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コレクション展平成29年度 第4回コレクション展 (計112点)

コレクション・ギャラリー

平成29年度 第4回コレクション展 (計112点)

会期

2017(平成29)年10月25日(水)~12月24日(日)

主なテーマ

展示作品

【キュレトリアル・スタディズ12:泉/Fountain 1917-2017
     Case 4: ベサン・ヒューズ《デュシャンを読む リサーチ・ノート》】

 Case 4ではウェールズ出身のアーティスト、べサン・ヒューズ(Bethan Huws, 1961-)を取り上げます。ベサン・ヒューズはロンドンのロイヤル・カレッジ・オブ・アート(RCA)などで学んだ後1990年代からパリやベルリンを拠点に創作活動を開始、アイデンティティや言語、翻訳をテーマとする平面、立体、映像、インスタレーションを発表しています。これまでヴェネツィア・ビエンナーレのウェールズ代表(2003)や、マーストリヒト・ボネファンテン美術館(2006)、ロンドン・ホワイトチャペル・ギャラリー(2011)、ベルン美術館(2014)など世界各地の美術館で個展が開催されています。今回はこのヒューズのライフワークをまとまった形で紹介する国内では初めての機会となります。
 ベサン・ヒューズの《デュシャンを読む:リサーチ・ノート》は2007年から開始されたマルセル・デュシャンをめぐる思考過程をマインドマップとして提示したプロジェクトです。A4用紙に記された数々のデュシャンの言葉や作品についての膨大な調査メモやドローイングは、美術史研究者によるアプローチとは異なり、必ずしも明確な論理や秩序をもっているわけではありません。数字や色、図像学的モチーフをデュシャンがどう扱ったのか、フランス語と英語を往来しながらそれぞれの単語と音の関係をどのように作品に取り込んでいたのかといった点について、ことば遊びを巧みに取り込むデュシャンの術をていねいに紐解いていきます。ベサン・ヒューズの試みは、観る側としてのアーティストの断片的思考の集積であり、デュシャン本人の言葉を借りれば、作者と観る者という二極の間で成立する作品についての「創造的解読」として理解することができます。デュシャンとヒューズがつくりあげた言葉とイメージの迷宮をどうぞお楽しみください。

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「岡本神草の時代」展によせて

 3階で開催されている「岡本神草の時代」展と関連のある作品を、当館日本画コレクションと寄託作品の中から選んで展示するものです。
 岡本神草が数多く模写していた、師・菊池契月の中国人物をモティーフとした作品を彷彿させる《蓮華》(もちろん、学生時代の神草も本作品を見ているはずです)。特異な女性像を描き競った甲斐庄楠音の作品。同門の梶原緋佐子、佐藤光華、木村斯光、高橋史光、谷角日沙春、登内微笑の作品。美工在校生及び卒業生が学年を超えて集った絵画研究団体密栗会の伊藤柏台、入江波光、榊原始更、玉村方久斗、村上華岳の作品。同時代に京都画壇で活躍していた西山翠嶂、中村大三郎が描いた女性像。さらに、江戸時代の京都画壇における女性像の影響を色濃く残す今尾景年の作品、近代京都画壇を代表する女性画家上村松園の作品、近代大阪画壇を代表する北野恒富の女性像もグッとよせて紹介します。
 なお、金田和郎《水蜜桃》は、神草の《口紅》、甲斐庄楠音の《横櫛》が話題を呼んだ第1回国画創作協会展で、この2作を押さえて、樗牛賞をとった作品。当館の《横櫛》は出品作ではありませんが、後年改変されてしまった出品作よりも、当時の面影を残していると言われており、3階で現在も競い合う2点と共に、99年前の11月27日、この地で開催された第1回国展にも思いをよせていただきたいと思います(来年1月20日は国画創作協会が誕生して100年になります)。

菊池契月、蓮華、1917年
菊池契月《蓮華》1917年

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友禅と型染

 染織は、大きく「染め」と「織り」に分けることができます。そして友禅や型染、蝋染、長板中形、経錦、羅、紬織、絣織、綴織などの様々な技法によって特色ある染織作品が生みだされてきました。ここでは「染め」の技法である友禅と型染に焦点を当て、染めるという行為から生まれる作品の特質と魅力を紹介します。
 友禅とは、江戸時代に始まった糊置防染法による模様染のことで、繊細な糊置の技法と多彩、華麗な絵模様、幾何学模様が特徴です。その名称は扇工の宮崎友禅斎の意匠を小袖に応用したことに由来しますが、ほぼ同時に糸目糊による防染、筆彩色の捺染による多彩な染色法が確立し、その技法が今に受け継がれています。江戸時代以降、友禅技法の中心であった手描友禅に加えて、型を用いた型友禅が明治時代に考案されたことで、表現の幅が広がるとともに、友禅が広く普及するきっかけともなりました。
 一方、型染は、型紙を用いて模様を染め出す技法です。型紙を使うことで、文様的かつ絵画的な図案、複雑なパターンの繰り返しや展開、面の構成などが特徴となります。ちなみに型染の一種である型絵染は、昭和31(1956)年に芹沢銈介が重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される際に創出された技法名です。ここで芹沢は、従来の分業制に対し、模様の創作から型紙彫り、糊置き、染めにいたる一貫した制作過程を通じて作者の創作性を表現したことが評価されたのでした。

