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コレクション展

2024年度 第3回コレクション展

2024.09.13 fri. - 12.01 sun.

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シュルレアリスム宣言100周年 ヴィーチェスラフ・ネズヴァル(著)、カレル・タイゲ(装丁)『複数形の女』1936年

 今年はアンドレ・ブルトンによる『シュルレアリスム宣言』の発表から100年目にあたり、国内外で関連する展覧会が開催されています。ここでは当館所蔵のシュルレアリストの作品を通じて、その多様な表現と世界的影響の一端をご覧に入れましょう。
 シュルレアリストたちは夢や無意識、偶然性、不気味さなど、理性では捉えられない思考を様々な手法で表現しました。頭に浮かんだ言葉を、文学的な成果を一切無視して次々と速記する「自動書記」の実践はその代表例です。
 詩作から始まったシュルレアリスムは、絵画や写真、映画にも拡大します。当時パリで活動していたドイツ出身の画家マックス・エルンストの作品には、鳥の頭部を持つ生き物「ロプロプ」や歪んだ身体など、現実と非現実を媒介するような異形のフィギュアが登場します。また彼は凹凸のある素材の上に紙を置き、鉛筆で擦って転写する「フロッタージュ」や、それを油彩に応用した「グラッタージュ」によって偶然性を絵画に取り入れました。サルバドール・ダリ、ジョアン・ミロ、ルネ・マグリットら、他のシュルレアリストも各々の手法で作品を生み出します。彼らの多様な試みは《シュルレアリストのはがき》から見て取れます。
 シュルレアリスムはパリから世界各地に波及し、京都で活躍した画家・北脇昇もその影響を受けました。《秋の驚異》は北脇がシュルレアリスム的な絵画を描き始めた頃の作品です。絵具をつけた木の葉や枝をスタンプし、それを犬の遠吠えに見立てています。
 また、ブルトンらと密接な関係を持っていたチェコスロヴァキア(当時)の芸術家たちも次第にシュルレアリスムに同調します。カレル・タイゲのブックデザイン、インジフ・シュティルスキーやトワイヤンの挿絵、ヴィーチェスラフ・ネズヴァルによる詩作は、プラハやブルノでのシュルレアリスムの流行を物語っています。


創画会改称50周年記念特集 麻田鷹司《夏山》1948年

 今年が創画会改称50周年にあたることから、当館が所蔵する出品作を中心に、その歩みを紹介します。
 創画会の前々身である創造美術は、昭和23(1948)年に結成されました。その特徴は、敗戦後間もなくに、「作画行動に自由と純粋を欲するゆえに(宣言より)」反官展を標榜し、前年まで官展で活躍していた上村松篁(当時46歳)、福田豊四郎(同44歳)、吉岡堅二(同42歳)の3名を中心とした東西の中堅日本画家が手を携え合って結成されたという点にあります(京都側の創立会員は松篁の他に秋野不矩、奥村厚一、菊池隆志、沢宏靭、広田多津、向井久万)。封建的にして因習にとらわれた日本画壇から、戦後の民主主義時代に相応しい新団体が生まれたことは、美術界のみならず、社会的にも大きな関心を集めました。
 初の公募展出品の場として、新鮮な感じのする創造美術を選んだ麻田鷹司は、大学の先生から出品を思いとどまるよう諭される一方で、京都画壇の有力な画塾であった晨鳥社に所属し、後に日展幹部となる父・麻田辨自からはむしろ、時勢の移り変わりと共に起こった新しい団体への出品を薦められたといいます。このエピソードが示すように第1回展には、先輩画家達による横やりを受けつつも、美大を卒業したばかりの若手作家だけでなく、創立会員が所属していた画塾の画家も含んだ283点もの応募があり、順調なスタートを切ることが出来ました。その後昭和26年に合同した新制作協会(昭和11年洋画の在野団体として結成され、続いて彫刻部、建築部が作られた)の日本画部となり、昭和49年同部会員全員が揃って独立し、創画会と改称します。
 「自由にして純粋なる芸術創造」という当たり前のことが出来なかった時代を知る創立会員たちが、次世代の画家たちを同じ境遇にさせないため結成した創造美術。その思いは、烏頭尾精などの第二世代、上村淳之などの第三世代、そして浅野均などの第四世代の画家へと受け継がれました。会員・会友同士が年齢や経歴に関りなくお互いを1人の制作者として認め、それぞれの仕事を気にしつつもそれを真似たり批判したり(批評はするが)するのではなくよい刺激とし、更に自己の表現を深めて発表する作品群は、現在も日本画界に新風を送り続けています。


