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コレクション展

2022年度 第2回コレクション展

2022.05.19 thu. - 07.18 mon.

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西洋近代美術作品選

 戦禍は、芸術家の生活や内面にも暗い影を落とす。ベルリン・ダダを代表する作家でフォトコラージュという手法を発展させたことで知られるハンナ・ヘーヒは、1933年に政権を掌握したナチ党が前衛芸術活動に対する抑圧を強め、交友のあった芸術家たちが次々と亡命していく状況下で、ひとりベルリンに留まり深い孤独を感じていました。1936年に描かれた《不安》と題された、暗い枯木立の前の自画像には、当時の彼女の心情が赤裸々に表現されています。事実、1937年にナチは彼女を「退廃芸術家」とみなし、公的な芸術活動を一切禁止しています。
 そして、今からちょうど85年前の1937年4月、ナチス・ドイツは、当時内戦状態にあったスペインの北西部バスク地方の小村ゲルニカを突然無差別に爆撃しました。その知らせを聞いたピカソは、同年のパリ万博スペイン館のために共和国政府から制作を依頼されていた壁画の主題に、この事件を選びました。それが、現在マドリードのソフィア王妃芸術センターに展示されている《ゲルニカ》です。翌年11月、ピカソは、《ゲルニカ》においても主要なモチーフとなっている灯りのともった蝋燭、広げられた本の上に置かれたパレットと絵筆、ミノタウロスや牛の頭部、という3つの要素を含む4点の静物画を制作しています。11月4日の日付をもつ《静物-パレット、燭台、ミノタウロスの頭部》は、そのシリーズ最初の作品であり、最もドラマティックな表現をもつ作品です。鮮やかな赤や黄色で彩られた蝋燭やパレットに比して、ミノタウロスの頭部の陰影は暗く深い。《ゲルニカ》やそれに繋がる一連の作品が示す内容について、ピカソ自身は具体的に述べてはいません。しかし、左右に対比されたこの2つのグループの、蝋燭や本やパレットなどが啓蒙を、ミノタウロスが野蛮さを象徴していると考えるならば、ピカソが個人的に重視し、本作品で表現しようとしたのが、破壊や圧制に抵抗する芸術の潜在力の強さであることがわかるでしょう。
 ピカソとともにキュビスムを主導したブラックは、1940年代後半以降、鳥、それも空飛ぶ鳥をモチーフに数多くの作品を制作しました。ブラック自身は、このモチーフ選択は「絵画的事実の構成」への関心に基づくものであり、描かれた鳥は象徴や寓意といった夾雑物からは解放されている、と述べています。にもかかわらず、自由な精神や創造力そして生命力への希求を、《鳥とその影、No. 2》の画面一杯に翼を広げた、少しユーモラスな表情の黄色の鳥の姿に見て取ることができます。


「没後50年 鏑木清方展」によせて 岡本神草《拳を打てる三人の舞妓の習作》1920年

 3階で開催される「没後50年 鏑木清方展」と関連のある作品を、当館日本画コレクションと寄託作品の中から選んでみました。
 官展系東京画壇の美人画家として知られる鏑木清方。画壇での立ち位置はやや独特で、官展は各派の寄せ集めであるが故にかえって自由であるはず、との信念を持ち、金鈴社のようなグループを作りつつも、その内部にとどまり続け、偏りのない運営のために腐心しました。在野の作家や京都画壇の作家ともつながり、年齢や考え方の近い土田麦僊、西村五雲、西山翠嶂、菊池契月とは特に密に交流したようです。列車嫌いの清方が一生に一度だけ遠出した、昭和5(1930)年の京阪神遊山の折、このメンバーで祇園の小座敷に集まり、別れ際に五雲から、東京に帰らずここにずっといたらいい、と頻りにすすめられたというエピソードは、この五人の仲を物語っています。そして京都画壇の美人画家と言えば、やはり上村松園を外すわけにはいかないでしょう。松園のことを、清方は終生尊敬し、この画家についての文章を多く残しています。そう、戯作者であり新聞人でもあった(毎日新聞社の前身の創設者)條野採菊の血を継いだ清方は、文章を多く残したことでも知られています。美術雑誌上の作品評や作家評に、画集に、と、得意の筆を揮いました。そこに採り上げられた作品や作家、さらに、金鈴社の吉川霊華、平福百穂、松岡映丘、さらにさらに高弟の伊東深水、山川秀峰、さらにさらにさらに、同じ水野年方門であった池田焦園まで、グググッググッとよせてご紹介いたします。3階企画展とともに、お楽しみください。


