極道ジャージ

アメリカの「ギャングスタ」と日本の「ヤンキー」のちがい、それを突き詰めると「オチャメ」という感覚のあるなしに行き着く。

改造単車のボディにキティちゃんやベティブーブを描いてみたり、ボンタンの足元を女物のちびサンダルで固めてみたり・・・・・・「硬派ひとすじ」のオトコ道と、甘ったるいガーリーなアイテムが共存して、それをだれも矛盾と感じないスタイル。
「オトナになりきれない子供」でいたいヤンキーと、「一刻も早くオトナになりたい子供」のギャングスタのテイストがもっとも端的にあらわれるのが、英語で言う「トラックスーツ」、日本語で言う「ジャージ上下」、ヤン服(ヤンキー・ファッション)業界用語で言うセットアップだ。

日本の片隅で「和様ギャングスタ」とも呼ぶべき、まったくオリジナルな漢(オトコ)のファッション・デザインが生まれたのは、ブロンクスやイーストLAでギャングスタ・ファッションが生まれたのと同じころ。ギャングスタと同じような、ジャケットもパンツも裾を絞らないルーズなシルエット。黒一色、白一色など、基本的にシンプルな色づかい。なのに、背中や胸にはものすごく場違いな、大判のブルドックとかのイラスト! 「ヤクザ・ジャージ」とか「極道ジャージ」と呼びならわされる、トレーニングスーツなのに「トレーニング」という語感からもっとも遠くに位置する、それは異形のスポーツ・ファッションだ。

『GALFY』『LOUIS VERSUS』などと欧米っぽいブランド・ネームを持ちながら、実はすべて純日本メーカー。それも東京ですらなく岐阜が中心という、ローカル・ヒーローによる、ローカル・ヒーローのためのデザイン——そこに「極ジャー」の真価がある。

アメリカの改造ハーレーを真似るばかりの、日本の田舎のロウライダーのように、アメリカのラッパーを真似るばかりの田舎のヒップホップ少年たちは、自分のいちばん身近にある、いちばんオリジナルなスタイルにまだ気がついていない。田舎のアンダーグラウンドな人たちは、とっくの昔に気がついているというのに。

ギャングスタのオーバーサイズ・ジャージが、もともと武器や盗品を隠し持ったり、サイズの合わない刑務所の制服を想起させることを通じて「ワルのイメージ」を構築するという、明確な目的意識にもとづくスタイルだったように、アメリカの黒人にとってああいう服装をすることには、まず周囲に自分の立ち位置を知らせるメッセージが含まれていた。

でもギャングスタのオーバーサイズ・ジャージは、大半の日本人にとっては「ただのブカブカのジャージ」にすぎない。いくらウエストを下げてジーンズを履いても、それは「サイズの合わない刑務所の制服を思わせるスタイル」ではなく、単にだらしない着こなしにすぎない。すべてのひとが知識を共有しない場所では、服装はメッセージを伝えるメディアになりえないのだ。

アディダスやナイキのXXXLジャージではなく、背中にでっかい犬のマークを背負ったジャージを着てみれば、すぐわかる。商店街を歩き、店に入ってみればいい。周囲の人々の怯えたような、それでいて突き刺さるような視線。これが「メッセージとしてのファッション」だ。20年以上前、初めてギャングスタ・ファッションを生み出したブロンクスやイーストLAのキッズたちが受けた視線も、それとまったく同じものだった。そして反体制、反権威としてのヒップホップ・カルチャーとは、そういうものだったはずだ。
日本が生んだ、ほかのどこにもない日本独自のヒップホップ・ファッション、極ジャージという和様ギャングスタ・スタイルは、手を伸ばせばすぐそこにある。

上2点:ガルフィー
ギャングスタとトラックスーツは長く強い絆で結ばれてきたが、ヤン服のセットアップにおいては、いまでこそ「悪羅悪羅(オラオラ)系」と呼ばれる黒を基調とした比較的シンプルなデザインが増えているものの、洋品店の売れすじと言えば長らく、ベースとなるジャージ上下にオーバーサイズの刺繍やプリントを施して、硬派ななかにもちょっぴりかわいらしさやデコラティブな感覚を盛り込んだデザインだった。そしてその代表格が「犬系」2大ブランドとして知られるガルフィー(GALFY)とルイバーサス(LOUIS VERSUS)。なかでもガルフィーは「ああ、あの犬のジャージ!」と、だれもがひと目で認識する、抜群の知名度でヤン服セットアップ界の頂点に君臨してきたのだった。

