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コレクション展

2022年度 第3回コレクション展

2022.07.22 fri. - 10.02 sun.

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西洋近代美術作品選

 当館所蔵ないし寄託の西洋近代美術の優品を紹介するコーナーです。今回は、バウハウスに学び、長らくハンブルク造形芸術大学で造形基礎理論を教授したクルト・クランツ(Kurt Kranz, 1910 – 1997)の作品をご紹介します。
 クルト・クランツは、オランダ国境に近いドイツ西部のエメリヒに生まれ、幼少の頃に家族と共にビーレフェルトに移り住みました。1925-30年、そこでリトグラフ製作者として修業し、その傍らビーレフェルト工芸学校の夜間部に通い、さまざまな芸術ジャンルや理論を学びます。商業デザインの手段としてのリトグラフを学びつつも、具象的表現よりも、抽象的表現に関心を抱いていたクランツは、1929年にビーレフェルトで開催されたラースロー・モホイ=ナジによるバウハウスの授業に関する講演会に参加して感銘を受け、彼に自作を見せたところ、バウハウスで学ぶよう勧められます。1930年、バウハウス・デッサウに入学したクランツは、ヨーゼフ・アルバースとヨースト・シュミットに学び、並行して開設直後のヴァルター・ペーターハンスによる写真工房で実験的な写真制作を手掛けます。さらに、パウル・クレーやワシリー・カンディンスキーによる造形理論から大いに影響を受けました。1933年、バウハウスがナチにより閉校に追い込まれる直前に卒業資格を取得し、1933-38年は、ベルリンでヘルベルト・バイヤーが主宰していたスタジオ・ドーラントで商業デザイナーとして働きました。第二次世界大戦中はフィンランドとノルウェーで兵役につき、戦後は1950年から1972年の定年までハンブルク造形芸術大学の教授を務めました。
 造形に関する彼の関心は、常に、線や面といった基本的な造形要素が、さまざまなヴァリエーションを伴って展開していくことにありました。造形要素の展開には、左右上下の動きだけではなく、前後つまりはクローズアップやフェーディングといった構図も採用され、作品では、それぞれの個別イメージが、あたかも映画やアニメーションのコマのように連続して配されています。その際、彼が頻繁に採用したのがレポレロ、日本では折りたたみ、ないし蛇腹式で知られる製本形式です。「折りたたみオブジェ」という副題を持つ今回の各展示作品にも、画面中央部には広げられたレポレロがコラージュされており、背景のイメージとシンクロするように、少しずつ変容する形や色のヴァリエーションが全体に巧みに配されています。作品を観る者は、そのヴァリエーションを視線で追うことによって、アルルカンの軽やかな動きや石庭の静寂といった空間性や時間性を体感することが可能になるのです。このような認知心理学の影響をも感じさせるクランツの手法は、クランツの友人でもあった哲学者マックス・ベンスの言葉を用いて「美のプログラミング(Die Programmierung des Schönen)」と評されています。


伝統/革新 森 寛斎《鵞鳥》明治時代(前期展示) 土田麦僊《巴里の女》1923年(後期展示)

 江戸時代までの日本画は、絵巻や掛け軸、屏風、障壁画、扇面といった形式で描かれたものがほとんどでした。明治時代の日本画の多くもその伝統を踏襲していましたが、西洋絵画の影響もあり、徐々に日本画は額装されるようになりました。文部省美術展覧会(文展)や帝国美術院展覧会(帝展)などの官設公募美術展に加え、日本美術院の院展や二科会の二科展などの在野団体の展覧会も開催されるようになると形式の変化は急速に進みました。
 京都でも大正7年(1918)に土田麦僊や小野竹喬らが国画創作協会を結成し、会員以外の出品も認める公募の展覧会を開催しました。彼らは自由な創作を目指して革新的な日本画を描きました。明治時代以降、海外へ留学する画家も多く、最新の美術動向は日本画にも反映されました。
 第二次世界大戦後の昭和23年(1948)、三上誠や星野眞吾、八木一夫らによってパンリアルが結成されましたが、まもなく陶芸家の八木一夫と鈴木治が脱退したことで、その翌年にジャンルを日本画に限定したパンリアル美術協会として再出発しました。三上や星野、下村良之介、不動茂弥らの協会メンバーは、それまでの日本画の因習を打破しようと革新的な表現を試みました。
 このように各時代に日本画の革新を目指す動きがあり、時代を反映した新たな日本画が生み出されました。それと同時に、連綿と受け継がれている琳派や花鳥画などの画題に取り組む画家もおり、伝統的な表現と対峙しながら独創的な作品が制作されました。


