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コレクション展

2024年度 第2回コレクション展

2024.05.30 thu. - 08.25 sun.

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西洋近代美術作品選 クルト・シュヴィッタース《無題(赤に赤)》1928-1930年

 第一次世界大戦のさなかにヨーロッパやアメリカで起こった芸術思想・運動「ダダ(DADA)」。既成の概念や秩序を否定し、ナンセンスを謳う、その挑発的な思想を伝えるメディアとして重要な役割を担ったのが、大胆なタイポグラフィや誌面構成を特徴とする、チラシや機関誌などの印刷物でした。
 ドイツのハノーファー出身のクルト・シュヴィッタースは、自身の作品を「メルツMerz」と名付け、絵画、建築、詩作、演劇、デザインなど多様なジャンルでの芸術活動を展開しました。特に、雑誌や新聞の切り抜き、日用品の廃材などを組み合わせたコラージュやアッサンブラージュの作品は、「芸術家は素材の選択、配置、変形によって創造する」というシュヴィッタースの姿勢を端的に示しています。また彼は雑誌『メルツ』を発行し、タイポグラフィ・デザインの面でも重要な仕事を残しました。
 ハンナ・ヘーヒは、ベルリン・ダダに参加し、フォトモンタージュやコラージュの手法を用いて、政治や社会に対する批判や諷刺を込めた作品を発表しました。雑誌の切り抜き写真とレースペーパーを組み合わせた《花嫁》には、当時の大衆社会に流布する「花嫁」のステレオタイプに抵抗しようとするヘーヒの意図がうかがえます。
 1922年から23年にかけてベルリンに留学していた村山知義は、未来派、ダダ、構成主義などのヨーロッパの新しい動向に刺激され、前衛芸術グループ「マヴォ」を結成します。オリジナルの版画やドローイングのほか、毛髪が貼り付けられた機関誌『マヴォ』からは、新たな創造へと向かう彼らの熱量が伝わってきます。


福田平八郎と装飾性 *6月11日(火)~ 福田平八郎《躑躅の頃》1931年頃

 本年は福田平八郎(1892-1974)の没後50年の節目にあたるため、大阪や大分で回顧展が開かれ、当館所蔵の代表作の数々も同展に出品しています。平八郎は大分で生まれ、明治44年(1911)に京都市立美術工芸学校へ入学、卒業後は京都市立絵画専門学校の本科へ進学して日本画を学びました。平八郎が学んだ時期の京都市立美術工芸学校の教授陣は、菊池芳文や谷口香嶠、竹内栖鳳、山元春挙などであり、画壇の実力者たちが結集していました。また、平八郎は京都市立美術工芸学校に入学する前年の明治43年(1910)に京都市立絵画専門学校の別科に入学していますが、その一年上の先輩に国画創作協会の創立メンバーである土田麦僊や小野竹喬らがいました。こうした画家たちの影響を受けながら、平八郎は画家になるための歩みを進めました。
 学校では成績優秀の優等生であった平八郎でしたが、同級生の岡本神草から、対象をよく観察して自分の絵を描くべきだと指摘されたことや、京都市立絵画専門学校で美術理論を教えていた中井宗太郎に、先輩画家の影響から脱して自然と対峙する必要性を説かれたことをきっかけに、より一層実物写生に励み、先人の技法に頼りすぎることなく、独自の絵画世界を作り上げました。平八郎が写生時に最も関心を寄せていたのが色彩です。徹底した写生を基に、線ではなく色彩を主体にした作品を描きました。琳派に範を求めたということも関係していますが、色面で対象を描くシンプルな構成になっていることで、装飾性を帯びた画面が生み出されています。作家本人も「私の絵は分かり易く言えば、写実を基本にした装飾画と言えると思います」と自作について端的に述べています。本コーナーでは、平八郎作品にみる装飾的表現を感じていただければと思います。


特集:横尾忠則 ― 反復とスター ― *6月11日(火)~ 横尾忠則《A LA MAISON DE M.CIVEÇAWA(ガルメラ商会)》1965年 撮影:守屋友樹

