コレクション展
2021年度 第5回コレクション展
2022.01.20 thu. - 03.13 sun.
冬の日本画 2022 堂本印象《冬朝》1932年
今年は寅年です。儒教において特に重要とされる五経の一つである『易経』には、「雲は龍に従い風は虎に従う」という教えがあります。これは、立派な君主の下には優秀な部下が現れることのたとえで、龍虎図は風雲を伴う姿で描かれることが多いです。虎の勇猛な姿を自らと重ね合わせた武将たちに気に入られたこともあり、虎の絵は数多く描かれました。しかし、日本には虎が生息していなかったため、京都では円山応挙が猫のような顔をした虎図を描いたことがよく知られています。明治時代に入ると本物の虎の姿を見て描いた作品が現れるようになり、西村五雲《虎》も猫ではなく実際の虎の顔に近い描写となっています。
お正月といえば、凧揚げや福笑いとともに双六で遊ぶ姿がよく見られましたが、今となっては昔のこととなりつつあるように感じます。特にコロナ渦によって大勢で集まることがためらわれる昨今の状況に鑑みると、仕方がないことかもしれません。現在、よく知られている双六は、絵双六というもので、盤双六という二人で遊ぶ双六から派生して生まれたものです。絵双六は大人数で遊ぶことができるため、お正月にみんなが集まってできる遊びとして定着したものとされています。中村大三郎《双六(下絵)》では盤双六をする二人が描かれており、今ではほとんど見ることない盤双六の様子を知ることができます。
大晦日から元日にかけて京都でも雪が降りましたが、こうした雪の降り積もる景色は四季を大切にする日本人にとって冬を代表する情景です。京都でもさまざまな題材で画家たちが雪の景色を描いています。
芸術家とモデルの関係 野島康三《題名不詳(モデル F.)》1931年
岸田劉生の同時代人で交流関係のあった野島康三は、東京の小石川竹早町にある自邸のサロンで劉生の個展を開催するなどパトロン的な役割を果たすとともに、写真制作においては、劉生の絵画様式から大きな影響を受けました。対象を凝視し、存在感を際立たせた濃密で重厚な静物画、リアリズムを追求した肖像画など、野島と劉生の作品には、写真と絵画という技法の違いをこえて多くの共通点がみられます。
劉生が愛娘の麗子を絵画制作のモデルとしたように、身近な家族や友人にカメラを向けた写真家も少なくありません。ユージン・スミスは第二次世界大戦の従軍中の負傷から療養生活を送るなか、裏庭で遊ぶ彼の子どもたちを撮影し、写真家として復帰を果たします。《楽園への歩み》はスミスが「戦後初めてシャッターを押した写真」であり、モデルとなった娘ワニータの生き生きした表情に、スミスは未来への希望を託したのかもしれません。妻エレノアの忍耐強いポージングによって抽象的な造形美を実現したハリー・キャラハン、家族に仮面を被らせて独特の世界観を提示したラルフ・ユージン・ミートヤードなど、家族を巻き込んだ撮影スタイルを貫いた写真家もいました。さらにモデルとの関係は常に恋仲というエドワード・ウェストン、マン・レイ(モンパルナスのキキは、エコール・ド・パリの画家たちの間で人気のモデルでした)、竹久夢二、池田満寿夫に対して、野島康三と彼の写真に頻繁に登場する女性「モデルF」との関係は今でも謎に包まれています。「モデルF」における、こちらを見返す眼差しの強さ、乱れた髪、豊饒な肉体など土着的で野性的な女性像は、劉生の麗子像と同様に、大正期の新しい美術に関心をもつ都市のホワイトカラーの知的エリート男性を中心に人気を獲得したといわれています。作品の中のモデルたちは、ありのままの彼女/彼自身の姿ではなく、ある意味で撮る側(主に男性)の理想を投影したミューズ/虚構でしかないのかもしれない――やなぎみわの《フェアリー・テール》シリーズはグロテスクな女性という現実を露わにすることで、その一方的な眼差しに一石を投じているといえます。
大正時代の工芸 山本安曇《信濃高原の叙情白銅花瓶》1920年