クール、ハード、エロティック——版画におけるフォルムと色彩 井田照一《Fountain》1968年 井田照一《Weekday》1968年

 このコーナーでは、「彫刻家・清水九兵衞」がデビューした1960年代から70年代の版画を中心に取り上げます。九兵衛作品にみられる幾何学的で簡潔なかたちや明快な色彩、シャープな輪郭といった特徴は、作家の手の痕跡をなるべく排除した表現を模索していた「プライマリー・ストラクチャー」あるいは「ハード・エッジ」と称される(主にアメリカ美術の)同時代の傾向とも共鳴します。
 村井正誠はモンドリアンの幾何学的抽象などから影響を受け、日本の抽象絵画の先駆者として活躍しました。斎藤義重はダダイズムやロシア構成主義を手がかりに、シンプルなかたちと配色によるレリーフ状の作品を生み出します。彼らの色彩とかたちの扱い方には、ジャン(ハンス)・アルプの木版画や彫刻、あるいはアンリ・マティスの切り紙絵における、有機的なかたちにもとづく単純化・抽象化に学んだことが見て取れます。
 1960年代の国際的な版画ブームのなかで注目を集めたのが、色面を整然と配した井田照一のリトグラフ作品です。特に繰り返し登場する波形の曲線によって、のびやかなリズム感と独特のエロティシズムを生み出しています。高橋秀もまた、明るい色彩とエンボスによる画面構成のなかにエロティックな主題を潜ませています。商業デザイナーの経験をもつ菅井汲は、幾何学的抽象のハード・エッジの傾向を示す版画と絵画において、信号機や踏切遮断機を想起させる幾何学形態やストライプを導入しています。さらに染色集団「無限大」の一員として活躍した麻田脩二のステンシル(型紙捺染)作品においても、同様の造形感覚がみられます。クール、ハード、エロティック――さまざまに形容される、色とかたちを駆使した抽象表現をお楽しみください。


五代・六代清水六兵衞と河井寬次郎 清水六兵衞(5代)《大礼磁花鳥文香炉》1917年

 清水九兵衞/六兵衞の陶芸家としての活動を俯瞰する時、京焼の名家としての六兵衞家に目が向けられます。ここでは、産業や芸術として多面的な価値観を持つ陶芸という領域で、時代を反映する制作を続けた五代・六代清水六兵衞及び河井寬次郎の作品を紹介します。
 五代六兵衞(1875 – 1959)は、中国陶磁や琳派を意識した作風で知られますが、1913年に完成した「音羽焼」や1915年の「大礼磁」は特に代表的な技法です。1896年に京都市陶磁器試験所(後に京都市立陶磁器試験場)が設立されると頻繁に訪れており、西欧の動向をいち早く研究に取り入れた同所の影響もみられます。音羽焼は、マジョリカを応用したもので、絵具を盛り上げて描かれた大胆な模様や色彩と、艶消し釉の質感が新鮮です。1927年に第8回帝国美術院展に「美術工芸部門」が新設され、工芸は美術という観点から、制度上ひとつの位置付けを得ます。その際板谷波山などとともに、京都の陶芸家から唯一審査委員に選ばれたのが、五代六兵衞でした。
 その帝展で、最年少で初入選したのが六代六兵衞(1901 – 1980)です。《紫翠泑鸚哥花瓶》は翌第9回帝展の入選作で、その後も、帝展、そして日展などを主な作品発表の場として活躍します。六代も幅広い作風ですが、特に1955年に発表した玄窯や、1953年の銹泑、そして1971年に古稀を記念して発表した古稀彩は、しばしば雅びと評される六代の作品を代表する釉薬の技法です。
 六兵衞家と併せて、河井寬次郎(1890 – 1966)の作品を対比的に見るのも興味深いでしょう。河井は、島根県に生まれ、東京高等工業学校(現在の東京工業大学)で窯業を学び、陶磁器試験場の技手として1914年に京都に移りました。六兵衞家とは、作家として独立する前の重要な時期から深い関係があります。試験場を辞し、五代六兵衞の技術顧問として約2年間を過ごすと、1920年に五代の窯を譲り受け「鐘溪窯」と名付けて生涯の制作拠点としました。1926年に発表された『日本民藝美術館設立趣意書』に名を連ねたことに象徴される通り、日用の器に見出された美に着目して自らの制作に活かし、個展を中心に作品を発表しました。


