展覧会投稿 No. 1 (三瀬夏之介)
投稿 No. 1 (三瀬夏之介)
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現代の作家が作品を立ち上げる時に日本画を描こう!洋画を描こう!現代美術をやろう!なんて思っていることは少ないだろう。が、しかしその作品がこの世に生み出された瞬間からそれは名付けられ、ジャンル別けされる宿命にあるということも私たちは知っている。作家の眼前において今までにないヴィジョンがある瞬間立ち上がることはあるだろうが、その後、何ごとにも回収されない作品などありえない。生みの親でさえそれが何なのかを理解しようとするものだ。作品が生まれでることにおいて、作家の初発性は大前提であるが、それが回収される瞬間にこそ、作家のあらがいとして言葉が生まれ、次の名付けられぬものが生まれる。
「お前の作品は日本画だ!」 「お前の作品は日本画ではない!」
自身において決定されていることなんて何一つない。
作家が思いのままに作り上げたものがしょうがなく、
事後的にどこかへ再編されていくわけだ。
ただしょうがなく宿命のように日本画教育を出自としている者が、その歪んだ形式に自覚的かつ意識的に再接近していくということはある。それはしょうがなく宿命のように日本に生まれた大前提を持つ者が、その歴史性に再接近することに似ている。
また現代の作家たちと、揺らぐ近代展に並ぶ作家たちの時代背景の違いも大きいだろう。現代においてある一点の作品が時代を変えると信じているものはいないだろう。明治期とは社会における絵画の重要性が違いすぎる。今、私たちの前にはすべての技法、テーマがその歴史性を抜きにして並列にならんでいるという実感がある。しかし矛盾するがさらにそれと並列して、日本で絵を描く私にとって、それがどんなに古臭いことであっても「日本画」は無視できない存在であるという思いもねじれて存在している。これは「日本画」に限ったことではない。「洋画」だって「彫刻」だって「工芸」だって「版画」だって歪んだ歴史を背負っている。
現在の作り手の実感から言うと、作品というものは自分よりあまりに大きなもの、遠いものに対してそう簡単にはつくれない。個としての自立を求める社会性が奪った共同幻想をもう取り戻すことは不可能なのだろうか?成熟しきった日本の不様な姿をさらすしかないのだろうか?
とにかく作家とはある定点から過去を俯瞰できる余裕のない、揺らぐ存在そのものの核にいる。あたり前だが、作家はけっして時代区分だけに生きているわけではないからだ。
今の時代に揺らがない価値などない、そして美術館も例外ではないとするのなら、作品を名付け、価値付ける語り手には時代の先を読み、その流れによってはいつでも物語りをリセットし再編集しうる速度と柔軟性と説明責任が求められるだろう。名作とはそのどれをも受け入れる器の大きさのことを言うのだろうから。だから私は絵を描くことをやめることができないのだろう。
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