戦争と写真:W. ユージン・スミス《第二次世界大戦》と《スペインの村》 W. ユージン・スミス《スペインの村:通夜》1950/51年

 「写真は有力な表現媒体である。適切に使用されると、進歩と理解にとって大いなる力を発揮する。間違った使われ方は、混乱を生み、助長するだけだ……写真家は自分の仕事とその影響に責任を持たねばならない」
 これはフォトジャーナリズムの歴史に大きな足跡を残したアメリカの写真家W. ユージン・スミスが1948年に記した言葉です。世界の平和的秩序が一国の武力行使によって大きく揺らぐという事態に直面している2022年現在でもなお有効だと言えます。
 第二次世界大戦が勃発した頃、グラフ雑誌『ライフ』の戦争通信員であったスミスは、サイパン、硫黄島、沖縄などの日米の最前線の地上戦を取材・撮影し、同誌での発表を重ねます。戦況を取材するなかで、スミスは犠牲になった兵士たちや戦争に巻き込まれた日本の民間人、特に子どもにカメラを向けています。〈国家〉の維持という大義名分のもとで犠牲になるのは民間の人々であるという現実を、スミスの写真はまざまざと伝えています。
 《スペインの村》は1951年に雑誌『ライフ』に掲載された、スミスのフォトエッセイの代表作です。1939年以降ファシスト体制下にあったスペインのフランコ政権に対し、アメリカは宥和政策をとり経済的に支援していました。スミスはフランコ体制下で恐怖と貧困に苦しむ人々の実態を世に訴えるべく現地へと赴きます。当初の政治的意図とは裏腹に、デレイトーサという農村で撮影された写真群からは、スミスが目にした村人の生活と慣習への賛美の念が見て取れます。人間の尊厳をみつめ、世界の「真実」に迫ろうとするスミスの仕事を通して、写真メディアの力について改めて思いをはせる機会となれば幸いです。


近代工芸の着物 宗廣力三《紬織着物朱赤丸文格子》1976年

 優雅に「日本」を視覚的に表象する着物。もともと日本人の日常着であった着物は、形状を大きく変化させることなく、色彩や模様などを通じて、時代ごとの美意識を反映させてきました。着物の原型である小袖は、室町時代後期より様々な染織技法によって模様が表され、貴族階級の下着から表着へとその位置づけを変えていったものです。江戸時代になると町人の経済力の高まりとともに、身分の差を越えて多くの人々が流行に彩られた着物を身につけました。
 近代の着物は、幕末期の小袖を継承することから始まります。そして洋装が一般的となる戦後にいたるまで、流行の反映と同時に、ハレやケの様々な場面において高度に体系化された美意識を体現させる役割を担ってきました。しかし現在、日常的に着物を着ることはほとんどなくなり、主に特別な場において自己を演出する美的な道具として、あるいは鑑賞のための美術品として制作されています。そこでは、着物は作者の美意識に従って、素材や技法、模様が自由に選択され、さらに潜在的に「着る」という実用性をも兼ね備えた創作物として多彩に存在することになるわけです。ここでは当館が所蔵する着物のごく一部を紹介するだけですが、「着物」という同一の形式の中で無限に展開する作者それぞれの美意識をお楽しみください。
 また、2011年から12年にかけて当館で回顧展を開催させていただいた北村武資先生が3月31日に逝去されました。北村先生は、経錦と羅の二つの技法で重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された染織家で、緻密な計算から生まれる気品あふれる織の作品は、多くの人々を魅了し、後進にも多大な影響を与えてきました。生前の業績を偲び、ここにその作品を特集して展示いたします。


