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コレクション展

2025年度 第3回コレクション展

2025.10.07 tue. - 12.07 sun.

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印象派とその前後——近代フランスの風景画

 19世紀、アトリエから戸外に出て、自然光の下で制作を行う画家たちが現れはじめました。今回は当館の寄託作品から、印象派とその前後のフランスの画家たちによる風景画を紹介します。
 ウジェーヌ・ブーダン(1824-1898)は海景画を得意とした画家です。水面上に広がる、光や大気の様子をつぶさに捉えた空の描写は画家カミーユ・コローや詩人シャルル・ボードレールに称賛され、クロード・モネ(1840-1926)ら印象派の画家にも影響を与えました。《アントウェルペン、スヘルデ川の船》は普仏戦争を避けてベルギーに滞在していた頃の作品です。
 ブーダンは青年時代のモネに戸外制作の手ほどきをしたことでも知られます。そんなモネが《春、エプト川の柳》で主題としたのは、1883年に移住したジヴェルニーを流れるエプト川。彼は川縁のポプラや柳を何度も描いています。のちにモネは同じモティーフを時間や日を変えて繰り返し描いた《積み藁》や《睡蓮》などの連作を手掛けますが、本作はそれらの先駆けといえるでしょう。
 印象派の代表格のひとりアルフレッド・シスレー(1839-1899)は900点近い油彩画を残しましたが、その殆どを風景画が占めています。《村への道》が制作された1880年から2年間、シスレーはパリの南南東およそ70キロに位置するヴヌーに居を構え、その後もそこからほど近いモレ=シュル=ロワンに移住して制作を続けました。本作もその周辺の風景を描いたものと推測されます。
 印象派の画家たちは色をパレット上で混ぜずに画面に並べて配置し、鑑賞者の眼の中で混色を行う「視覚混合」を部分的に用いました。新印象派のジョルジュ・スーラやポール・シニャック(1863-1935)は、点描による筆触分割を取り入れ、視覚混合を理論的・体系的に使用しました。盟友スーラの死から1年後の1892年、シニャックはヨットで南仏の港町サン=トロペを訪問します。彼は当地を「生涯を捧げて取り組むのに十分なものを、ここで私は手にした。これが、まさに今、私が見つけた幸福である」と書き残すほど気に入り、別荘を構えました。《サン=トロペ、岬》では明るい色の、点よりも長い色面を並べることで、眩しい日差しとそれを反射する地中海が装飾的に描かれています。
 彼らが関心を向けた光や大気がどのように絵画化されているか、どうぞじっくりとご覧ください。


堂本家の人々と東丘社 三輪晁勢《家》1954

 堂本印象は、京都に生まれ、京都を拠点として活躍し、京都で亡くなるというように、まさしく京都の画家と言える存在でした。大正8年(1919)に画壇デビューを果たしてからは、卓越した画力と優れた発想力によって飛ぶ鳥を落とす勢いで活躍し、文化勲章受章や京都市名誉市民として表彰されるという栄誉に浴しています。この京都画壇を牽引する存在であった堂本印象の家族は、芸術一家と言ってよい広がりを持っています。
 印象は9人兄弟ですが、長兄は芸能研究家、次兄は漆芸家であり、5人いる妹のうち4人は漆芸家や日本画家と結婚しています。四男の四郎は印象のサポートをしていたことで知られ、その息子の堂本尚郎は画家として活躍しました。尚郎は京都市立美術専門学校日本画科を卒業し、日本美術展覧会(日展)に日本画を出品して入選を重ねるなど日本画家として活動していました。印象は昭和27年(1952)にヨーロッパ遊歴へと旅立っていますが、これに尚郎も同行しています。尚郎はこのときの経験から昭和30年(1955)にフランスへ留学し、日本画から油彩画へ転向して、当時ミシェル・タピエが提唱していた「アンフォルメル」という概念に呼応する抽象的な画風を確立しました。印象はタピエと接点を持ったことでアンフォルメル風の抽象画を描いていますが、この仲介をしたのが尚郎でした。
 堂本家には尚郎のほかにも、印象の長兄・寒星の養女(次兄・漆軒の娘)と結婚し、昭和26年(1951)に印象の画塾「東丘社」に入門した堂本元次がいます。寒星の養女との結婚を世話したのは、印象とともに画塾「青甲社」で学び、印象の妹と結婚していた日本画家の森守明でした。元次は京都市立絵画専門学校日本画科で学んでおり、同級生にはパンリアル美術協会を創設した大野俶嵩や下村良之介がいました。画塾の指導者であった印象が抽象画へと移行し、かつての同級生が新しい日本画を求めて伝統から脱却していく中で、元次も一時期は抽象画を描いていますが、昭和54年(1979)に中国を訪れたのをきっかけに、風景を独自の世界観で描く具象的な画風を確立しました。
 元次も所属していた東丘社は、昭和8年(1933)に発足し、弟子の三輪晁勢が名付けました。晁勢は、まだ画学生であった印象に弟子入りを懇願したというエピソードが残されているように、早くから印象の才能を見抜き、自身の師とするなど鑑識眼と行動力を兼ね備えた人物で、印象没後は東丘社の代表を引き継いでおり、印象門下でも重要な存在です。戦前の東丘社では東丘社展のほか、如月会展、春輝会展、緑牕会小品展などの小品の展示販売会も行われました。展覧会に出品して芸術家としての力量を競うだけでなく、コレクターなどの購入者との関係を築く場も提供されており、画家として生きていくためのより実践的な指導が行われていました。東丘社展は戦争による休止をはさんで平成5年(1993)の第50回展で一区切りとなりましたが、平成23年(2011)に再開され、本年5月には第63回展が開催されました。本コーナーでは、印象をはじめとした堂本家に関わる人々の作品を展示するとともに、東丘社で学び、活躍した三輪晁勢、曲子光男、山本倉丘、山本知克、石川義、岩澤重夫、三輪晃久の作品を紹介します。