愛と欲望とファッション 都築響一《着倒れ方丈記:マルタン・マルジェラ》2003/2009年

 企画展「LOVEファッション―私を着がえるとき」では、ファッションに託された人間のさまざまな欲望に注目しています。ここでは、ファッションをめぐる愛と欲望について、現代のアーティストの作品を通して考えてみます。
 写真家の元田敬三は、街で出会った独自のスタイルや生き方を選ぶ人々を撮影してきました。リーゼントとライダース・ジャケットに身を包む男性のポートレイトは、「社会の反抗者」たろうとする願望が表れています。2000年代頃にファッション雑誌『流行通信』で連載された都築響一の〈着倒れ方丈記〉シリーズは、特定のブランドに夢中になった人々を取材したもので、ファッションが個人の願望を映し出す鏡となることを示しています。日常生活のリアルな服と人の関係をとらえた写真を通して、大都市のワンルームに住みながら、憧れの対象に「課金」する、「幸せな犠牲者」たちの所有欲が浮き彫りになります。そうした憧れや所有欲を駆り立てるのが、ファッションブランドの広告戦略です。私たちは「大好き(J’adore)」なものに夢中になって従順な消費者となるよう、巧みに誘惑されてしまいます。アリシア・フラミスは、パリの地下鉄の駅に、高級ブランドの香水のビルボードと墓地を並置した都市空間を仮想し、ファッションの聖地の光と影の両面を示唆しています。
 1050色のネイルカラーで構成された笠原恵実子の《MANUS-CURE》では、色のネーミングと意味づけが、その時々の気分やなりたい自分を演出する要素となることが窺えます。笠原は、化粧という行為の中に、「自分をある商品価値に高めようとする資本主義的欲望」が潜んでいると指摘します。一方、化粧や髪型、服装を通して、さまざまな職種・社会的属性へと変装するセルフポートレイトを手がける澤田知子が、素顔に戻ってこちらを見つめる眼差しは、社会に刷り込まれた誰かの欲望から離れて、自分自身の愛と欲望のかたちと向き合うよう、私たちを促します。


志村ふくみと紬織 志村ふくみ《三部作 雪炎》2015年

 優美な作品と優れたエッセイで高い評価を得る志村ふくみ。志村は紬織の人間国宝であり、2015年には文化勲章を受章しています。当館では2016年に文化勲章受章を記念して「志村ふくみ 母衣への回帰」を開催し、多くの方にその作品世界に触れていただく機会を持つことができました。
 志村ふくみは1924年に医師の小野元澄、豊の次女として滋賀に生まれました。しかし1926年に元澄の実弟の志村哲・日出夫妻の養女となり東京吉祥寺に移り住み、1941年の正月に実の両親の存在について知ることとなります。そして実母の豊から初めて機織りを習い、32歳の時に染織の道を志し、滋賀県近江八幡で母の指導を受けながら植物染料による染色と紬糸による織物を始めました。1957年に木漆工芸家の黒田辰秋の推薦により、第四回日本伝統工芸展に出品し入選。翌年の第五回展では《秋霞譜(秋霞)》が奨励賞を受賞しました。その後は日本伝統工芸展への出品を続けながら(1994年まで)、個展の開催や多くの美術館の企画展に招待出品されるなど、精力的に作品制作を行ってきました。
 志村の作品の特徴は、自然界の植物を丹念に採取して絹糸に染めることで得た豊かな色彩のハーモニーにあります。このことを志村は「植物の命をいただく」と表現しますが、草木で色を染めるということは、植物を尊び、蚕の糸を愛でることでもあります。志村はこのような自然に対する純粋な姿勢を失うことなく創作活動を続けてきた作家です。こうして染められ、織られた作品は、模様構成の密度や色彩によって自然界の情景を抽象的かつ抒情的に描き出してくれます。
 本コーナーでは当館コレクションの中から志村の作品を紹介するとともに、志村同様に紬織で作品制作を行う(行った)三名の染織家の作品も併せて展示いたします。


