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展覧会投稿 No. 5 (小金沢 智)

投稿 No. 5 (小金沢 智)


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ご返答ありがとうございます。小金沢智です。
  古田さんがこの展覧会を、「江戸時代篇、近代篇、現代篇というふうに3部構成」で考えられていたこと、大変興味深い発言でした。以前古田さんが企画なさった「琳派 RIMPA」展が、「琳派」という今や定着したかに見える用語を再考する試みであったこと、そしてそれが近世・近代・現代という構成で行われたことが思い出されます。ただあのような試みは、「琳派」という一流派(「琳派なんて、本当にあったのか?」という安村敏信氏による発言ももちろんありますが)であったからこそできたもので、一用語に留まらない「日本画」「洋画」問題を各時代に当てはめて検証するというのは、膨大な作品・言説を必要とするのでしょう。「江戸時代篇」「現代篇」を待ちたいです。
  ただ私は、「琳派 RIMPA」展や「揺らぐ近代」展のように、美術史において作品とともに用語を再検証するという作業の必要性を強く感じながらも、それが結局言葉の問題に収斂してしまいかねないということに、ジレンマを感じてしまいます。確かに私たちはある絵画を鑑賞すると、何らかの言葉を用いてその時の感情を表そうとします。美術史学は私たちが普段するそういった行為を、数々の資料に当たることや思索を続けることでより明晰に言語化しようとし、集積したものではないでしょうか。ただそうなると、古田さんもおっしゃっているように、「適当な言葉が当てはまらないために見てみぬふりをされかねない」ものが出てくるのです。私が卒業論文で取り上げた河鍋暁斎はまさにそういった画家でした。語りづらいモノはそれゆえに語られず、歴史という舞台から消えていきます。そしてジレンマとは、そうして私は感覚ではなく言葉によるしかない美術史の不自由さを感じながらも、結局何かしらの言葉を用いない限り、ある作家についての自らの立場を明確にすることができないということでした。言葉から自由になることはできないのです。
  小説家の高橋源一郎氏は『ニッポンの小説』(文藝春秋、2007)という評論集で、「散文」について以下のように述べています。私はここでいう「散文」の性質がそのまま、「美術(史)」にも当てはまるように思えました。引用します。

  「散文」は、未知のものを、決して、そのままにしておこうとはしない。
  そこに「何か」がある。ポツンと置いてある。誰にも知られず存在している。なぜ、誰にも知られていないのか(どうやら、みんな、ちらりと見るだけは見ているのに)。それに、名前がないからだ。ことばがくっついていないからだ。ことばがくっついていないということは、この世界に所属していない、ということだ。そういうものを「散文」は、放っておけない。 なぜ、放っておけないのか。「散文」は、そんなことは考えない。まあ、それは、「散文」の本能のようなものだと思えばいい。とにかく、どのようにも名づけられないものがあるということは、きわめて不吉なことだ(と「散文」は考えている)。
高橋源一郎『ニッポンの小説』(文藝春秋、2007)

もしかしたら、例え「未知のもの」であったとしても「放っておかれない」だけ、「散文」の方がいくらかましかもしれません。しかし「美術(史)」の世界もまた、「名前がない」ものを「世界に所属していない」と見なし、やたら名前をつけようと試みる点で同じではないでしょうか。それは、全15回を数えた読売アンデパンダン展の終盤で、一部の作品群が東野芳明氏によって「反芸術」と名付けられたことに端的に表れています。そうして私たちは、見知らぬものに名前を付け続けてきました。しかし中原佑介氏は、2005年に国立国際美術館で行われたシンポジウム「野性の近代 再考——戦後日本美術史」で、「もの派」について以下の発言を残しています。

  「もの派」という名前をつけると、ああそうかと安心する。彫刻や絵画と違って、ものが云々という、そういう納得をしてしまう。だけどその分だけそれから受ける感動だとか、感動しなくてもいいんですけれども、何事かは薄まってしまうと思うんです。
  (中略)
だから、作品は名前のはっきりつけられない間が一番いいと思うんですね。つけたら一巻の終わりだと私は思っています。
中原佑介『野性の近代 再考——戦後日本美術史 記録集』
(国立国際美術館、2006)

「つけたら一巻の終わり」という発言は極端ではありますが、それでも私たちは、ある作品について「語る」(「名前をつける」)という行為をする一方、「語らない」(「名前をつけない」)という行為もまた考えなければならないのではないでしょうか。それは「美術史」という言説や「展覧会」という制度を否定することでは決してありません。歴史区分に惑わされず、「揺らいでいないものなどない」という視座に立ち、私たちはいま一度、「絵画」を「見る」という原点に立ち返ることが求められているように思うのです(それは極めて難しいことですが)。

小金沢 智 (24歳)
明治学院大学文学研究科芸術学専攻美術史コース
博士前期課程一年目
東京都


(2007/02/15 小金沢 智)


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