森口華弘、大振袖 梅林、1964年
森口華弘 大振袖《梅林》1964年

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河井寬次郎と近代日本の陶芸

 近代日本を代表する陶芸家の一人である河井寬次郎は、明治23(1890)年に現在の島根県安来市に生まれました。東京高等工業学校(現、東京工業大学)を卒業後、京都市陶磁器試験場に技師として勤務します。大正6(1917)年に試験場を辞し、陶芸家として独立後は、民藝運動に参画し、釉薬の河井と評されたように、釉薬をはじめとする造形性が高く評価されました。ここでは河井の代表的な作品とともに、河井と関係のあった同時代の陶芸家の作品を紹介します。
 陶芸家として初の文化勲章を受賞した板谷波山は、河井が東京高等工業学校に在籍していた時の恩師であり、日本で作陶を始めた英国人のバーナード・リーチや後に色絵磁器で人間国宝に認定された富本憲吉は、河井が個人作家としての方向性を確固たるものとするうえで多大な影響を与えた陶芸家です。また、浜田庄司は、河井の民藝運動の同志であり、東京高等工業学校、京都市陶磁器試験場時代にともに研鑽を積んだ仲でした。清水六兵衞との関係は、河井が二年間清水家の釉薬顧問を務めていたことに加えて、現在も残る河井の登り窯は清水家より譲り受けたものです。京都を代表する陶芸家の一人の楠部彌弌は、河井と木工芸の黒田辰秋を引き合わせた人物であり、北大路魯山人は、後に河井批判を行うとしても、当初は河井の作陶を高く評価し、自身の工房に河井を招へいすることも考えていたのでした。

河井寬次郎、花鳥扁壺、1952年
河井寬次郎《花鳥扁壺》1952年

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特集展示:ケラ美術協会

 ケラ美術協会は1959(昭和34)年12月23日、京都市立美術大学(現・京都市立芸術大学)日本画科出身の岩田重義、楠田信吾、久保田壱重郎、榊健、中尾一郎、中塚弘、名合孝之、西井正樹、野村久之、浜田泰介、船越修、松井祥太郎、京都学芸大学(現・京都教育大学)特修美術絵画科出身の物部隆一の計13名によって結成されました。
 彼らに共通していたのは、公募団体や画壇の封建的で政治的な体質に対する強い不満と自由な表現への欲求でした。
 グループ名の「ケラ(Cella)」は、ラテン語で「細胞」や「単位」を意味する言葉で、彼らのよき理解者であった美術史家で当時京都市立美術大学助教授の木村重信が名付けました。そこには「細胞が分裂し、拡大するように、この運動があらゆる人たちに賛同されることを望む」(宣言文より)気持ちが込められていました。
 ケラ美術協会の会員たちは日本画科の出身でしたが、「日本画」の概念にとらわれることなく、より広い視点から「真に創造的な絵画」を生み出すことを目指しました。そのため、日本画の顔料だけでなく、油絵具やエナメル塗料、ビニール塗料、墨汁、ペンキ、さらには漆、蝋、石膏、布、ゴム、泥、ムシロ、石など、それまでおおよそ画材とは見なされなかったさまざまなモノも使って制作し、出来上がった作品を、年に2~4回のハイ・ペースで開催したケラ美術展で次々と発表していきました。
 当館は、2012(平成24)年度から2014(平成26)年度にかけて、このケラ美術協会の作品を収集しました。ここでそれらの作品を一堂にご紹介するとともに、同会の活動をあらためて振り返ります。

  • 関連イベント 座談会「ケラを語る」
    日時:
    12月9日(土)午後2時~3時30分(午後1時30分開場)
    出席者(予定):
    元ケラ美術協会会員 岩田重義、楠田信吾、野村久之、
    物部隆一(50音順)
    司会進行:
    平井章一(当館主任研究員)
    会場:
    京都国立近代美術館 1階講堂
    定員:
    先着100名
    聴講料:
    無料
  • The cella
  • 同展リーフレット(会場で配布しています。)

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ファインダー越しのアジア:報道、旅行記、小説

 フランスの写真家アンリ・カルティエ=ブレッソンは、戦場カメラマン・報道写真家として活躍していたロバート・キャパとともに写真家集団「マグナム・フォト」を創立し、世界各地を駆け巡り、さまざまな歴史的場面を写真に収めました。1952年に出版された写真集『決定的瞬間(仏原題:逃げ去るイメージ)』のタイトルは、小型カメラ・ライカによるスナップショット的表現と計算された構図とともに、カルティエ=ブレッソン作品、ひいては写真それ自体を形容する言葉として広く知られています。アジアやメキシコ、ソヴィエトなどに取材した写真群は、ルポルタージュ写真の典型として後世の写真家たちに大きな影響をもたらしました。
 オーストラリア出身のマックス・パムもその一人です。パムは学生時代に写真を学ぶと、カメラを片手に天体物理学者の助手としてコルカタからロンドンまで旅をした経験をきっかけに、旅行記としての撮影スタイルを確立していきます。旅先で出会った現地の人々をスナップショット的にとらえた写真は、欧米人が好むエキゾチシズムの片鱗が垣間見えます。温泉に浸かる日本人の禅僧を写した一枚の写真を見たときにどこか違和感を覚えるのは、いったい何に因るものなのでしょうか。
 写真誌に流布するこうしたアジアの表象に違和感を抱いたのが、ダヤニータ・シンです。1961年インドに生まれたダヤニータ・シンは、ニューヨークでドキュメンタリー写真を学んだ後、しだいに欧米人によるエキゾチシズムに満ちたインドのステレオタイプな写真(=西洋が認識するインド)に疑問をもつようになります。彼女のフォトジャーナリズムからの転換を象徴する《私としての私》は、修道院で生活しながらも意志をもって生きる少女たちの姿が親密な視点で瑞々しく切り取られています。


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