 「印刷/版画/グラフィックデザインの断層 1957-1979」展の出品作家であり、倉俣史朗とも親交のあった、美術家・横尾忠則(1936-)を特集します。
 現在の兵庫県西脇市に生まれ育った横尾は、1960年、24歳の時に上京し、デザイナー/イラストレーターとしての才能を開花させていきます。この当時は、合理的で均整の取れたモダンデザインの全盛期でした。その中で突如あらわれた、和洋折衷的で賑々しく、そしてエロチックな横尾のデザインは、舞踏家の土方巽や「状況劇場」を率いる劇作家の唐十郎、「書を捨てよ、町へ出よう」でおなじみの寺山修司に、小説家の三島由紀夫といった表現者たちを惹きつけます。当時「アングラ」と称された彼らとの交流を、横尾は「地上最強の文化的磁場」と呼びました。
 土方らとの交流を通じて生まれた1960年代の傑作ポスターをはじめ、横尾の創作活動の中で繰り返し使われるモチーフのひとつが放射状に光が伸びる太陽です。この「反復」という手法は、横尾作品に通底する大きな特徴です。今回は、太陽と同じく横尾が繰り返し描いた「滝」や「ピンクガールズ」のモチーフも展示室に散りばめました。
 また、自身のアイドルでもあった俳優や歌手、芸術家といった国内外のスターたちが数多く登場する点も横尾作品を見る楽しさです。例えば1970年代以降、横尾はたびたびインドを訪れて精神世界の探求に没頭し、その経験を昇華させた密度の濃い作品を生み出していきますが、契機となったのはThe Beatlesのインドへの傾倒でした。
 横尾のエネルギー溢れる作品たちを紹介するにあたり、今回は自作の模写とも言える「反復」という手法と、作品に登場するスター達に焦点を当てました。めくるめく横尾忠則の世界を、どうぞお楽しみください。


「ポストモダンの地平」を振り返る 梅田正徳《Tawaraya(俵屋)》1981-1985年

 ポストモダニズムという言葉は、建築やデザインの領域において、一般に1980年代に流行した装飾や色彩が過剰なスタイルを指します。ただし、嚆矢とされるチャールズ・ジェンクスが『ポスト・モダニズムの建築言語』(1977年)において、モダニズムの機能主義を批判して象徴性や装飾性を重視したように、画一的な「モダン」に対する疑問は、各作家にとって切実な問題意識だったといえるでしょう。
 1981年に、エットレ・ソットサス(1917–2007)を中心に始まったメンフィスは、ポストモダニズムを代表する活動として知られます。イタリア国内外から多くのデザイナーが関わり、日本からも倉俣史朗や磯崎新、梅田正徳が参加しています。梅田の《Tawaraya(俵屋)》は、メンフィスの第一回展に出品されたデザインで、討論好きのイタリア人のために、知的闘争の場となる四畳半を提供しました。
 梅田による《月苑》は、後に製品化されますが、最初に発表されたのは、倉俣史朗が《ミス・ブランチ》を発表したのと同じ「KAGU 東京デザイナズウィーク ’88」です。
 ソットサスと同じく指導的役割を果たしたアレッサンドロ・メンディーニは、アレッシィのプロジェクト〈プログラム6〉ではコーディネーターを務め、世界の11名の建築家に声をかけて限定99個のセット「ティー&コーヒー・ピアッツァ」を製作しました。 今回は「倉俣史朗のデザイン」展に合わせ、1985年の「現代デザインの展望 ポストモダンの地平から」展への出品作を中心に、個人蔵の作品を合わせて展示します。同展図録に掲載された論考は、次のように結ばれています。

建築、デザインにおけるポストモダンの動向は、結局、“人は他の人と異なり、事物は個人差に適合する”という平凡な事実の確認に終るかもしれない。しかし、これは偉大な平凡さなのである。この単純な事実の確認に20世紀は約80年の時間を費したのだから。また将来、20世紀を回顧する時、我々の時代が画一的なモダン・スタイル時代であったのか、それともフリー・スタイルの時代として評価されるのかという設問ができるのも、ポストモダン動向のひらいた成果の一つと言えよう。