ガルフィーを製造販売するクラッチは、1995年に名古屋で創業されたメーカー。そしてセットアップ・カルチャーの取材を始めた2011年に、ガルフィーを日本でいちばん売っていたのは、日本橋横山町にある紳士洋品卸店「ATファーム」だった。ガルフィーには「アングリー・ガルフィー」「キャンディ・ガルフィー」など、いくつかのラインが存在するが、クラッチが製造するそれらガルフィー製品の、かなりの割合が当時ATファームによって発注され、そこから全国のショップに流されていた。

昭和15年という年齢がとても信じられないエネルギーにあふれた「日本一ガルフィーを売る男」・齋藤隆政さんは、こんなお話をしてくれた――

うちはもともと父の代が洋品店をやっていまして。足袋や衣料品を売ってたのが、問屋になったんですね。そのころはもう仕事が好きで好きでたまらなかったですから、一日16時間は働いてましたね。一年で、休むのなんて3日ぐらい。それを8年間ぐらいは、ぶっ続けにやってましたねえ。

売り上げはそれでどんどん上がりましたけど、そのころからわたしも兄も、「繊維卸業は大きくなりすぎたら、かならず潰れる。自分たちは1000人のお客さんのうち、990人じゃなくて、10人を満足させられる商売をしよう」と決めてたんです。そういうひとたちは、なにがあってもついてきてくれますから。

昔はね、だれがファッションリーダーかと言えば、それはヤクザだったんですよ。ヤクザはみんなきちんとした格好をしていたし、かっこいい女たちはみんな不良が好きだったでしょ。自分はヤクザでも博打打ちでもなかったですが、アウトロー的なものが大好きなんです。兄もわたしも、浅草が根城だったんで、ヤクザは身近な存在でしたし。

それでずっと兄といっしょにがんばってきたんですが、55歳になったとき、もういいだろうと思って独立したんです。最初に妻とふたりで、キャッシュいっぱい持ってイタリアに行って、ミラノとかの問屋街を回って買い付けしてきたんですけど、それが大失敗。そのあと、いろいろ苦労したあとガルフィーに出会いまして。

そのときはすでにルイバーサスもあったんですが、ガルフィーを選んだのは、ガルフィーのが犬の顔がかわいかったから(笑)。それで、扱いはじめてから1年もしないうちに、爆発的にブレイクしたんです。もう、考えられないほど忙しくて、一日の平均睡眠時間が2時間ぐらいでしたか。年商も6000万から一気に2億まで跳ね上がって。毎日、とんでもない札束を数えてたもんですよ。

ガルフィーの人気がピークだったのは、2004〜5年あたりですかね。当時はガルフィーを着てると因縁つけられる、なんて伝説があったぐらいで。店のショーウインドウを割って盗む連中もいましたし。うちは映画『下妻物語』の衣装協力もしたので、それも反響がすごかったですよ。

僕らがふつうに考える問屋とは、メーカーが製造した商品を小売店に流す中継基地という役割だが、齋藤さんが説明してくれた問屋の役割は、ちょっとちがっていた――小売店の要望やお客さんの好みを聞き取り、自分で「こういうのを、こういう感じで」とメーカーにアイデアを出す。いわばメーカーが製造元で、問屋が発注元。

だから「自分の意見を活かしてくれないメーカーとは取引しません!」と齋藤さんは断言するし、それだけの結果(売り上げ)を出すから、メーカーもちゃんと耳を傾ける。フランスやイタリアで作られた商品のなかから、ただ日本で売れそうなのを選んで持ってくる「バイイング」なんかより、こちらのほうがどれだけリスキーで、スリリングで、エキサイティングなゲームであることか。

