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コレクション展平成29年度 第5回コレクション展 (計121点)

 

コレクション・ギャラリー

平成29年度 第5回コレクション展 (計121点)

会期

2018(平成30)年1月5日(金)~3月11日(日)

主なテーマ

展示作品

キュレトリアル・スタディズ12: 泉/Fountain 1917–2017
   Case 5:散種 by 毛利悠子

 「Case 5: 散種」と題して最終回のキュレーションを担当するのは、日用品と音や光、水などを組み合わせたインスタレーションを発表するアーティストの毛利悠子(1980–)。もう一つのデュシャン代表作《彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも》(通称「大ガラス」)をモチーフとした作品を発表してきた作家が新鮮な視点で《泉》の展示に挑みます。今回のテーマ「散種dissémination」とはフランスの哲学者デリダのテクスト論における用語で、種や精子を撒き散らすことを意味すると同時に、ある言葉が一つの意味に回収されることなく拡散し多様化していくさまを示したものです。読まれるたびにその意味を増殖させてきたデュシャン作品の受容の過程は、まさに「散種」と呼ぶべきものでしょう。デュシャンが愛人マリアに向けて制作したユニークピースを含む《トランクの箱(特装版)》(1946年・富山県美術館蔵)という特別ゲストもお迎えします。1年間の5回にわたるケース・スタディを通して、現在の美術における100年後のデュシャンの遺伝子のありようを探ります。

1918.1.20. 国画創作協会生マル

 「生ルヽモノハ芸術ナリ。機構ニ由ツテ成ルニアラズ。此レヲ霊性ノ奥ニ深メテ人間ノ真実ヲ発揮シ、此レヲ感覚ノ彩ニ潜メテ生命ノ流動ニ透徹ス。実ニ芸術家ハ、自己ヲ深メテ漸クニ作品ヲ渾成シ、作品ヲ渾成シテ始メテ自己ノ生長ヲ見ルナリ。此ノ信念ニ生クルモノハ即チ我々ノ友タル可シ。我々ハ茲ニ国画創作協会ヲ創立シテ、諸種ノ施設ヲ為シ、同志ノ作品ヲ公表シテ些サカ日本画ノ発達ニ資スルトコロアラントス。」
 大正7(1918)年1月20日、京都ホテルにて、土田麦僊、小野竹喬、村上華岳、榊原紫峰、野長瀬晩花(入江波光も創立に尽力したが、自ら、他の会員に比べて技量が劣るとして、創立会員の列に加わらず、第1回展の国展賞受賞をもって会員となる)を創立会員とした国画創作協会が誕生します。冒頭の文章で始まる「国画創作協会宣言」は、個性の尊重、創作の自由、自然への愛を謳いあげて多くの若い画家達を感激せしめ、同年11月に開催された第1回展には京都だけでなく、全国から多数の応募がありました。妖艶な女性像や北方ルネサンス美術の影響を受けた素描作品、西洋風の細密描写など様々な傾向を持つ作品が集まる同展覧会は、文展では受け入れられない新しい画家達の受け皿となり、発展します。経済的な理由から惜しくも昭和3(1928)年第7回展をもって解散(会員、会友を中心に新樹社が結成されたが2回展覧会を開催した後自然消滅している)しましたが、この10年間に生まれた未完成ではあっても個性的で濃厚な作品群は、近代日本の青春期とも言うべき大正時代の日本画界に彩りを添え、現代の我々にその熱を確かに伝えています。
 誕生から100年の節目を迎えたのを機に、同展覧会出品作ならびに出品作家のこの時代の作品を展示し、国画創作協会の活動を改めて振り返ります。

土田麦僊、大原女 1927年
土田麦僊《大原女》1927年
(展示期間:1月30日(火)~3月11日(日))

