている。 そして京都国立近代美術館は、2006(平成18)年から、この「川西英コレクション」と作品・資料の購入を開始し、今年度そのすべてが収蔵の運びとなった。総点数は、新聞断片など細かなものも含めて1100余点。
 このコレクションには、川西英の油彩や水彩、素描はいうまでもなく、川上澄生や前川千帆(せんぱん)、前田藤四郎といった創作版画家の代表作や、恩地孝四郎、村山知義(ともよし)、高見澤路直(みちなお)ら、いわゆる「前衛」作家たちの貴重な版画作品も含まれている。さらにコレクションの実に三分の一にあたる320点が、竹久夢二の作品・資料でしめられているのも驚きだ。川西が「私の青年時代に一番感動をうけたのは夢二の画であった」と語っているように、まさに〈川西英コレクション〉は、「夢二とともに」育まれてきたといって過言ではない。同時に本コレクションが、川西と夢二という、ともに美術家同志によって築かれてきたものであることも忘れないでおきたい。

Ⅰ. 知られざる川西英、そして夢二との出会い

 1960(昭和35)年4月に、ギャラリー吾八から、その名も『これくしよん』(第6・7号合本、通巻71号)という小冊子が出版された。「竹久夢二の著作など」とサブタイトルも付されたその冊子の巻頭に、川西英は「夢二追憶」と題して一文を寄せ、「私の青年時代に一番感動をうけたのは夢二の画であった」と書きはじめていた。そして何より興味深いのは、この「夢二追憶」で、コレクションの核を形成する夢二作品を川西がどのような経緯で蒐集していったかが記されていることである。
 川西は「夢二画集春の巻が出た時ほどうれしい事はなかった」と書き、実際『夢二画集夏の巻』に登場する「カルタのよみ手」をはじめ、夢二のコマ絵を熱心に模写していた。さらに岡崎の京都図書館で開催された「第1回夢二作品展覧会」にも神戸から足を運び、後に大阪や神戸で開かれた個展の出品作を買い求めてもいる。それらの作品が《河岸の落日》《茶屋の女》《水のほとり》である。
 続けて「夢二追憶」では、港屋開店記念風呂敷である《MINATOYAJAPONICA−CHRYLAND》がすぐれ、《柳に蛙》のふくさも美しいとあり、「夢二丸出しのすぐれた作品」として《絵入り小唄集『どんたく』ポスター》を紹介していた。そして「セノオ楽譜も沢山出たが『蘭燈』『庭の千草』の装画が特にうれしい」と書き、「夢二さんからの手紙は私の大切なものになっている」と締めくくられている。この手紙は、1927(昭和2)年5月16日の日付けである。
 川西がこれほどまでに夢二を敬愛し、慕っていたことを示す事例は、この「夢二追憶」の文章をおいてほかにないだろう。ここでは、本コレクションに見られる川西と夢二の作品・資料をとおして、知られざる川西英と夢二の交流について紹介する。

Ⅱ. 新しき「竹久夢二像」

 <川西英コレクション>に、いわゆる肉筆画は6点を数えるが、そのうち1920年代の制作と思われる《ショールの女(ふらんすの)》《女(貧しさが)》《男の像(かちかちと)》の3点は初公開作品である。これら3点は、作品の保存上本表装にあらためたが、もとは本紙の四隅を紙でとめたにすぎない粗末な仮表装であった。しかも夢二の軸装作品には珍しく、即興的に素描風に描かれ、夢二が川西の目の前で、さらさらと描いて本紙のまま渡したというふうにも見える。女性像2点は、モダンなカフェーの女といった印象だが、主題はまったく異なっているところが面白い。一方、男性像は1920年代後半、夢二が過去の女性遍歴を清算するかのような、最晩年の夢二自身の姿が投影されているに違いない。
 これまで竹久夢二は、「夢二式」といわれる美人画によって広く知られ、事実、明治末から大正時代にかけて、作品のみならず、恋愛遍歴も含めたその私生活も話題を独占していた感がある。しかし夢二は、独創的なイメージで流布した数々の本の装丁をはじめ、千代紙や便せんなど、生活に密着した品々のデザインを手がけ、晩年には「快適な生活のために」、榛名山美術研究所の建設をも夢見た。
 そして最晩年には、アメリカからヨーロッパをまわり、とりわけベルリンではバウハウス創設時のマイスターのひとりであったヨハネス・イッテンが主宰する学校(Itten-Schule)でも、日本画を指導していた。京都国立近代美術館には、この学校で参考制作された墨絵10点と『日本画に就いて』(Der Beriff der japanischen Malerei)のテキスト(1933年)が、イッテン家遺族から寄贈されている。さらに本展覧会では、竹久夢二伊香保記念館や宮城県美術館、そして貴重な個人蔵から油彩、水彩画、日本画、さらに資料など20点を加えて、夢二の創造の源泉、夢二のもっとも評価すべき制作についても再考する機会としたい。

