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展覧会Trouble in Paradise/Medi(t)ation of Survival
   歩行ガイド/Trail Guide

Trouble in Paradise/Medi(t)ation of Survival
   歩行ガイド/Trail Guide


以下は高橋 悟氏(京都市立芸術大学美術学部構想設計専攻准教授)が「生存のエシックス」プロジェクトチームを代表して「Trouble in Paradise/生存のエシックス」展覧会カタログのために執筆した「歩行ガイド」です。



00) 視差: Paradoxical Place
「視差」とは、左右の目の知覚像のズレのことである。柄谷行人は、カントとマルクスについての考察のなかで、この視差に於いて考えるという方法を述べている。自分の視点、他人の視点だけでなく、その差異(視差)から露呈してくる現実に直面すること。注意すべきは、この場合、現実とは視差の総合から得られる立体像ではなく、それを成り立たせる「差異の測定」にあるということだ。そして「エシックス」とは、この「差異の測定」を不断に継続するパラドクシカルな態度を指すだろう。「Trouble in Paradise/生存のエシックス」を展覧会として語ろうとするときに伴う困難、迂回、歯切れの悪さは、この差異に関わるものである。ここで書かれる記述スタイルは、そのことを反映している。
個々のプロジェクトを統一的に見渡す視点を想定するのでなく、各プロジェクトの視点の差異を測定すること。この測定から複数の系・流れが生み出されること。


01) 科学と産業
まずは『凡庸な芸術家の肖像』(蓮實重彦)の引用から始めてみたい。
生真面目なまでの律儀さで「人道主義的」な善意を説くマクシムにとって、来たるべき世界で「文学」が演ずべき役割ははかりしれぬほど大きなものだという。それは、いま、身辺に起こりつつあることがらと向かいあうという、これまでの「文学」が等閑視していた役割である。いま、身辺に起こりつつあることがらとは、いうまでもなく、科学の進歩と産業の発展という現象にほかならない。
「科学と産業とが芸術に死をもたらしはしまいかと人は問うたものだ。それは誤りであった。ただやみくもにその進路に身を投げだして発展をおしとどめようなどという狂気じみた期待をいだかぬかぎり、科学と産業とは芸術を援けるはたらきをするだろう。もしそんな事態がおこったなら、科学と産業とは正当防衛の権利を行使し、芸術の上を通過してひき殺してしまうに違いない。そんなとき芸術に残されているのは、かつての光栄ある思い出ばかりだろう。いまや芸術はそうした過去の記憶への執着にかわって使徒のように、あるいは将軍のように先頭をきって進み、この科学と産業という二人の姉妹を勇ましく先導し、人間精神の傾ける努力が名誉回復して花のごとくに咲き乱れる緑の野原をつき進まねばならない」(マクシム・デュ・カン『現代の詩』)
(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)

いまから130年前に、アカデミー・フランセーズ会員に選出された、マクシム・デュ・カン。彼の『現代の詩』で提示される「現代」の凡庸さに比して、「Trouble in Paradise/生存のエシックス」と名付けられた展覧会が、そのような「現代」の凡庸さから免れていることはない。たとえば、生命・医療・環境・宇宙に於ける芸術的アプローチを基盤に生存の本質を探るという言説自体が、世間に流通する脳天気で博覧会的なものであるだろう。したがって、「テーマ」としては、目新しいものはなにもここにはない。フランス第二帝政を生きたマクシムと現在を生きる我々にとって、「蒸気機関」が「宇宙飛行」に、「写真」が「光トポグラフィ」に、「電報」が「インターネット」に変わっても、「芸術と科学」を巡る言説の構図にさほどの発展はみられない。

02) 構想力: 哲学の劇場
マルクス、フロイト、アインシュタイン。前世紀を代表する三人は“non-Jewish Jew”、いわゆるユダヤ教徒でないユダヤ人である。表象化(イメージ化)を拒否し、超越的な視点でなく、相対的な関係の中に現実をみいだすという意味において、三人には共通した姿勢が見られる。髭をつけたモナリザに対して、哲学的に髭をそったマルクスを示唆したのはフーコーだが、マルクス三兄弟のように、マルクス、フロイト、アインシュタイン、かれら三人を役者とした荒唐無稽な喜劇として、「Trouble in Paradise/生存のエシックス」を捉えてみてはどうだろう。宇宙で宙返りをするマルクス・糸巻き遊びをするフロイト・散歩するアインシュタイン。そして、マルクス(実践理性批判)、フロイト(判断力批判)、アインシュタイン(純粋理性批判)と、ガサツにならべれば、「構想力」を人間的認識の起源とみなすカントへとゆきつく。
カントの基本的立場は、「主観主義」でも「人間中心主義」でもなく、「人間主観」は人間主観としてしか対象を認識できないという、人間主観が及びうる限界を思惟しようという立場なのだ。これは人をイライラさせる考え方であろう。というのも、一般に私たちは、何か文句なしに真実なものをいつも求め、それを基準にすることで、安心した透明な心境になりたいからだ。
(岩城見一『〈誤謬〉論』)