新収蔵品より:あるコレクターの写真との対話 エドワード・スタイケン《グレタ・ガルボ》1928年

 京都国立近代美術館では、2024年度に写真作品51点を新たに収蔵しました。これらの作品を所蔵していたアーノルド&テミー・ギルバート夫妻は、1960年代から1980年代にかけてシカゴを拠点にアメリカの写真家たちと交流しながら写真コレクションを築きました。ギルバート・コレクションといえば、当館が1986年に京セラ株式会社の協力のもと収蔵した1050点の近代写真コレクションをご存じの方も多いでしょう。アルフレッド・スティーグリッツやアンセル・アダムスなど近代写真史を彩る巨匠の代表作を数多く含み、それらのほとんどが写真家自身の焼付によるオリジナル・プリントであることから、世界屈指の写真コレクションとして知られています。
 今回収蔵したコレクションには、アーノルドが2001年に他界するまで手元に残してきた貴重なプリントや彼の家族との思い出がつまった作品がそろい、彼のコレクターとしての感性や交友関係をうかがい知ることができます。例えば、エドワード・スタイケンが撮影したグレタ・ガルボのポートレイトは、1970年にアーノルドの50歳の誕生祝として義母から贈られた一枚で、長らく自邸に飾られていたといいます。1986年収蔵のコレクションがいわば「近代写真史の教科書」としての役割を果たしてきたのに対し、今回の収蔵品は、より個人的な感性やコレクターの人生を反映したものといえるでしょう。旧知の作品にも新鮮な見方をもたらしてくれることを期待して、今回の展示では新旧の作品を織り交ぜて紹介します。


創造性の胎動——《精妙》《清華》を中心に 板谷波山《瑞兆(精妙)》1929年頃

 《精妙》《精華》は、大正時代から昭和初期の工芸シーンを代表する16名の作品をまとめて、昭和4年(1929)頃に佐藤慶太郎(1868–1940)に贈呈されたものです。北九州出身の実業家で「石炭の神様」と呼ばれた佐藤は、大正15年(1926)に開館した東京府美術館(現在の東京都美術館)の建設費を寄附した人物です。同時代の美術を恒常的に展示する、日本で初めての施設でした。同館には「工芸品陳列室」が設けられ、開館記念となる「第一回聖徳太子奉賛美術展」では、日本画、洋画、彫刻に工芸も加わり、総合的な展覧会がおこなわれました。それまで、官展である帝国美術院美術展覧会(帝展)には工芸部門がなかったことを思うと、画期的なことでした。その後昭和2年(1927)に帝展に「第四部 美術工芸」が設けられると、同館は会場として使用されることになります。これは作家たちの継続的な働きかけが実を結び、工芸が日本の美術制度に位置づけられたことを意味しています。
 《精妙》の表紙裏には、東京美術学校(現在の東京藝術大学)校長を務め、美術館設立にも尽力した正木直彦(1862–1940)による作品の由来が記され、絵画・彫刻に並んで「競技の壇上」が用意されたことを喜ぶ作家たちの感謝が伝えられています。
 本作に参加した作家に目を向けると、東京美術学校の1期生として漆工を学び、岡倉覚三(天心、1863–1913)のもと文化財の保存と研究に携わった六角紫水や、同校で鋳金を学び、奈良時代や中国唐時代などの古典研究に取り組んだ香取秀真がおり、紫水や秀真とともに工芸済々会を立ち上げた、板谷波山や植松包美、海野清、赤塚自得、清水南山なども見られます。フランス留学を経て、早くから工芸分野の美術展の必要性を訴えてきた津田信夫は、後に続く世代として金工の表現を切り拓いた高村豊周(1890–1972)から「絶えず大局に眼をつけて大きい工芸界の流れを作って行こうとする」と評された作家でもありました。
 ここでは《精妙》《精華》を中心に、モダニズムへ通ずる工芸のいわば胎動期を担った作家による作品を紹介します。


