インディーズ演歌のロック・スピリット

場末のスナックのドアを押し、ママさんのご機嫌をうかがいながらウーロンハイを飲んでいると、壁に真新しいポスターが貼ってあるのに気がつく。聞いたことのない名前の演歌歌手の、聞いたこともない新曲の宣伝ポスターだった。

ママさんに「これなに、知り合いのひと?」と聞くと、「こないだ飛び込みでキャンペーンに来たんで、しょうがないからCD買ってあげたのよ〜」と教えてくれる。最初のうちは、演歌の世界って層が厚いんだな〜、ぐらいにしか思っていなかったが、だんだん話を聞いていくうちにわかってきた。ポスターをよく見ると、発売元はビクターだのコロムビアだの、大手レコード会社の名前が書いてあるが、それは単に製造元というだけで、実質は「プレス分すべて買い取り」、ようするに自主制作=インディーズだったのだ。

ロックやヒップホップだけでなく、演歌の世界にも「インディーズ」という分野があって、それも演歌業界の中では無視できない割合を占めているのだという事実を、僕はスナックや、健康ランドに貼りだされたポスターから知るようになった。

演歌のインディーズ歌手たちは、どこで自分の歌を歌い、どこで自分のCDやカセットを売っているのだろう。そんなことを考えはじめたら、どんどん「インディーズ演歌歌手」という人生が気になってきて、『演歌よ今夜も有難う——知られざるインディーズ演歌の世界』と題した本までつくって、序文をこんなふうに書いた——

部屋にこもって宅録した音源や、友達とバンドを組んで貸しスタジオで録ったテープを、お小遣いを使ってCDにして、レコード屋の自主制作コーナーに置いてもらう。それがいつのまにか評判になり、気がついたらメジャー・デビューしてロック・スターの仲間入り。そんなサクセス・ストーリーが、ポップスの世界ではあたりまえに起きている。

でも、演歌や歌謡曲でも、同じように自分の貯金をはたいてCDを出したり、カラオケ喫茶や健康ランドや、テレビとラジオ以外のマイナーな場所で歌いつづけ、がんばりつづけている人がたくさんいることを、僕らはほとんど知らされていない。

自分で曲と詞を書いて、録音もして、ジャケットも自宅のプリンターで印刷して、その気になればいくらもかからずにCDができてしまうロックやヒップホップとちがって、演歌や歌謡曲のCDを自分で作るには、数百万円単位の予算が必要になる。作曲家の先生、作詞家の先生、編曲家の先生、バンドマン、ジャケット撮影のカメラマン、それにCDのプレス代に、発売を委託するレコード会社への手数料(ポップスとちがって、歌謡曲の自主制作盤をきちんと扱ってくれるレコード屋は皆無に近いから、発売元のレコード会社がないと、現場で手売りするぐらいしか販売方法がなくなってしまう)。たとえレコード会社が契約してくれたとしても、実態は「プレスした分、全部買い取ってください」という、ほとんど自主制作とかわらない場合が少なくない。

僕らがカラオケで歌うのは演歌や歌謡曲であることが圧倒的に多いのに、いちばん身近にある歌の世界が、この国ではいちばん過酷な状況に追い詰められている。

プロの歌手としてデビュー以来、半世紀以上歌いつづけているベテランから、この時代にあえて演歌歌手を目指してバイト代を自主制作CDにつぎ込む若手まで、レベルや芸歴はさまざまでも、歌に賭ける思いの深さはだれにも負けない、そういう歌い手たちを訪ね歩いていく。

テレビ局と広告代理店とプロダクションがつるんで、でっちあげていくスカスカの歌があり、スナックのステージや商店街の雑踏の中で、ときに無視され、ときに涙と声援を受けながら、うたいつづけられる歌がある。

君はどちらの歌を選ぶだろうか。
君はどちらの歌に選ばれるだろうか。

20代から80代まで、場所も東京から大阪、青森まで日本中にそんなインディーズ歌手たちを追い、お話を聞き、ライブの場にいさせてもらうのは、僕にとってほとんど未知の、スリリングですらある体験だった。いま思い出しても、ずいぶんいろんな場所で、いろんな歌手のお話に、歌に接したものだと思う。

たとえばケニー池田さんという歌手がいる。生まれは福岡の戸畑。製鉄の街、八幡に育ち、ハワイアンのシンガーを志して上京、以来、歌謡曲、ラテン、演歌…と幅広いジャンルで活動を続けて芸歴50年という、超ベテランシンガーだ。「今度久しぶりにやるから」と言われて出かけたのは、東京の下町・江戸川区船堀の東京健康ランド。楽屋で「若いころはモテモテでねえ」なんて「千人斬り」の思い出を語ってくれた彼が、出番となると金色のタキシードでステージに上がり、極彩色のムームーやシャツ・パンツを着用して、すでにホロ酔い加減のオッサンオバサンのあいだをめぐり、握手しながら歌っている(もちろん、ステージから客のいる座敷に降りるときは靴を脱いで)。ものすごい違和感があるはずなのに、ものすごく自然になじんでいて、それはなんだか小型の極楽みたいな情景だった。だって湯上がりで、酒があって、メシがあって、歌があって・・ほかに人生、なにがいりますか?