ガラス-透明な流動体 ジョエル・リナール《水庭の瓶の中の花》1979年

 流動体の凝結した存在ともいえるガラスは、古代よりローマやエジプトをはじめとして世界各国で生産され、その透明感や輝くような色彩が人々を魅了してきました。そして現在、ガラスは産業構造の下で製造される一方で、1950年代よりチェコやアメリカでの自由で造形性の高い創作活動から始まったスタジオ・グラス運動もますます盛んとなっています。これらは「手仕事の復権」「個性の尊重」「高度工業化社会における人間疎外への反省」など、アーツ・アンド・クラフツの思想との関連性から出発しましたが、今日までの短期間のうちにガラスの表現領域は飛躍的に拡大してきました。
 ガラス表現における第一の特徴は、他の工芸分野同様に素材の特質の顕在化だといえます。ここでいう特質は、透明感や輝きに加えて、着色や加飾の自由さ、そして切削、研磨、彫り込みなどといった造形や装飾手法の多様さに由来します。作家たちはこれらの特質を手がかりに世界を見つめることで、現代社会における多様な側面をガラス素材を通じてかたちにしているのだといえます。
 京都国立近代美術館は、かつて1980年と1981年にガラスをテーマとした展覧会を開催しました。前者は「現代ガラスの美 ―ヨーロッパと日本」、後者は「現代ガラスの美 ―オーストラリア、カナダ、アメリカと日本」です。当館収蔵のガラス作品はこれ等の展覧会出品作が中心となりますが、その後も現代工芸を紹介する展覧会の開催や作品寄贈によって継続的にコレクションの充実に努めてきました。ここでは当館コレクションの中から20点を厳選して現代のガラス表現の一側面を紹介します。


生誕140年 霜鳥之彦 霜鳥之彦《ウッズホール海洋生物学研究所》1909年

 京都で活躍した洋画家の霜鳥之彦(1884-1982)は今年で生誕140年となります。
 京都で活躍しましたが、実は東京の生まれです。中学時代、浅井忠が執筆した美術の教科書『中学画手本』『彩画初歩』に魅了されたことから、浅井が京都高等工芸学校教授に就任した1902(明治35)年、霜鳥之彦も中学校卒業と同時に京都へ移り、同校へ入学しました。浅井の東宮御所壁飾《武士の山狩》原画の制作時には助手をつとめました。1906年に渡米し、ニューヨークの美術工芸学校で水彩画を教えたのち、1909年からはアメリカ自然史博物館で海洋動物標本模型制作のための写生と色彩に関する技術員として働きました。このときウッズホール海洋生物研究所やメイン州の海岸をたびたび訪れ、その風景を描きました。1920(大正9)年に帰国し、京都高等工芸学校の講師、翌年には教授に就任。1922年から翌年10月まで文部省留学生として渡仏し、グラン・ショミエールに学んだのち、アカデミー・コラロッシでシャルル・ゲランに師事。1923年、ソシエテ・ナショナル・デ・ボザール(国民美術協会)の展覧会に《十字架の前》と《ロシヤの女》を出品しました。帰国後、京都高等工芸学校教授として絵画実技や美術工芸史、広告図案等を教えながら、画家としては帝展、京都市美術展を中心に活動。戦後も、京都工芸繊維大学や京都学芸大学で教鞭を執り、1970(昭和45)年から6年間は関西美術院理事長となって、98歳で亡くなるまで京都の洋画・デザイン・美術教育の指導者として活躍しました。
 今回は霜鳥之彦ご遺族から昨年寄贈いただいた作品により、その画業をたどります。


会期 2024年5月30日(木)~8月25日(日)
※展示室内工事のため、2024年5月30日(木)~6月9日(日)の期間中に展示室内を一部閉鎖いたします。詳細はこちら

テーマ 西洋近代美術作品選
福田平八郎と装飾性 *6月11日(火)~
特集:横尾忠則 ― 反復とスター ― *6月11日(火)~
「ポストモダンの地平」を振り返る
ガラス-透明な流動体
生誕140年 霜鳥之彦
常設屋外彫刻

展示リスト 2024年度 第2回コレクション展 (計151点) (PDF)

音声ガイド 音声ガイドアプリご利用方法(PDF形式)

開館時間 午前10時~午後6時
*金曜日は午後8時まで開館
*入館は閉館の30分前まで

観覧料 一般 :430円(220円)
大学生:130円(70円)
高校生以下、18歳未満、65歳以上:無料
*( )内は20名以上の団体
国立美術館キャンパスメンバーズは、学生証または職員証の提示により、無料でご観覧いただけます。
*チケットは日時予約制ではございません。当館の券売窓口でもご購入いただけます。

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夜間割引 夜間開館日(金曜日)の午後6時以降、夜間割引を実施します。
一般 :430円 → 220円
大学生:130円 → 70円

無料観覧日 2024年5月30日(木)~6月9日(日)
※4Fコレクション・ギャラリー一部閉鎖のため。詳細はこちら
2024年8月24日(土)
*都合により変更する場合がございます。

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