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展覧会没後10年 麻田 浩展
 II. パリへ「画家の道を求めて」 1971–1982

没後10年 麻田 浩展
 II. パリへ「画家の道を求めて」 1971–1982


没後10年 麻田 浩展: 紹介文

 

《ル・トロトワール no. 1》 1974年
 

  1971(昭和46)年9月16日、麻田浩は美禰夫人とともに、さらなる創作の原点を探ろうと、パリへ旅立ちました。当初は半年、あるいは一年のつもりであったようですが、このパリを中心としたヨーロッパ滞在は、1982(昭和57)年まで、11年余の長きにおよびました。そしてこの地において、麻田浩は自己の表現スタイルを獲得し、作品は高く評価されたのです。
  自ら「具体的なことの計画は一切たてていなかった」とふり返るように、到着後しばらくは、パリを中心にイタリアなどを精力的に旅するものの、制作に集中できない日々が続いたようです。翌1972年には、サロン・ドートンヌに出品しはじめ、自由学生として、パリ高等美術学校などにも通っていました。そしてこの年、麻田浩は以前から版画家として注目していた、フリードランデル(Johnny Friedlander)の主宰する版画研究所の門をたたき、集中的な版画制作を行います。これらの銅版画作品は、パリのみならずヨーロッパでも高い評価を得て、版画集の出版や展覧会も開かれるまでになりました。本章でも、この時代の麻田浩の制作を象徴する版画作品の秀作を、数多く集めて紹介しています。
 

《石. 水. 地》 1975–76年
 
  ところで、渡欧当初は、なおシュルレアリスム風の油彩画を継続して描いていた麻田浩ですが、1973(昭和48)年6月あたりから、縦・横同じサイズの風景画制作に着手しはじめます。自筆メモには、「土の風景」「赤い画・・・赤い地表」「地表風景と従来の作品の綜合を目指しているのだが、世界風景を描くという事を、いつもねがっていなければならない」などと記され、これが、代表作ともなる一連の「原風景」作品へと展開してゆくとともに、自信作《ル・トロトワール》の連作も生まれました。
  また、オランダ・ロッテルダムのボイマンス=ファン・ビューニゲン美術館で、従来は「放蕩息子の帰還」と題されてきた作品に感動、キリスト教的主題にも強く惹かれるようになります(このことは、第III章でも紹介するように、帰国後も、この体験は深く刻まれ、自ら《放蕩児の帰宅》という大作に結晶します)。翌1974年には「絵の事を考えるとどうも眠れない。しかし、あわてることはない。じっくりと考えることだ。世界風景という、大テーマ。これは一生続けねばならないと思う」という確信をもつに至りました。そして、油彩画・版画と相互に連動した作風の形成が実現されます。
 

《土のはなし(5)》 1978年  福井県立美術館蔵
 
  以後も、絵画・版画ともに国際展に数多くの出品が記録され、1977年(昭和52)年にはカンヌ国際版画ビエンナーレでグラン・プリを獲得するほか、フランス、ドイツ、ベルギーなどで個展が開催されるなど、高い評価を獲得し、着実に国際画家としての階段を昇ってゆきました。さらに注目すべきは、渡欧中にもかかわらず、新制作展はいうまでもなく、安井賞展や「明日への具象展」をはじめ、日本国内で開かれた多数の展覧会にも精力的に大作を送り届けてもいることでしょう。
  しかしながら、長い異国の地で、極度に神経をすり減らす版画の仕事とともに、体力を消耗する油彩画の大作を制作し続けたことは、体調を徐々に崩してゆく原因ともなりました。1982(昭和57)年の11月、滞在中に授かった二人の子供も連れて、麻田浩は帰国し、京都に戻ります。

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