透明な心境(meditation)でなく、イライラしながら限界を思惟しようとしつつ、その喜劇性を笑う、そのような立場こそ「生存のエシックス=Medi(t)ation of Survival」のものといえよう。

03) プロジェクトチーム: 労働資本
とりえあえず、個人が蓄積してきたリソースを共有しつつ何か別の関係が生まれるような実験をしてみたい。そのようなラフなセンスで我々の共同研究プロジェクトの構想は始まった。芸術の教育という場を共有する仲間は、美術家・研究者として独自の手法を基盤にキャリアを積んできた者たち。新しいタイプの芸術理論・研究・実践を模索するという、健全な口実のおかげで、普段は踏み込みにくい個人の創作過程にまで口出しすることも辞さない寛容なゲームがスタートする。チーム編成にあたっての合意事項は、以下の通り。

●芸術領域で創作にたずさわる者が、医療・宇宙工学・環境など他領域の研究者と協力しつつ、さまざまな実験や試作、検証を行う実践的なチームづくりをする。
●並列的個人研究・制作に陥ることなく、グループ総体が有機的で多元的な研究プロジェクトとなること。その為のリソースと、場の共有と公開性の保持。
●研究成果の発表という側面よりむしろ、研究の中間報告、実験の演習場としての美術館での発表。また、シンポジウムとも連携することで、社会的討論の場を保証すること。
●作品鑑賞を中心とした展覧会ではなく、研究・創造のプロセスに触れることで作者・作品・鑑賞という美術における制度的関係を再配置する可能性の探究。

チームの半数は、1996年より宇宙開発事業団によって開始された「宇宙環境の人文社会科学的研究の意義と可能性に関する研究」に関わった経験を持つ。意見を交わすなか、宇宙環境に於ける身体・精神と表現の可能性を探る方法をモデルに、医療・環境・生命など地上の問題へとアプローチする構想を得た。京都大学大学院医学研究科人間健康科学や海外の研究機関との連携は、ここから始まることになる。記憶や運動感覚と連動することで知覚経験を変換する技術について、臨床的な関係から探求するとともに、そこから形成されうる新たな生命概念の意味についての考察へと向かった。まず、最初に出会った困難は、「情動」というような基本的な言葉一つにしても、神経科学、哲学、芸術のあいだで概念が異なり、共通の理解が得られないという状況。さらに重要な困難は、「芸術と先端科学の融合による領域横断的な研究」といった耳障りのよい言葉を表看板に掲げる時に、見失われがちな批判的なスタンスの取り方である。そのような懸念が、「evidence-based/experience-based: 科学的証明と経験の創出」、「meditation/mediation: 瞑想と媒介」、「conflict/commons: 対立と共有」など対となる言葉をキーコンセプトに選ばせたといえる。各研究領域を支える制度的枠組みを検証し、それらの関係を再配置することなしに、治療や鑑賞とは異なる新たな関係概念の構築は難しい。
チーム編成にあたって、もう一点欠かせない大事な留意事項があった。近代的所有概念への反発と帰依の間で延命を続ける芸術という労働を愛おしく思う者、厭わしく思う者、そのことで意見の一致を見る必要はない。ただ、生産および受容主体のアイデンティティを前提とした表現活動に対して、今回のプロジェクトチームではアイデンティティを前提としない活動や経験のあり方を探るということ。反コピーライトを標榜するといったほどの決意でなく、リソースが共有できる開かれた場こそが、別な資本のありかたの模索になるだろうといった鷹揚なバザー感覚。