足立区で長らく美容院を経営しながら、ときにはカラオケ居酒屋のママ役もこなしつつ、独自の演歌世界を歩んでいるみどり・みきさんを見たのは、中野サンプラザ・・の斜め向かいのビルの中にある、小さな区民ホールだった。こういう公共のホールは、平日の昼間であれば特に安く借りられるので(半日で数万円という値段で)、よくインディーズ歌手たちや、若手のお笑い芸人が集まって自主公演を催すのだが、満席になれば150人ぐらいは入りそうなその会場に、着いてみたらお客さんはたったの8人。しかもそのうち5人は出演者だった! でも、いざみどり・みきさんの出番になって、御本人がカラオケのイントロとともに、ものすごく派手な衣裳で飛び出してきて、最初のシャウトをかました瞬間、僕はその瞬間、その場にいられたことを深く感謝せずにはいられなかった。「足立区のレディ・ガガ」とか自分で言って笑ってるみどりさんの歌は、それはおそろしくパワフルで、おそろしくロック・スピリットに満ちていたのだから。

裕力也さんには巣鴨駅に会いに行った。待ち合わせたのではなくて、裕さんは一年365日、巣鴨駅の構内に立ち、歌いつづけているストリート・シンガーなのだ。もとは建設業界で大成功しながら、バブル崩壊とともにすべてを失い、しかし歌うことだけはできると思って歌手になったという経歴を持つ裕力也さん。ときにJR駅員の、警官の、地元ヤクザのいやがらせをはねのけながら、雨の日も雪の日も、猛暑でも極寒でも、一日も休むことなく20キロ近くある機材を引っ張ってアパートから巣鴨駅に通い、朝から夕方まで歌いつづけている。ストリート・デビューしたのが63歳のときというから、これを「ブルース・シンガー」と言わずして、なんと呼べばいいだろうか。

大門信二さんには、誘われて老人ホームの慰問についていった。ふだんは世田谷区のゴミ収集車の運転手としてハンドルを握りながら、彼は休みになると歌の仲間を集め、自分たちでPA機材も用意して、こんなふうに施設を慰問することを、もう数えきれないほど繰りかえしてきた。ふだんは入居者たちが食事をしたり、寛いだりする場所を片づけ、PAをセットし、『北国の春』とかみんなが知ってそうな曲の歌詞を、模造紙に大きく書いてみんなで歌えるようにして、用意がすむと職員さんたちが入居者を集めてくる。なかには歩けるひと、自力で車椅子で来れるひともいるし、ベッドに寝たままで運ばれてくるひともいる。大門さんたちは、そんな老人たちのひとりずつに語りかけながら、ヒット曲や自分の曲を歌い、ひとりずつと握手を交わしていく。なかには大門さんの声が聞こえているのかすらわからないような、重度の入居者さんもいるのだが、それでも彼はそっと手を取り、耳元で歌ってから、次のひとに移っていく。

ロックやヒップホップだって、インディーズで活動するのは大変だけれど、演歌のインディーズというのは、それどころじゃない困難な道だ。だってライブハウスもなければ、インストア・ライブをやらせてくれるショップだってないのだし、流通システムだって整っていないから、全部手売りでさばかなくてはならない。そうして「大ヒット」とか「テレビ出演」とか「メジャー」という言葉とは、ほとんど確実に一生無縁であることは、たぶん歌っている本人もわかってる。わかってるけど、歌ってる。歌わずにはいられないからだし、歌いつづけることしかできないから。

システムのせいにも、時代のせいにもしない。ただ自分のできることはこれしかないから、酔っぱらいだらけのスナックでも、健康ランドでも、老人ホームでも、道ばたでも歌いつづける。そして「名も知らぬ演歌歌手」として生涯を終える。そんな彼らの、ロックを超えたロック・スピリットに、僕はなによりも「ブレない人生」の貴さを教わった。

都築響一(選)《ニッポンの洋服》テキスト完全版