六代清水六兵衞の陶芸 六代清水六兵衞《玄窯梅花瓶》1955年

 六代清水六兵衞は、日本画家の堂本印象とも交流があり、清水家の玄関には長年にわたり印象が描いた抽象的な背景に「陶」の文字をあしらった額が掛けてありました。
 六代六兵衞は明治34(1901)年に京焼の名家の清水六兵衞家に生まれました。本名は正太郎。京都市立美術工芸学校および京都市立絵画専門学校(現、京都市立芸術大学)で竹内栖鳳、山元春挙など京都画壇の巨匠たちから日本画を学んでいます。その後兵役につきましたが、復員後の大正14(1925)年から父である五代六兵衞に師事して製陶技術全般を習得しました。昭和2(1927)年の第8回帝国美術院展覧会(帝展)に初めて第四部美術工芸部が設置された際に作品を出品し入選。その後、第12回、15回帝展で特選を受賞しています。このように活動の初期から帝展(文展、日展)を中心に目覚ましい活躍をみせるとともに、多くの個展や展覧会に招待出品されるなど昭和の陶芸界を代表する一人となりました。
 その作品は、初期のアールデコ調の図案風のものから古典に学んだものまで幅広くありますが、特に三彩、玄窯、銹泑、古稀彩などは六代を代表する装飾技法としてよく知られています。六代六兵衞は日本画の素養をもとに確かな作陶技術と経験を通じて優品を数多く制作しましたが、京焼の名家に生まれた作家らしく、重厚ながらも雅な作風が特徴だといえます。
 昭和37(1962)年に日本芸術院会員に任命され、京都のみならず日本陶芸界の重鎮として若手の指導育成にも尽力しましたが、昭和55(1980)年に東京で開催された「京焼の華 清水六兵衛歴代名陶展」のレセプション会場での挨拶中に倒れ急逝。その突然の死は京都のみならず全国の多くの陶芸家ならびに陶芸愛好家に惜しまれました。


松本竣介・靉光・麻生三郎 松本竣介《Y市の橋》1946年

 当館の洋画コレクションは、関西美術院の浅井忠門下の画家たちや、京都に生まれて京都に生きた須田国太郎とその教え子たち、京都に住んだ時期もある岸田劉生など、京都を拠点に活動した人々の作品を中心にして形成されてきましたが、もちろん京都との関係の有無にかかわりなく広く近代絵画史上に重要な位置を占める作家たちの作品を収集の対象としています。そうした中で近年は、靉光(1907-1946)や松本竣介(1912-1948)の重要な作品を購入しました。また、松本竣介や麻生三郎(1913-2000)の作品を寄贈いただきました。
 そこで今回は当館コレクションの中から、松本竣介、靉光、麻生三郎の作品を、新収蔵作品に既収蔵作品、寄託作品も合わせてご覧いただきます。
 彼ら3人は昭和初期にともに活躍し、互いに親しい関係にあった画家たちです。靉光と松本竣介は東京の太平洋画会研究所で絵を学び、麻生三郎は同研究所の後身にあたる太平洋美術学校に学びましたが、その時点では互いに接点はなかったようです。松本竣介と靉光の交流は、1932(昭和7)年、松本竣介が赤荳会を結成した頃に始まり、松本竣介と麻生三郎の交流は、その1年前の1931年、松本竣介が太平洋画会研究所の仲間たちとともに結成した太平洋近代芸術研究会に、麻生三郎も参加したことに始まりました。靉光と麻生三郎の交流が始まったのも同年頃です。そして1943年、松本竣介、靉光、麻生三郎は仲間たちとともに新人画会を結成しました。この会は、第二次世界大戦末期、表現規制が強まる不自由な状況においても描きたいものを自由に描きたかった彼らの、自由な発表の場となりました。昭和の戦時中や戦後の日本において美術家たちが何を思いながら制作していたのかを考えようとするとき、重要な手がかりを与えてくれるのが松本竣介、靉光、麻生三郎等の活動です。そして靉光が戦地で亡くなり、松本竣介も戦後まもなく亡くなったあとも、当時の思いを抱き続けながら平成前期まで活動したのが麻生三郎です。社会における美術の役割について考えさせる力を持つ彼らの作品を、今後もさまざまな形でご覧いただけるようにしたいと考えています。