04) スローターハウス・発達障害・宇宙
Sへ、メール有難う。我が家は、調べてゆくとどんどん問題がある箇所が出てきて大規模な復旧工事が始まろうとしている。調べると悪いところが出てくるのは、まるで、自分自身のようか。最近、美術学部に一億円寄付した人と食事をする機会がありました。その人はシカゴ郊外で、牛の屠殺用装置を製造して苦労しながら財を築いた謙虚な感じのご老人でした。成功談、失敗談と面白い会話が続く中、彼は、牛たちを興奮させずに、ストレスなしに、安らかに逝ってもらうことで、質の良い牛肉が製造されるという研究をしているコロラド大学のテンプル教授の事を教えてくれました。テンプル教授は、動物の行動心理分析を基に主に家畜保持器具の設計、研究で知られているそうですが、彼女の作った装置の一つに、牛が殺される前に、毛布のような柔らかい布で、しっかりと抱きかかえた状態にして、屠殺する装置があります。じつは、テンプル教授は強度の自閉症を長年経験してきた人でもあり、先の装置も彼女の経験をもとに発展させられたものらしい。一般に自閉症児は、人と視線を交わしたり、抱きつかれたりするのをまるで他者が自己に侵入してくるかのように極端に恐れます。このような症状を救うために、テンプル教授は20歳のころに、“Hug Box”という体を包み込み適度な力で抱きしめる装置を自分のために考案したそうです。この装置はその後も発展をとげ、実際の医療機関でも使用されているところもあるとも聞いています。この装置をより日常的な形で使用できないかという提案をもとに、テンプル教授は“Squeeze Chair”という体を抱きかかえる椅子をアーティストの協力で完成させました。面白いことに、この装置は井上明彦、中原浩大の宇宙プロジェクトと非常によく似たコンセプトデザインです。自閉症児童と宇宙飛行士の経験が自己定位や身体図式の問題でリンクしているということでしょうか。
宇宙プロジェクトとの関連でいうと、マイケル・スノーの“Central Region”という作品もなにか呼応するところがあるかもしれません。マイケル・スノーに関しては“Wavelength”という映像作品を通して、視覚、距離、速度の関係について、ジャコメッティのドローイングや、ビリヤードで玉を打つ時の視覚状態などと、比喩的に考えてみたいと以前から思っていました。“Central Region”という作品は、カナダの中部地帯の山頂に、X軸とY軸が360度回転する特殊な装置を設置して撮影した3時間の映像作品です。二つの回転運動をもとに常に変化し続ける映像を3時間にわたって視る体験は、自己の身体の軸がたえずズレて揺さぶられてゆく、奇妙でありながら宇宙的な経験です。これは松井紫朗の「宇宙の庭」と関連して考えても面白いのではと思います。

05) Trouble: 攪乱・炭疽菌
「生態系生存には攪乱が必要ですよ」。京都大学大学院地球環境学堂の森本幸裕教授は語る。1991年、アリゾナ砂漠——「未来のエデン」として「バイオスフィア2」プロジェクトが開始される。ガラス張りの巨大な空間のなかには、熱帯雨林、海、湿地帯、サバンナなどの環境が世界各地から持ち込んだ動植物で再現される。地球の環境問題や、宇宙へ移住した人類の閉鎖環境での生存の検証を目的とした実験は、2年交替で科学者8名が滞在し100年間継続される予定であった。しかし実際には、研究は2年間で終わってしまう。偶然の介入がない人工的環境では、人間はおろか植物も「自然」な生存を続けることはできず、砂漠のオアシスとして作られた海は、生態系の死を象徴するような緑のヘドロでよどみきっている。2008年1月にこの場を訪れた井上明彦はブログで以下のように記している。「海洋Oceanと呼ばれる人工池では、人工的に波を作り出して、渚らしきものを配している。だが上の遊歩道から見下ろしてすぐ、この渚は死んでいると直感できた。案の定、地下からガラス越しに見ると、藻類が大量発生し、底で軟泥化している。いわゆるGreen Slime。機械的に生み出された波が、規則的な揺れをつくりだしているが、京大の森本先生によると、生きた波はただ規則的な反復ではなく、大きな不規則性を内包していて、そうした乱れがないと自然の生命は延命できないという。風がなくてまわりの空気がたえず動いていないと、木が枯れてしまうのと同じ。個々の要素がいくら正しくても、それらの加算集合だけでは生きた全体は得られないという自然の教え。規則と不規則、秩序と乱れの動的バランスとしての生態系。バイオスフェアが建設された80年代は、まだこうした複雑系のメカニズムが十分に認識されていなかったという」。
1970年代以前のシステム論は、環境に生じた撹乱要因に対して、ネガティブ・フィードバックを通じて、自己を維持する安定化のメカニズムが研究された。ところが、70年代以降には、カタストロフ理論など、平衡系から非平衡系へと移行してゆく。複雑系などにも関連するオートポイエシス理論が、世界で初めて直接選挙により誕生したアジェンデ社会主義政権下のチリで生まれたことは興味深い。このアジェンデ政権が、「われわれは、ひとつの国がその国民が無責任なせいで、共産主義化するのを無為に見ている必要はない」と述べたキッシンジャー・ニクソン外交の介入で崩壊させられたのは、1973年9月11日火曜日である(同じ9月11日火曜日にニューヨークのワールド・トレード・センターで起きた出来事の28年前)。
「スティーヴがバイオ・テロの疑いでFBIに逮捕された……」。受け持ちの大学院生から、そう聞かされたのは2004年5月初頭のこと。カーネギーメロン大学時代の同僚のスティーヴ・カーツは、クリティカル・アート・アンサンブル(CAE)の創始者。さまざまなメディアを用いて、戦略的に政治・経済・テクノロジーに関わる批判理論・運動・制作を世界各地で繰り広げてきた。9・11事件以降、CAEは、極端に保守化するブッシュ政権のhomeland securityへの批判も込めて、炭疽菌テロにかかわるパフォーマンスなど、生命科学のテクノロジーを使用しながら、その危険性や背後に潜む政治について言及していた。パートナーであるホープ女史の急死を口実に、FBIは家宅捜査に入る。当局は、偽装工作まがいの証拠づくりをしてスティーヴを拘束しつづけた。真実が明らかにされないまま、全米に報道されたこの事件の決着がついたのは、オバマ政権に変わった昨年の9月。