お会いしたとき70歳、でもバリバリ現役。乗ってるクルマはリンカーン・ナビゲーター。七分袖の夏物セットアップを、長袖ワイシャツの上からさっと羽織ろうとしたので、「すいません、シャツがちょっと・・」と言ったら、「ガルフィーはこういうふうに着るひと、けっこう多いんですよ、腕の彫り物が見えないようにね」と教えてくれた。

中段左:薄紫におなじみのドッグ・マークが乗った、ルイバーサスの夏物セットアップ(上下セット)。モデルは劇団花車・姫勘九郎さん。
中段中:PARTO SPORT(パルトスポーツ)
いま日本各地の洋品店に並ぶメンズ・カジュアル・ファッションで、もっとも"ワル"を感じさせるデザインであるパルトスポーツ。ハイファッションの世界ではまったく知られていないものの、その独自の、まったくブレのないデザイン・ポリシーに、全国規模で熱烈なファンを抱える、隠れた人気ブランドである。
パルトスポーツを世に送り出す東京BONTON(ボントン)は、もともと大正時代に下着、靴下の製造卸業として大阪で創業され、現在までパルトスポーツをはじめ、アダルトシニア向けのブランドをいくつも展開している。

中段左:BIRTHJAPAN(バースジャパン)
コシヒカリで知られる新潟県南魚沼郡。シャッター商店街の一角にデカデカと掲げられた「悪ガキ製作所」の文字。ガラス戸には、どこかで見たような金色の菱形を組み合わせたマーク・・・・・・『BIRTH JAPAN』はブランド系でもなければオラオラ系でもない、「真の不良」に着てもらいたいファッションだけを追求する、あまりにユニークなメンズショップである。

『BIRTH JAPAN』の存在を知ったのは、店舗ではなくインターネット販売サイトが最初だった――

モデル、芸能人御用達の店 アウトローショップ BIRTHJAPANへようこそ! "クールに、ワルく、男らしく、そして誰よりも粋に・・" 誰もが持つ自分だけの魅力。貴方だけのオトコの魅力を、より一層輝かせるお手伝いが当社に出来るのなら嬉しい限りであります。全国の粋なアウトローたちのファッションシーンを全力でサポート致します。さぁ野郎共、今日も粋にキメようぜ!
(ウェブ通販サイトより)

『BIRTH JAPAN』を運営する若きオーナー社長・石川智之さんは、この地に生まれ育ち、もともとは住宅リフォームの営業職として働いていたが、「ちょっと悪さをして、ここにいられなくなっちゃいまして・・・・・・」関東に移住。そこで2005年ぐらいから、ネットでの商売を始める。

最初はイオンやジャスコとかで4足1万円ぐらいの靴を買って、ヤフオクなんかでちょっと高い値段をつけて出したら、売れちゃったんですね。それで、これはいけると思って2006~07年ぐらいから自分のホームページを立ち上げたんです。

ウェブデザインの知識など、もちろんゼロ。「最初のうちは商品写真も携帯で撮影してました」と笑うが、いまではガルフィーなどの有名ブランドを仕入れるほかに、『Blood Money Tokyo』(すごいネーミング!)という自分のブランドもスタート。洋服のほかに靴やバッグなど、幅広い品揃えで独自のラインを展開中である。

故郷の魚沼に自分の店を開いたのは2009年のこと。やっぱり通販ではなくて、商品を手にとって選びたいというお客さんもいるし、なにより「家が倉庫状態になっちゃったんで」、出店を決意。シャッター商店街と化したこの場所なら、家賃もかなり安くすむので、仕事場と倉庫と考えても、充分なのだという。

「自分が10代のころから、このへんは閑散としてましたねえ」という商店街は、見事なまでにシャッターが降りている店ばかりだが、それでも「うちがこんなだから、風当たり強いんです」。下品だとか景観を損ねるとか、地元のひとからはずいぶん文句を言われるらしい。シャッター商店街とスナックとフィリピンパブと田んぼしかないところで「景観」とか言われても・・・・・・と思うが、石川社長は「そういう批判を、自分たちは褒め言葉だと思ってますから」と意に介さず。「自分がヤンチャだった時代に、こんな店があったらと思っていた、そういう店にしたかったんです」と語る。