個人作家としての工芸家が登場した大正時代は、工芸を考えるうえでの一つの転換期です。ここでいう工芸家とは、自らの美意識で作品の構想を練り、素材を選び、適切な技術を選択して形を作る人を指しています。その先駆的な役割を果たしたのが、富本憲吉、バーナード・リーチ、藤井達吉です。後に富本は色絵磁器の技術で人間国宝に認定され、リーチは世界的な巨匠としてスタジオ・ポタリーの基礎を作り、藤井は愛知県の瀬戸や小原などで創作工芸の指導を行うかたわらで手芸の普及にも尽力しました。しかしこの時期の作品に共通するのは、技術的な完成度を追い求めることや既成の様式を踏襲することではなく、未熟であっても作品に自身の生命観を宿すこと、そのための方策として、写生を重視して「自然」と「自己」とを直接に結び付けることでした。三人の作品に植物文が描かれることが多いのは、身近な自然を見つめ、スケッチを繰り返すことで創作模様を制作していたためです。そもそも大正という時代は雑誌『白樺』に代表されるように自然主義が若い芸術家を大いに刺激しており、実際にリーチや富本は『白樺』にも関係していました。この創作工芸の流れは、楠部彌弌や山本安曇、山崎覚太郎等の抒情的な仕事にも影響を与えています。一方で、「新古典主義」と呼ばれたのが香取秀真の作品です。香取は金工史研究でも知られていますが、研究を通じて得た知見を自身の制作に生かすことで、金工における日本趣味を確立しました。また、五代清水六兵衞や河井寬次郎は、京都市陶磁器試験場での研究成果を創作に生かしており、清水の作品は素地に顔料を混ぜた有色磁、河井の作品は銅の揮発する性質を使用した辰砂によるものです。
詩人・河井寬次郎 河井寬次郎《木彫拓本》1950年頃
河井寬次郎は、陶芸を制作活動の中心とする一方で、継続的に執筆をおこない、多くの言葉を残しました。河井が題材にしたのは、やきものに関することはもちろん、子ども時代の思い出など幅広く、温かなまなざしとその軽妙な語り口は魅力に富みます。今回は、河井寬次郎の言葉をテーマとして、川勝コレクションを中心に作品をご紹介します。
河井の文筆活動は、中学校時代の『学友会雑誌』に溯ることができ、『工藝』や『民藝』などの雑誌に掲載された随筆から、未刊行の私的な日記や詩作まで多岐にわたります。大正5(1916)年には『火の寄贈』と題し、短い詩のような言葉を自家製本としてまとめており、これらは推敲を経て、戦後『いのちの窓』として刊行されたほか(1948年、西村書店、1979年に東峰書房にて再版)、絵を添えて拓本としても制作されました。さらに意味を凝縮した四文字の漢字による造語も、書や陶板に書かれ、河井の思いを伝えています。
昭和6(1931)年から『工藝』に連載された「陶技始末」では、河井の作品にしばしば登場する手のモティーフが、「片手は皿で両手を合わせると碗になる」という文章の挿絵として登場し、身体を拡張するように道具を生み出し発展してきた人の営みについて端的に説明しています。その後、作家が思索を深め、「此世このまま大調和」と言う境地に至ったとき、包み込むように手を合わせるモティーフは、より広い意味を内包すると思われます。
河井の言葉が伝えるのは、物事の両面性をそのまま受け入れようとする、作家の肯定的な姿勢です。自他の区別を超えて、自らの言葉も「読まれる人の言葉」だと考えていた作家は、最晩年に次のように生きる喜びを綴っています。
知らない自分、未知の自分、そういう自分に会いたいのです、あなたと私、必ず何処かにいるのにちがいない新しいあなたと私、世界は刻々収縮を続けています。国と国との距離、星と人との距離、――それに比例して吾々のからだは、意識は――拡大され続けています。――大きな国、はてしもない国、あなたと私、あらゆるものから歓待を受けている吾等、この世へ御客様に招かれて来ている吾等、このもてなしにどう答えますか*
*河井寛次郎「造形帰趨(六)饗応不尽 六十年前の今53」『民芸』161号(1966年5月)
岸田劉生の友と敵 清宮 彬《静物》1918年
大正期美術の個性派を代表する岸田劉生の生涯について、梅原龍三郎は「多くの敵と善く戦つた」と述べましたが、反面、劉生は熱心な支持者、心酔者たちにも恵まれました。
劉生の友としては武者小路実篤、長与善郎、志賀直哉、和辻哲郎、高村光太郎等が有名です。画業の初期に劉生が結成したヒュウザン会(フュウザン会)以来の同志としては、画家の清宮彬がいましたが、やがて劉生に心酔した木村荘八、中川一政、椿貞雄なども同志となり、劉生を中心にして草土社という美術家集団を結成することにもなりました。草土社はのちに院展洋画部解散後の洋画家たちと合流して春陽会となりましたが、ここでも劉生の影響力は絶大でした。それを嫌った小杉放菴の一派が劉生の排除を画策したため、劉生は春陽会を脱退せざるを得なくなったのですが、そのとき孤立した劉生に寄り添って一緒に脱退したのが梅原龍三郎です。当時の画壇では彼が劉生の一番の理解者だったといえそうです。