京都の工芸 森口邦彦《友禅着物「千花」》1969年

 京都は長い間、日本の「みやこ」として文化の中心地でありました。しかし、明治に入り、東京奠都に象徴されるように日本のみやことしての位置づけを失ったことで、京都は衰退の危機にさらされ、あらためて古都・京都というみやびやかなイメージを戦略的に打ち出していくようになります。工芸においても「平安」という冠を自らにつけた工芸家が多く登場したのもこの時期のことです。その意味で、近現代の京都の工芸は、古都のイメージを巧みに用いるところから始まり、その上で今日の状況を迎えたといえます。
 この小コーナーでは当館の所蔵する工芸作品の中から京都を拠点に活動した(する)工芸家の作品7件を紹介します。これらは冒頭で紹介したような混乱期を経た後の現代の京都という場において作品を制作した(する)作家であり、ことさらに「京都」イメージを打ち出すような活動を行ったわけではありません。しかし、いずれも京都に深く根付く文化的養分を吸収すること、および新進の気質に身をさらすことで作品制作を行ってきたという点では共通します。よく知られているように、近代の重要な工芸運動である「民藝運動」がはじまったのは京都においてであり、黒田辰秋はその重要な同人でした。また、戦後の前衛陶芸を牽引した、鈴木治が創立メンバーの一人である走泥社も京都発の陶芸家集団です。森口邦彦はパリで学んだグラフィックデザインの思考と幾何学文様を大胆に組みわせることで「友禅」の新たな世界を開き、加藤宗厳、中井貞次、服部峻昇、伊藤裕司は、日展を主な活動の場として、文学や自然などから得られたモチーフと装飾性を融合させた重厚で華やかな表現世界を生み出しました。


靉光と静物画 靉光《静物》1942年

 大正末期から昭和初期にかけて活動した画家、靉光(1907-1946)は、昭和初期にシュルレアリスム風の謎めいた作品を発表したこと、そして戦争によって画業を中断され、38歳の若さで亡くなったことで知られています。その遺作の大部分は、彼の故郷である広島が被爆したことで焼失し、多くは現存していませんが、当館は2020年度に彼の油彩画《静物》1点を新たに収蔵しました。これで当館所蔵の彼の作品は3点となりましたが、実は3点とも静物画です。このことは、彼の画業の特徴をよく物語っているといえそうです。
 靉光の短い画業は多彩な実験の連続であり、目まぐるしい変転の連発でしたが、そこを貫く基本姿勢は写実であり、静物画の制作がその実験場だったようです。彼は、描こうとする物体にじっくりと向き合い、充分に観察し、納得した上でなければ安心して描こうという気になれない人だったと伝えられます。彼のアトリエには、植物や石など様々な物体が置かれていました。食材としての鳥が、調理されることもないまま白骨化するまで観察の対象になっていたとの証言もあります。「静物画」という語は、西洋の“still life”(動かない生命)や“nature morte”(死んだ自然)からの訳語ですが、靉光は、動物が静物へ移る様子を見つめながらも、死んだ生命に生きた形を見出そうとしていたとも考えられます。その意味では、動植物を生命あるものとして描き出そうとする東洋の花鳥画(写生画)の精神に通じるといえそうです。実際、彼は中国の宋・元時代の写生画に強い関心を抱いていたのです。
 この展示では、靉光の静物画3点を中心に、日本近代の洋画(油彩画・水彩画)における様々な静物画をご覧いただきます。


