コレクション展作家略歴
作家略歴
HOME > コレクション・ギャラリー > 平成25年度 第2回展示 > 展示目録 > 作家略歴
三木富雄 みき・とみお
早くから美術家を志す三木に反対する父親が、条件として理容師の資格を取得することを求めたため、東京公衆衛生技術学校を卒業、その後中央美術学園通信教育部に入学する。しかし美術の基礎的な学習はなされず、三木の制作はほぼ独学による。1958年から読売アンデパンダン展に出品、そのかたわら画廊で個展を開く。篠原有司男や荒川修作らが結成した前衛芸術グループ、ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズに参加することはなかったが、非常に親密な関係を持った。このころの作品は、自動車のタイヤでつくった巨大なオブジェにアスファルトを塗って燃やしたり、無数に吊り下げた瓶の列を会場で破壊する、といった、当時「反芸術」と呼ばれた傾向を示すが、一貫した様式はない。「耳が私を選んだ」と述べ、執拗に人間の耳をかたどった作品を制作しはじめるのは1962年からである。粘土や新聞紙で成形したうえに石膏を塗布した最初の耳の作品《バラの耳》(1962年)に次いで、1963年の最後の読売アンデパンダン展においてアルミニウムの合金で鋳造された耳の作品を発表する。以後、素材はアルミニウム合金を中心に、複数の耳が規則的に配列されたレリーフ状の作品、拡大された巨大な耳、直線的に切断し分割された耳、シルクスクリーンで刷った耳、強化プラスチック製で素材の違う耳、蛍光色を塗布された色彩のある耳、と様々な、そのほとんどが左耳の作品を制作する。1971年の一年に及ぶニューヨーク滞在以降は「耳」と距離をとることを試み、廃物のオブジェ、コラージュやそれらをもとにした版画、写真の制作をおこなう。国際的な活躍を期待されるなか、1978年40歳の若さで急逝した。
1937年(昭和12)- 1978年(昭和53)
1937年 | 東京に生まれる |
1954年 | 東京公衆衛生技術学校(現:窪田理容美容専門学校)卒業 中央美術学園通信教育部入学、後に中退 |
1958年 | 第10回読売アンデパンダン展(東京都美術館)出品、以降第12回から15回まで出品 |
1959年 | 初個展(櫟画廊、東京)、以降1960、63、65年と個展開催 |
1964年 | 「ヤングセブン」展(南画廊、東京)出品、
第6回現代日本美術展(東京都美術館)出品、 コンクール賞受賞、以降第7回出品 |
1965年 | 「日本の新しい絵画と彫刻」展(ニューヨーク近代美術館ほか)出品 第8回日本国際美術展(東京都美術館)出品、以降第9回、11回(1967、74年)出品 「現代美術の動向 絵画と彫塑」展(国立近代美術館京都分館)出品 |
1966年 | 『他人の顔』(勅使河原宏監督/安部公房原作)映画セット制作、「現代美術の新世代」展(国立近代美術館、東京)出品、第7回現代日本美術展(東京都美術館)出品、 以降第9回展においてフロンティア賞受賞 |
1967年 | 第5回パリ青年ビエンナーレ展(パリ市立近代美術館)出品、アンドレ・シュス賞受賞 |
1968年 | 第34回ヴェネチア・ビエンナーレ展出品 |
1971年 | ロックフェラー財団の招聘により渡米、約1年間ニューヨークに滞在し帰国 |
1977年 | 京都アンデパンダン展(京都市美術館)出品、 個展「林檎園より春の心」(グリーン・コレクションズ、東京) |
1978年 | 2月15日、心臓麻痺のため京都で急逝(享年40歳) |
1981年 | 「三木富雄展」(福岡市美術館) |
1992年 | 「The EAR NO.1001 浅岡慶子+三木富雄」展(国立国際美術館、大阪) 「特別展 三木富雄」(渋谷区立松濤美術館) |
このページの先頭へ