梅原と同じ浅井忠門下の画家でありながら、逆に劉生への論敵だったのが石井柏亭です。批評家でもあった柏亭は、劉生の才能を認めてはいたようですが、近代の画家は近代の絵を描くべきであると信じていた彼と、時代を超える真理と美を探究していた劉生とでは、歩み寄りようもなかったのかもしれません。画家の大野隆徳も劉生の敵でしたが、この大野も、柏亭も、劉生と同じく、実業家の芝川照吉から庇護を受けた画家たちだったというのは意外な事実です。
もっと意外なことに、劉生画業の初期から一緒に活動してきた萬鉄五郎も、劉生にとっては気に入らない相手だったようです。天才同士の関係は、なかなか容易ではないのでしょう。
劉生は1923(大正12)年10月から約2年半を京都の南禅寺草川町で過ごしましたが、このとき親しくした画家としては、木村斯光や梶原緋佐子、土田麦僊のような日本画家のほか、津田青楓、黒田重太郎などの洋画家もいました。劉生と入れ違いで京都へ移住した岡崎桃乞(義郎)は、鎌倉へ移住した劉生が京都に滞在した際の、祇園の花街における遊び仲間の一人でもありました。
劉生が生きた時代の西洋美術 ピエト・モンドリアン《コンポジション》1929年
「新収蔵記念:岸田劉生と森村・松方コレクション」展に関連し、岸田劉生が生きた時代の西洋における様々な美術の様相をご紹介します。
劉生の画家としての活動時期(1910-29年)は、第一次世界大戦(1914-18年)をはさみ、ヨーロッパにおいて芸術の在り方が大きく変化した時期でした。ピカソとブラックが牽引したキュビスムは、伝統的な単一焦点の遠近法を否定し、形態の極端な解体・単純化・抽象化を推し進めました。一方、マティスやドラン、デュフィらが中心となったフォーヴィスムでは、伝統的な写実主義や目に映る色彩の再現が否定され、色彩それ自体の力を重視し、画家自身の感覚を色彩で表現しようとしました。また、エコール・ド・パリと称された、モディリアーニやシャガール、藤田嗣治といったフランスさらには西欧とは異なる文化的背景を持った画家たちは、キュビスムやフォーヴィスムといった先鋭的な美術の動向と各々の芸術的源泉を結びつけ新たな地平を開いていきました。さらにエルンストやモンドリアン、ピカビアらに見られるように、線や面、色彩といった造形要素自体とそれらの組み合わせから生まれる力に注目し、それを抽象的な主題や超現実的な主題と結びつけるような作品が生まれてきました。劉生が生きた時代、それはまさに絵画とは何か、芸術とは何か、という根本的な問いが様々な形で問われた時代でした。
ここではさらに、本年度新収蔵作品として、ウクライナ出身の画家・デザイナーであるソニア・ドローネー=テルクとスイス出身の詩人ブレーズ・サンドラールによる共作《シベリア横断鉄道とフランスの小さなジャンヌのための散文詩》(1913年)を展示しています。鮮やかな色彩とリズミカルな形態の連続による躍動感溢れるイメージと、複数のフォントと行間に施された彩色によって揺らぎながら綴られていくテキスト、その両者が生き生きと交錯する本作品を、作者二人は「最初の同時性的書籍」と呼んでいます。絵画と文学をハイブリッドに結びつけた20世紀アートブックの最重要作品のひとつです。
会期
2022年1月20日(木)~3月13日(日)
テーマ
冬の日本画 2022
芸術家とモデルの関係
大正時代の工芸
詩人・河井寬次郎
岸田劉生の友と敵
劉生が生きた時代の西洋美術
常設屋外彫刻
展示リスト
2021年度 第5回コレクション展(計168点)(PDF 1MB)
音声ガイド
音声ガイドアプリご利用方法(PDF形式)
開館時間
午前9時30分~午後5時
*ただし金、土曜日は午後8時まで開館
*いずれも入館は閉館の30分前まで
*新型コロナウィルス感染拡大防止のため、開館時間は変更となる場合があります。来館前に最新情報をご確認ください。
観覧料
一般 :430円(220円)
大学生:130円(70円)
高校生、18歳未満、65歳以上:無料
*( )内は20名以上の団体
*国立美術館キャンパスメンバーズは、学生証または職員証の提示により、無料でご観覧いただけます。
コレクション展無料観覧日
2022年1月22日(土)、3月12日(土)
*都合により変更する場合がございます。
音声ガイド 音声ガイドアプリご利用方法(PDF形式)