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創作工芸の萌芽

 明治時代末期から浅井忠や神坂雪佳らは、遊陶園や京漆園を組織するなど、京都の工芸家たちと図案研究ならびに工芸制作の実践を行います。そこで彼らは琳派様式等を参考に、工芸における装飾性に新たな価値を見出していきました。
 その一方で、後に重要無形文化財保持者(人間国宝)となる鋳金の高村豊周は、近代の工芸界を回顧する中で、恩人として富本憲吉、藤井達吉、津田青楓の名前を挙げています。また、この時期の日本の美術界に多大な影響を与えたバーナード・リーチや新井謹也、河合卯之助もここに加えるべき作家だといえます。高村はその理由について、新しいものの見方を教えてくれたからだと述べます。ここでの新しさとは、技巧や様式、完成度を重視する旧来の工芸の価値観に対して、自然を見つめること、そして創作者の内面的欲求に従い、精神の探求と創作者の自由の発露としての工芸を制作することなどです。当時、工芸品は、「生活」の場において、「生命」を直接に表すことができる手段であるとして、多くの芸術家が専門性を越えて工芸制作を行いました。
 この時期の作品には、時に手工的で稚拙に見えるものがあります。しかしそれは技巧を介さずに精神性を直接的に反映させるための手段として、作家たちがあえて選択した制作態度でした。このような時期を経て、楠部彌弌の赤土社など、その後の工芸界の創作活動が花開いていきます。

藤井達吉、棕櫚図屏風、1916年
藤井達吉《棕櫚図屏風》1916年

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「詩人」河井寬次郎

 当館所蔵の河井寬次郎作品は、長年にわたる河井の支援者であった川勝堅一氏によるコレクション(川勝コレクション)が中核をなしています。その作品群は、初期から晩年までの河井の代表的な作品を網羅しており、河井の創作意識の変遷を辿る上で欠かせないものです。
 近代日本を代表する陶芸家の一人である河井は、明治23(1890)年に現在の島根県安来市に生まれました。東京高等工業学校(現、東京工業大学)を卒業後、京都市陶磁器試験場に技師として勤務します。大正6(1917)年に試験場を辞し、陶芸家として独立後は、中国陶磁を手本とした作風で大正10(1921)年の最初の個展で「天才は彗星の如く突然現れる」と評されるなど華々しいデビューを飾りました。しかし河井は、その後、創作の方向を大きく変え、民藝運動に参画することで、「暮らし」と創作の密接な関係において作陶活動を展開していきます。河井の作品における造形性は、晩年に向かうほど、ますます意欲的となり、「生命」の喜びに溢れたものとなりました。
 河井は、自由な制作活動が難しくなった戦中に、詩句の創作に熱中し、昭和22(1947)年に私家版として『いのちの窓』を出版します。戦後の河井は、こうした自己の信念を様々に表現へと活かしていきました。本展では河井の詩句を中心に、詩人としての河井の一側面を紹介します。

河井寬次郎、陶板、1949年頃
河井寬次郎《陶板》1949年頃

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フォーヴの画家たち

 19世紀末にファン・ゴッホが切りひらいた、芸術家の主観を激しい色彩と奔放な筆触で表現する手法は、20世紀に入り、フォーヴィスム(仏:Fauvisme)と呼ばれる絵画運動へと引き継がれました。アンリ・マティス、モーリス・ド・ヴラマンクらが、その代表的な画家たちです。
 フォーヴィスムの名前は、彼らの作品を見た当時の評論家が、「まるで野獣(Fauves)の檻のなかにいるようだ」と評したことに由来します。このパリの革新的な絵画運動は、若い画家たちに大きな影響を与えましたが、日本からの留学生もその例外ではありませんでした。
  日本では、すでに1910年代からファン・ゴッホの作品が図版で紹介され、いわゆる大正デモクラシーを背景に「個」に目覚め始めた若い世代を魅了していました。そうしたなか、1919(大正8)年に渡欧した中川紀元はマティスに、1921(大正10)年に渡欧した里見勝蔵はヴラマンクにそれぞれ師事してパリのフォーヴィスムに直接触れ、帰国後、その伝道者として洋画壇を沸かせました。
 とりわけ里見は、渡仏中、佐伯祐三をヴラマンクに紹介し、彼の芸術的方向性を決定づけるきっかけを作ったことで知られるとともに、帰国後はその佐伯や前田寬治などとフォーヴ色の強い1930年協会を結成し、さらにはそれを1930(昭和5)年の独立美術協会結成へと発展させるなど、戦前の洋画壇にフォーヴィスムを根付かせるうえで重要な役割を担いました。
 本コーナーでは、中川紀元、里見勝蔵を中心に、日本のフォーヴの画家たちの作品を紹介します。


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