特集:三尾公三

 3階で回顧展を開催している清水九兵衞(1922-2006)と出身地を同じくし、やはり京都で活躍。同じ学校で教鞭を執ったこともあり、ジャンルを異にしながらも九兵衞と親交のあった画家・三尾公三。このコーナーでは、「生誕100年 清水九兵衞/六兵衞」展にちなみ、三尾の特集展示をいたします。
 大正12(1923)年名古屋市に生まれた三尾公三は、実家の病院を継ぐべく受験準備をしますが失敗、昭和17(1942)年父親の意向により京都市立絵画専門学校日本画科予科に入学します。しかし、自身は油彩画を学びたかったため、太田喜二郎主催の紫野洋画研究所にも通いました。卒業後は、一旦帰郷して中学の美術教員となり日本画と決別。25年京都へ移って中学校に勤務するとともに、再び紫野洋画研究所に通います。26年洋画家であった兄・文夫の紹介により鬼頭鍋三郎の知遇を得て光風会展へ出品、34年には会員に推挙されました。セメントを素材にした抽象作品を試みた後、39年既成の絵画との決別を意図して同会を退会。新しい絵画を創造するため、それまで使用していた一切の画材を捨てて模索を続け、40年代初め、エアブラシで木製パネルにアクリリックカラーを吹き付けて描く独自の画境を開拓。写真的映像に似たリアルな女性のイメージをもとに、これを歪曲・変形・細分化・モンタージュして、残像、錯覚、心象風景などを思わせる非現実的なイメージを創造しました。44年第10回サンパウロ・ビエンナーレ日本代表に選ばれたのをはじめ、国内外で活躍します。一方で、昭和46年京都市立芸術大学助教授、50年からは同校教授となり、後進の指導にも熱を入れました。平成3年毎日芸術賞、9年芸術選奨文部大臣賞を受賞、10年には京都府文化特別功労者に選ばれ、12年6月29日76歳でこの世を去りました。三尾は写真週刊誌『FOCUS(フォーカス)』の表紙絵を56年の創刊号から18年間担当していたので、この画風に見覚えのある方も多いのではないでしょうか。


会期 2022年7月22日(金)~10月2日(日)
[前期]
7月22日(金)~8月28日(日)
[後期]
8月30日(火)~10月2日(日)

テーマ 西洋近代美術作品選
伝統/革新
クール、ハード、エロティック——版画におけるフォルムと色彩
五代・六代清水六兵衞と河井寬次郎
京都の工芸
靉光と静物画
特集:三尾公三
常設屋外彫刻

展示リスト 2022年度 第3回コレクション展(計157点)(PDF形式)

音声ガイド 音声ガイドアプリご利用方法(PDF形式)

開館時間 午前10時~午後6時
*入館は閉館の30分前まで
*新型コロナウイルス感染拡大防止のため、開館時間は変更となる場合があります。来館前に最新情報をご確認ください。

観覧料 一般 :430円(220円)
大学生:130円(70円)
高校生、18歳未満、65歳以上:無料
*( )内は20名以上の団体
国立美術館キャンパスメンバーズは、学生証または職員証の提示により、無料でご観覧いただけます。


夜間割引 夜間開館日(金曜日)の午後5時以降、夜間割引を実施します。
一般 430円 → 220円、大学生 130円 → 70円

コレクション展無料観覧日 7月23日(土)、10月1日(土)
*都合により変更する場合がございます。

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