06) 空を飛ぶ猿・病を予告する蜂
ハリー・パーチに師事していたデヴィッド・ダンは、その後、生態音楽へと彼を導いた奇妙な経験をする。カリフォルニア州のフロリダ渓谷には、動物園がある。そこでは、虎・熊・象・猿と何処にでもいる動物たちが鳴き声を上げている。渓谷沿いに歩いている時、デヴィッドは動物園で聞いた猿の声らしきものが聞こえてくることに気づいた。不思議なことに声は、上空から響いて飛び去って行く。まさか園から猿が空を飛んで逃亡してくるわけもあるまい。彼が目の前に発見したのは、モッキンバードという小鳥。この鳥が、猿の鳴き声を覚えて、まねをしながら空を飛んでいたのだ。ここから異なった動物間のコミュニケーションをテーマにした彼の方法論が形成されていった。現在、デヴィッドは、キクイムシの音声の研究により森林災害を虫の音を使って解決する試みを行っている。
「蜂は、高度な嗅覚記憶をもっていて、数分のトレーニングを数日繰り返すだけで、ターゲットとなる臭いを学習させることができるのです」。ロンドンのパブでスサーナ・ソアーズは、そう説明してくれた。皮膚がん・結核・糖尿病など病気によって共通の臭いを蜂に学習させ、蜂にわれわれ人間の健康を診断してもらう。
先端科学の医療機器による計測ではなく、生命体どうしのコミュニケーションとして、診断を位置づけるスサーナの試みは、魂の健康を占うアニミズムに通じる一方で、新たな情報テクノロジーの可能性として生命体を捉えてもいる。

07) BMI・スマイルスキャン
ジョナサン・クレーリー(『知覚の宙づり』)によれば、ベルグソンの記憶重視は、工場生産による大量生産システム、マスメディアによる現実経験を超えたイメージの流通などにより、人間本来の知覚が、自己を欠いたロボットにように、自動化されてゆくことに対する抵抗とされる。それに対して、ベンヤミンは、それら新しい形の知覚と積極的に関わることで、自動化を推し進め、解体される自己に可能性をみる。日常的に制度化された知覚の後にやってくる、もう一つの自己のテクノロジー。巷に流通する脳ブームを否定するにせよ、受け入れるにせよ、近年の脳科学の発展は、ヒトの心という概念に動揺を与えるものになってはいまいか。特に、ブレイン・マシン・インターフェース(BMI)に代表されるような、身体動作や言語を介さず、脳から直接、指令を送るという構成は、現象学に代表されるような「世界としての身体」と大きく対立する。正確に言えば、BMIは、「身体動作を介さず」、「自己の意志」で世界をコントロールしようとするものではない。脳内では無数の指令が行き交っているが、その中で、自己の身体に可能なもののみが選択されている。逆に言えば、指令が選択されたとき初めて、「自己の意志」というものが形成される。ベンジャミン・リベットは『マインド・タイム』でこのように事後的に構成されるセルフの「気づき:アウェアネス」について述べている。ある意味で、ここでは身体は可能性としてではなく、限界、フィルターとして捉えられている。BMIは非身体化した、非人称の指令が行き交うカオスあるいは外部としての脳という別の認識を示唆しているともいえる。そこから逆に振り返ってみると、五体満足な理想的な身体イメージでなく、多様な形態を許すヒトのありかたへと繋がる。
2009年度のタイム誌で世界ワースト3位の発明品に選ばれたのは、オムロンのスマイルスキャン。サービス業に関わる店員の挨拶など笑顔を数値化して、いかに明るい表情をつくるかを訓練させる道具。あるいは、表情から生産される精神。サービスの質を管理・チェックするこの装置開発は、意外なことに、和歌山の盲学校の依頼からスタートした。視覚障害の生徒に笑顔という表情の意味を理解させ、自らが作り出している表情を知ることがその目的であった。顔の表情を作り出す筋肉は、30種類以上もあり、それが複雑に関連しあっている。スマイル指数を0から100までの段階で表示するこの装置の前で、表情筋を動かすことで、笑顔と微妙な筋肉の関係を視覚障害者は理解できる。また、見えない自己の表情とそれに対する他者の反応のズレについて語り合う場所が可能にもなる。

