展覧会没後10年 麻田 浩展
III. 「制作ただ一すじの生活」 1983–1997
没後10年 麻田 浩展
III. 「制作ただ一すじの生活」 1983–1997
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《地・洪水のあと》 1985–86年 京都国立近代美術館蔵
京都に帰った麻田浩は、滞欧時の活動も認められ、1983年4月、京都市立芸術大学美術学部西洋画科の教授に抜擢されました。すでに若いときから、ともに活動を行い、同大学で教鞭をとっていた森本岩雄教授(現同大学名誉教授)の推薦があったといいます。学部・院生合わせての指導に週3日出講しながら、麻田浩は、病に冒されながらも、旺盛な制作活動を行います。滞欧時からの延長ともいうべき石や水滴、羽根などの自然物を対象とした「原風景」に加え、新たに「原都市」と名づけられた人工的なモチーフにも、関心が深められてゆきます。
《蕩児の帰宅(トリプティックのための)》 1988年
そして、これらのテーマを綜合したかのような《地・洪水のあと》を完成、1986(昭和61)年には、この大作1点による個展を京都で開催しました。そして、少年時代に夢中になった昆虫採集の記憶がよみがえる蝶などのモチーフとともに、1960年代の作品に大きく描かれていた、セミの羽根を思わせる大きなシルエットも再び現れます。加えて、異邦人として、自ら「旅人」という言葉で捉えたヨーロッパの記憶は、《旅・影》《机上の旅》などの代表作の誕生に連なり、前章でも触れた《蕩児の帰宅》の大作も、この時期に生まれた問題作にほかなりません。さらに、《水の中》や《御滝図(兄に)》《かの船出のとき》《水ふたたび》をはじめ、水滴から「水」そのものへと移行する表現は、明確に宗教的なテーマへの傾倒を示しています。まさにこれらの作品制作と相前後するようにして、1991(平成3)年に、麻田浩は、洗礼を受けたのでした(洗礼名はジャン・ピエール)。
ところで、麻田浩はかつて、現在東京の根津美術館が所蔵する《那智滝図》(13世紀末)が、日本絵画のなかでもっともすぐれた作品だと語り、実際、自宅アトリエにもその複製画を飾っていました。落下する滝にも、神が宿るという自然崇拝の意味が込められているように、それは、青年時代に熱中した山登りにおける「滝との遭遇体験」と重なり、麻田浩にとって、間違いなくひとつの「原体験=原風景」でした。こうした宗教的なテーマを求めて、晩年、さらに主題は深化してゆきます。
そして、《御滝図(兄に)》からも明らかなように、日本画家であった麻田鷹司へのオマージュという意味をも超えて、麻田浩にとってこの作品の発表は、まったく新たな表現世界を予告した出来事だといえるでしょう。油彩技法による日本的感覚の追求のみならず、アトリエには、日本画材である真新しい岩絵の具や彩色筆なども残され、麻田浩は晩年、「日本の風景・風土をモチーフにしたい」とも記していました。
《沼・月》 1997年
また、昆虫や魚のみならず、野鳥も好んだ麻田浩は、きわめて私的な物語のニュアンスをも融合させながら、《バード・スペース》や《住処(すみか)・鳥》《居るところ・鳥》など、一連の作品を残しています。それは、キリスト教においては、自由に空を飛ぶ鳥の姿は超現実的なものの象徴と捉えられ、神が鳥にたとえられることとも響きあい、「命の木」にとまる鳥たちもまた、教徒を意味していたことさえ思い起こされます。そして、麻田浩がアトリエで命を絶った時、イーゼルには未完の大作《原(源)樹》が残されていました。「命の木」には、原罪の象徴である蛇とともに、果実(りんご)がはっきりと描かれ、最後の完成作というべき《沼・月》の作品には、「Hiroshi ASAD」というサインも入れられていたのです。
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