キュレトリアル・スタディズ16:
荒木悠 Reorienting ―100年前に海を渡った作家たちと―

 京都国立近代美術館では、当館の各研究員が日々の美術館活動を通じて得た問題意識を出発点に、その成果を発表する「キュレトリアル・スタディズ」を2008年から不定期で開催しています。16回目にあたる本展は、現在京都市を拠点に国内外で活躍するアーティスト・映画監督の荒木悠(1985-)をゲストアーティストに迎え「キュレトリアル・スタディズ16:荒木悠 Reorienting ―100年前に海を渡った作家たちと―」を開催します。
 荒木が初めて海の向こうのアメリカへと渡ったのは、3才の頃でした。英語がままならなかった荒木は、絵で異なる言語を話す友人たちとコミュニケーションを取り、大人になっていつしか美術作家として活動を始めました。彼は現在も、国と国、都市や地域の行き来を続けます。そして各地で様々な人や文化と出会いながら、文化間の邂逅や摩擦、歴史の奥に潜む物語の層を、ユーモアと批評性に富んだ作品として発表してきました。
 この展覧会では、荒木の新旧作品と越境する眼差しを、京都国立近代美術館のコレクションから当館研究員が選んだ国吉康雄(1889-1953)、石垣栄太郎(1893-1958)、野田英夫(1908-1939)という、3名の「日系移民作家」の作品に重ねます。そして移動と越境、表現の関係を掘り下げながら、過去と現在を照らし合います。
 戦争や不況、「我々」と「彼ら」を分断する思考など、国吉・石垣・野田が約100年前に直面した情勢と通じる状況が現在進行形で続く今日、本展がこの複雑な世界で共に生きる一人ひとりの現在地と進む先を見つめるきっかけになれば幸いです。
 最後になりますが、本展開催にあたり常に惜しみないご尽力を賜りました荒木悠氏に、心より感謝を申し上げます。


会期 2025年10月7日(火)~12月7日(日)

テーマ 印象派とその前後——近代フランスの風景画
堂本家の人々と東丘社
新収蔵品より:あるコレクターの写真との対話
創造性の胎動——《精妙》《清華》を中心に
六代清水六兵衞の陶芸
松本竣介・靉光・麻生三郎
キュレトリアル・スタディズ16:
荒木悠 Reorienting ―100年前に海を渡った作家たちと―

常設屋外彫刻

展示リスト 2025年度 第3回コレクション展 (計155点) (PDF)

開館時間 午前10時~午後6時
*金曜日は午後8時まで開館(11月28日、12月5日を除く)
*入館は閉館の30分前まで

休館日 月曜日(ただし10月13日、11月3日、24日は開館)、10月14日(火)、11月4日(火)、25日(火)

観覧料 一般 :430円(220円)
大学生:130円(70円)
高校生以下、18歳未満、65歳以上:無料
*( )内は20名以上の団体
国立美術館キャンパスメンバーズは、学生証または職員証の提示により、無料でご観覧いただけます。
*チケットは日時予約制ではございません。当館の券売窓口でもご購入いただけます。

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夜間割引 夜間開館日(金曜日)の午後6時以降、夜間割引を実施します。
一般 :430円 → 220円
大学生:130円 → 70円

無料観覧日 11月3日(月・祝)、11月15日(土)、11月16日(日)、11月29日(土)、12月6日(土)
*都合により変更する場合がございます。

展示リスト 2025年度 第3回コレクション展 (計155点) (PDF)

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