飾りと装いの工芸 三代宮田藍堂(宏平)《指輪-美豆波乃女3》1980年

 私たちは毎日の生活の中で、お気に入りの服やジュエリーを身に着け、気持ちが満たされることもあれば、相手の装いに印象を左右されることもあります。逆に言えば、身に着けるものがある種の身体性を伴って、その人そのものを象徴する場合もあるでしょう。マリリン・ルヴィーンは、革のジャケットをモティーフに、陶を素材としたトロンプ=ルイユのような表現をしています。ルヴィーンは、くたびれた革の質感を、持ち主が過ごしてきた時間やその心の傷のメタファーとして見ているのです。
 小さく可愛らしい装身具は、陶芸や鋳金という伝統的な工芸の技法で制作されながらも、私的な愉しみを感じさせます。一方でこうしたジュエリーは、身に着けることで人目に触れるものでもあり、高価な貴金属や宝石が用いられることで、社会的なステータスや財産を誇示するものにもなるでしょう。コンテンポラリー・ジュエリーには、新しいかたちや素材を用いることで、見る人と見られる人との視線の交錯を可視化するような作品もあります。着用者こそ作品を成立させる存在、と指摘されるように、人が身に着けることで、作品はいわばコミュニケーション・ツールとなり、そこに新たな意味が生じるのです。「文化的意識のある人として、あなたはすぐれた質と形の黄金のジュエリーを、ささやかな財産として買いたいでしょう。」と語りかけるオットー・キュンツリーは、次のように続けています。「あなたには、本物のスイス・チョコレートがよろしい。」


坂本繁二郎と青木繁 坂本繁二郎《若葉出る頃(荒川堤)》1919年

 今年は、坂本繁二郎(1882-1969)と青木繁(1882-1911)の生誕140年にあたります。
 同じ年に生まれた両名は、ともに福岡の久留米の生まれ。高等小学校(現在の中学校1-2年生に相当する学校)では同級生で、いわば幼馴染みでした。地元で画塾を開いていた森三美(1872-1913)にともに学んだ時期もあり、東京に出たあとは小山正太郎(1857-1916)の画塾「不同舎」に学んだという共通点もあります。
 ただ、地元にいたときは坂本の方が先に画才を発揮したのに対し、青木は一足先に東京へ出て、不同舎から東京美術学校に進み、帝国図書館や帝室博物館で神話や古美術を研究しながら西洋美術を貪欲に学び、画技を磨きましたので、19歳の夏、青木が久留米に帰省したとき、その急成長振りは坂本を驚かせたほどでした。
 青木に誘われてともに上京し、不同舎に入塾した坂本は、その後も福田たね(1885-1968)等を交えながら青木との友情を大切にし続けましたが、青木とは違って東京美術学校へは進まず、全く別の道を歩みました。早熟の天才だった青木があまりにも時代に先んじていたため一気に世間とズレ始め、追い詰められ、没落し、夭折したのと入れ替わるように、坂本は地道な画業によって徐々に注目を集め、フランスに留学し、長命を保ち、ついには近代の日本洋画壇を代表する巨匠と称えられるようになりました。しかし青木の顕彰に最も尽力したのも坂本だったのです。
 今回は坂本と青木の作品を、当館の所蔵作品と寄託作品のみにより、ほぼ制作年の順に並べています。わずかな点数ですが、これだけでも、短期間に多彩な展開を見せた青木と、長い歳月をかけて深化を見せた坂本の画業を見比べていただけることでしょう。


会期 2022年5月19日(木)~7月18日(月)

テーマ 西洋近代美術作品選
「没後50年 鏑木清方展」によせて
戦争と写真:W. ユージン・スミス《第二次世界大戦》と《スペインの村》
近代工芸の着物
飾りと装いの工芸
坂本繁二郎と青木繁
常設屋外彫刻

展示リスト 2022年度 第2回コレクション展(計148点)(PDF形式)

音声ガイド 音声ガイドアプリご利用方法(PDF形式)

開館時間 午前9時30分~午後6時
ただし、5月19日(木)~5月26日(木)および7月12日(火)~7月18日(月・祝)は、10時~18時
金曜日は午後8時まで開館(5月20日と7月15日を除く)
*入館は閉館の30分前まで
*新型コロナウイルス感染拡大防止のため、開館時間は変更となる場合があります。来館前に最新情報をご確認ください。

観覧料 一般 :430円(220円)
大学生:130円(70円)
高校生、18歳未満、65歳以上:無料
*( )内は20名以上の団体
国立美術館キャンパスメンバーズは、学生証または職員証の提示により、無料でご観覧いただけます。

夜間割引 夜間開館日(金曜日)の午後5時以降、夜間割引を実施します。
一般 430円 → 220円、大学生 130円 → 70円

コレクション展無料観覧日 5月21日(土)、7月16日(土)
*都合により変更する場合がございます。

同時開催: 2022年5月19日~7月18日
MONDO 映画ポスターアートの最前線

展示リスト 2022年度 第2回コレクション展(計148点)(PDF形式)

音声ガイド 音声ガイドアプリご利用方法(PDF形式)

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