身体のうちそと キャロライン・ブロードヘッド《セブン・エイジ No .7: 継ぎ目》1986年

 コンテンポラリー・ジュエリーの作家としてキャリアをスタートしたキャロライン・ブロードヘッドは、後にテキスタイルやパフォーマンスなど様々な表現に取り組みますが、一貫して、身体に触れ、相互に関係し合うものに関心を寄せてきました。それは言い換えると、表面と内面、存在と不在、公的または私的な感覚など、境界への関心ともいえます。このコーナーでは、身に着けることとその身体をモティーフとした作品を紹介します。
 〈セブン・エイジ〉シリーズは、シェイクスピアの喜劇『お気に召すまま』の「すべてこの世は舞台」になぞらえて、人生を7つに分け、異なる白い布で表現した作品です。この頃ブロードヘッドは「身に着けられる」ということをまだ重視しており、まゆのような「No. 1」は中央を開くと袖を通すことができます。人生の最終局面「No. 7」は、骨格のみのスケルトンであり、その影や動きによって身体の外へと視線を広げるものになっています。
 内側に支えを必要としない《人工心臓》を立ち上がらせたのは、「立体織」を用いた小名木陽一です。一方、益田芳徳はガラスを素材とすることで、胸の内を見透かすかのようです。
 「手には本来眼があり、指がものを言う」と言ったのは、ひろいのぶこでした。触れることは、外界と関係を結び理解するために不可欠な方法でしょう。ひろいの言葉を踏まえれば、ジュエリー制作を学んだピエール・ディーガンの作る手袋が、いかに手の働きに違和感を与える逆説的な表現なのかに気付かされます。世界の手ざわりは、いつも心地よいばかりではなく、その接点は時に《対衝撃防護服》を必要とする、防波堤としての境界にもなり得るのかもしれません。


自画像に見るIn Search of Myself 岸田劉生《外套着たる自画像》1912年

 このコーナーでは、日本の、あるいは日本にゆかりある作家たちのセルフポートレイトを紹介します。企画展「LOVEファッション ―私を着がえるとき」には、英語の副題として「In Search of Myself」(私を探し求めて)という言葉が付されています。この言葉のように、日本の近代以降の作家たちは、西洋由来の新しい芸術や学問に出会い、驚き、憧れ、時に嫉妬しながら、「私」は何者か見つめ続けました。
 1846年に京都に生まれた田村宗立そうりゅう(1846-1918)は、洋画家としての道を切り開いた先駆的な作家です。油絵を学ぶ機会や方法が非常に限られていた時代に、宗立は独力で道を切り開きました。英語を学び、病院医療用の解剖図を描くといった独自の努力と研鑽を重ねた結果、やがて京都府画学校で洋画を指導する立場に就きます。暗がりの中でキラッと光る鋭い目つきが印象的な《自画像》は、ちょうどこの時期に描かれた38歳の頃の作品です。
 20世紀に入ると、雑誌文化の興隆によりヨーロッパの美術が広く紹介されるようになります。岸田劉生りゅうせい(1891-1929)もまた、雑誌『白樺』(1910年創刊)を通じてポール・セザンヌやアンリ・マティスらの作品と出会い、とりわけファン・ゴッホ作品からは宗教的とも言える感銘を受けました。劉生は画家として活動した約20年の間に30点を超える自画像を残しており、その多くは、自身が「第二の誕生」と呼んだ1910年代前半に描かれました。
 そして西洋由来の「美術」に日本人の「私」が取り組む意味を、自らの身体を使って現在進行形で問いかけるのが森村泰昌やすまさ(1951-)です。森村は1985年にゴッホに扮したセルフポートレイト写真を発表して以来、名画の登場人物や著名人らに「なった」森村自身を被写体に制作を続けています。森村にとってもまた、ゴッホは油絵の神様であり、美術の原風景であるといいます。2016年の個展で発表された本作は、約30年の時を経て再び画家・ゴッホになった森村自身であり、同時に、美術という制度と格闘してきた近代日本美術史の自画像でもあるのです。


会期 2024年9月13日(金)~12月1日(日)

テーマ シュルレアリスム宣言100周年
創画会改称50周年記念特集
愛と欲望とファッション
志村ふくみと紬織
身体のうちそと
自画像に見るIn Search of Myself
常設屋外彫刻

展示リスト 2024年度 第3回コレクション展 (計112点) (PDF)

音声ガイド 音声ガイドアプリご利用方法(PDF形式)

開館時間 午前10時~午後6時
*金曜日は午後8時まで開館
*入館は閉館の30分前まで

観覧料 一般 :430円(220円)
大学生:130円(70円)
高校生以下、18歳未満、65歳以上:無料
*( )内は20名以上の団体
国立美術館キャンパスメンバーズは、学生証または職員証の提示により、無料でご観覧いただけます。
*チケットは日時予約制ではございません。当館の券売窓口でもご購入いただけます。

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夜間割引 夜間開館日(金曜日)の午後6時以降、夜間割引を実施します。
一般 :430円 → 220円
大学生:130円 → 70円

無料観覧日 2024年11月3日(日)16日(土)、17日(日)、30日(土)
*都合により変更する場合がございます。

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