ジュリアナ・クイーン

日本の女性史を研究する後世の歴史家にとって、1991年は大きな転換期になるのかもしれない。この年、東京・芝浦のはずれにディスコ・ジュリアナ東京がオープンしたのである。

倉庫会社の遊休地に、イギリスのレジャー企業ウェンブリーと総合商社の日商岩井が組んでひらいたジュリアナは、一昔前のディスコとも、このあと主流になっていくクラブとも趣をことにする、一種の仮設祭礼空間だった。

コストを抑えた簡素な内装。暗さのみじんもない、あくまでも軽くアップテンポなユーロビートの選曲。曲の継ぎ目にかぶさる、野暮ったさすれすれのDJトーク。そしてなんといっても、お立ち台で踊りまくるボディコンの女性客たち。

ダンス・フロアに設けられたお立ち台は、中央部の奥行1.5m、幅10m、高さ1m近い「舞台」だった。夕方、仕事や学校を終えた女の子たちは、JR田町駅やファーストフード店のトイレで、からだにぴったり張りつく超ミニのボディコン・ワンピースに着替え、羽根をあしらった扇子(ジュリ扇)を手に、一路ジュリアナへと向かった。6時過ぎには開店し、12時には店を閉める「健全ディスコ」を目指したジュリアナの店内は、すでに飽和状態の熱気だ。

ボディコンとビジネス・スーツがぐちゃぐちゃに入り交じって踊り狂う中で、もっとも過激な服装で、曲ごとの振り付けをもっとも正確に踊れる女の子だけが、お立ち台に登れ、突き落とされずにいることができた。膝上30センチはあろうかという超ミニスカートの中は、水着だったりTバックだったりした。お立ち台の下から見上げる男たちには丸見えだったが、つかのまのジュリアナ・クイーンである彼女たちにとって、飢えた男たちの視線は、「ファンだと思って、ほほえみ返してあげる」というほどの、気にかけるにも値しないものだった。お立ち台の上と下にあったのは、男と女のあいだの緊張ではなく、女王と平民のように隔たったまま、交わることのない関係だったのだ。

ひと晩だけ、いつもより少しだけ大胆に肌をさらし、音楽に乗ることさえできれば、そこではだれもが女王様になれた。男たちに平然と高価なプレゼントやレストランのディナーやホテルのスイートを要求し、送り迎えだけの「アッシー君」や、ご馳走させるだけの「メッシー君」を抱えることが珍しくなくなった時代。それを違和感なく受け入れる男の子たちが、ふつうにいた時代。それはおそらく、日本の長い歴史の中ではじめて、女たちが「男をナメる」ことを覚えた瞬間だった。

名古屋で、松山で、仙台で、日本各地で「ミニ・ジュリアナ」が次々に店を開き、そこでは本家をしのぐ過激なコスチューム合戦が、夜ごと展開していた。マスコミはその狂態ばかりをおもしろおかしく報道していたが、いまとなっては地方に行けば行くほど、がんじがらめの男社会の中でストレスに押し潰されかけた女の子たちの、それがつかのまの暴発であったことがよくわかる。

マスコミのバッシングや、警察の「ここはストリップ劇場か」という警告に屈して(パンツを見せて、なにが悪いんだろう?)、ジュリアナは93年末でお立ち台を撤去。服装チェックも厳しくして「健全化」を計ったが、エネルギーを失った祭りの場に、にぎわいが戻ることはなかった。

1994年8月、ジュリアナは3年あまりの歴史を閉じる。バブルはすでに崩壊し、日本中が長期不況への予感に怯えていた。灰色の男社会の中に戻っていったジュリアナ・クイーンは、儲けるだけ儲けて、手の平を返すように彼女たちを追い払った企業のことを、パンツの中にカメラを突っ込むように写真を撮りながら、平然とバッシングに転じたマスコミのことを、一生忘れないだろう。

都築響一(選)《ニッポンの洋服》テキスト完全版