Ⅲ. 川西英、竹久夢二と「前衛」美術家たちとの交流

 <川西英コレクション>のもうひとつの柱は、いわゆる「前衛」と呼ばれる美術家たちの作品も数多く含まれていることである。カンディンスキーに感化を受け、わが国の「抽象」表現の先駆者のひとりと目されている恩地孝四郎は、戦中の1943(昭和18)年に、川西英にこれまで未公開だった試し刷りを送り、版画家としてより高い次元から、自らの制作について意見を求めていました。加えて恩地は、中国で撮影した写真作品(1939年)も川西に譲っている。さらに、わが国の1920年代「前衛」活動の中心人物であった村山知義の貴重なリノカット(lino-cut)や、後年漫画家・田川水泡として知られる高見澤路直が制作した、同じく『マヴォ・グラフィーク4集[意識的構成主義的版画集]』に村山のリノカットとともに掲載されていた作品など、川西がどのようにしてこれらの作品を蒐集することができたのか興味はつきない。
 また、ロシア革命後日本を訪れ(1922年)、以後35年間を日本で過ごし「前衛」運動にも加わったワルワーラ・ブブノワ(Varvara Bubunova)の版画や、写真製版を併用した代表作《時計》や、《紅型》をはじめとする前田藤四郎の一連の版画作品も、〈川西英コレクション〉の「前衛」的傾向を示す作品として貴重である。
 竹久夢二の《柳屋栞》には、大西登の抽象的デザインも鮮やかな《未来派栞》にも通じる「前衛」的感性が示されている。この竹久夢二と「前衛」のかかわりについても、これまでしばしば取り上げられてきたテーマであり、この章でも、川西英をとおして、夢二の「前衛」表現について考えてみたい。

Ⅳ.〈川西英コレクション〉のすべて

 <川西英コレクション>には、1100余点におよぶ作品・資料を擁している。すでに紹介したように、そのうち三分の一が竹久夢二のもので占められているのも驚きである。このなかには、夢二が直接川西に贈ったと思われる貴重な肉筆画も含まれているが、それ以外のほとんどは、川西が精力的に買い求めてコレクションしていったものだろう。
 しかしながら、この〈川西英コレクション〉に含まれた竹久夢二以外の作家の作品については、おそらく川西と作家との「作品交換」という機会をとおして、コレクションされていったと思われる。春村ただを、前川千帆、川上澄生といった創作版画家たちの作品は、そうして収集されていったのだろう。
 しかしながら、川西が木版画制作の道にすすんだのは、自らも回顧するように、山本鼎の版画に感動したからであった。〈川西英コレクション〉には、きわめて質の高いこの山本鼎の6点組の版画集も含まれている。さらに興味深いのは、河合卯之助、富本憲吉、バーナード・リーチといった工芸家が初期に制作した版画作品がそろっていることで、前章で紹介した「前衛」作品と同じく、川西の創作版画だけにとどまらない視野の広さを感じさせる。いいかえれば、こうした事実が〈川西英コレクション〉の、もうひとつの魅力をかたちづくっているのだろう。本章では、最後に〈川西英コレクション〉の代表的な版画作品を紹介する。


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