08) ワンダフルライフ・ヘータイノ コーバ
宇宙から眺めた地球の美しさは、生命の神秘を決定的な力で宇宙飛行士に知らしめるということを我々は学んだ。一方で、我々は「光は波動である」と「光は粒子である」という両命題を同時に認めることで成立する量子力学があることも知っている。誰もが共有できる経験と人間的経験の彼岸。
In January 1972, a Japanese soldier was found and arrested on Guam Island.  His name was Shoichi Yokoi.  He had been hiding in a cave for twenty-eight years.  He did not know that the war had ended on August 15, 1945.  He still believed that the emperor was God and that Japan was at war with the U.S.A.  For many Japanese people, Mr. Yokoi was like a time-traveler.  For him, time was moving but history had stopped, space existed but the place did not.

いかに合流が緊密であっても、本性を異にする二つの要素、二つの過程がある。(中略)「把握不可能なもの、私が把握できないもの、私といかなる種類の関係もなく、決してやって来ず、私が向かって行けない」非人称的な死であり、もう一つは、最も辛い現在に到来して実現される人称的な死、
(中略)二つの過程は本性的に異なっている。だが、本性的かつ必然的に一方が他方に沿って進まないようにするためにどうすればいいのか。(中略)より精確には、被害者や真の患者の特徴である全き実現に用心しながら、出来事の反–実現、役者やダンサーの単純な平面的表象[=上演]だけに止めておくなどということ可能だろうか。(中略)
波打ち際に留まったままで(中略)狂気について話しているのだろうか。そんなお喋りの専門家になるのか。やられた者が深入りしないことだけを願うのか。募金をしたり特集号を組んだりするのか。それとも、裂け目を伸ばす程度には、少しだけ自分で見に行き、少しアルコリスムになり、少し狂気になり、少し自殺願望になり、少しゲリラ兵になるが、裂け目を治癒不可能になるまで深くしない程度にしておくというのか。

(ジル・ドゥルーズ『意味の論理学』)

彼らはホテルの一室で寝ている。彼らは裸である。滑らかでまったく無疵の、肉体と肉体。何について、彼らは話しているか? まさしく、ヒロシマについて。彼女は彼に向って、自分はヒロシマですべてを見たのだと言う。彼女が見たものが画面に現れる。それは、怖ろしい。しかし、それに対し、彼の声は否定的な調子で、空しいさまざまの映像を非難するだろうし、また、彼は、彼女がヒロシマで何も見はしなかったのだということを、個人の立場を離れて、我慢がならないといったふうに、繰り返し語るだろう。(中略)ヒロシマについて話すことは不可能なのだ。なしうるすべてのこと、それは、ヒロシマについて話すことが不可能であるということについて話すことである。ヒロシマについての認識は、精神の陥る典型的な罠として、先験的に設定されているので。(中略)いたるところで、ひとびとはヒロシマについて話すことができるのだ、たとえ、ホテルのベッドの中、偶然のめぐりあいの愛、姦通の愛のさなかであろうとも。

(マルグリット・デュラス『ヒロシマ、私の恋人/かくも長き不在』)

[三月生まれの方の誕生日紹介]
「サンザツ ウマエ、ウマレノ カタノ ザンニョービ、サンヨービ、タンゾービノ、ショーカイ」
[次は楽しい体操です。五十嵐先生です]
「トシハ、ツイハ、ツギハ タオシー タイソーゼス。イナシセンセーデス」
[閉会の言葉]
「ヘータイノ コーバ」
(佐野洋子・加藤正弘『脳が言葉を取り戻すとき 失語症のカルテから』)



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