地元の仲間や店のスタッフたちに着用していただいたおすすめは、見覚えのあるひともいるはず・・・・・・『PPAP』でピコ太郎が着ていた、あのセットアップだ。だれも予想しないままに世界の頂点を極めてしまった売れないローカル芸人と、シャッター商店街の片隅で現在形の和式ギャングスタ・スタイルを追求し続ける極小ブランドとの、それは幸福な、いやシュールなマリアージュだった。

BIRTH JAPAN

下段左端上:
東京における極道ファッションの聖地は表参道でも銀座でもなく浅草。中でも奥山おまいりみち商店街に店を構える「メンズショップいしやま」は、長きにわたってカラフルなお客さまたちに極ジャーを提供してきた。店主の石山さんによれば——

もともとうちの親父が戦後すぐに始めた洋服屋を引き継いだんです。紳士服を専門に扱ってたの。当時は背広は紳士服店、洋品は洋品店という時代だったから、ちゃんと店がわかれてた。この通りには兄弟も店を出していて、全部で4軒になるんだけど、それぞれ経営も別だし、品揃えもちがうんですよ。

浅草が流行ってた当時はね、この通りもいまの3分の1くらいの幅しかなかったの。その狭い道に、露店の煮込み屋がずらっと軒を連ねてて。このへんは商人が多いでしょ。ボーナスなんて出ないかわりに、休みのときに洋服を買って、(雇い人を)故郷に帰すんだね。背広を買ってだとか、コートを買ってだとか。こいつに作ってやってくれ、みたいな感じでオヤジが若いもんを何人も連れてきたりね。田舎へ帰す時は、いい格好をさせるっていう時代だったんだよ。そのころは「ズボンの裾上げ15分 背広の丈詰め30分」って売り文句で、かなり好評だったんですよ。

おもての看板にあるステージ衣裳というのも、そのころから。もともと背広と上着と、コートをやっていたでしょ。そのころ上着用の生地で、花柄の別珍とか、千鳥でも大きい千鳥とか、そういうのを作るのがすっごくうまい会社があったの。そこから仕入れてやっていたのが、舞台衣裳。ほかにそういう舞台衣裳を作ってる店がなかったからね。カラオケとかがまだない時代だから、芸人さんは派手なもの、派手なものって探して、着てたんだ。

紳士服店から洋品店にかえたのは、背広の需要がだんだん少なくなってきて。サラリーマンが買いに来なくなったし。だからシャツやジャージみたいなのを売る洋品店にしたんですけど、やってけなくって閉めちゃった店も多いですよ。昔はセーターでも高いのから売れたんだけど、いまはもう高いのなんて、作ってもないから。やっぱりユニクロができてから、単価下げないと売れない。もっともうちの昔からのお客さんは、ユニクロには行かないわな(笑)。うちは浅草まで来れないお客さんにだって、ちゃんと全部直して、日本中に送ってるし。年取って動けなくなっても、「オレが生きてるかぎり、ここで買うから」って言ってくれるお客さんが、けっこういるんですよ。

ジャージなんだけど、まあ30年以上前からあるんだよ、ああいうのは。いまはけっこうおとなしくなってきてるの。前はもっと派手だったよ。景気のいい、バブルのころ。ここ数年は、後ろ(背中)に絵柄が入ってるのはイヤというお客さんが増えて、抑えめの商品を入れるようにしてるんです。

こういうの作ってるのはね、東京もあるけど、いまは地方が多いね。岐阜とか大阪とか。そういうとこのメーカーが、口コミでうちに来るのね。メーカーによっては、ひとつの会社がいろんな名前で商品作ってるところもあるし。複雑なんだけど、若者ファッションとちがって、作っているのはほんと、普通のおじさんですよ。それに地方のメーカー、特に岐阜はね、お店からの要望をすぐ聞いてくれて、「こういうの」っていうと、すぐ作って持ってくるのね。

あと、うちはもともと洋服屋でしょ。だから丈詰めとかお手のもんだから、ジャージだってなんだって、お客さんが待ってるうちに丈を詰めてあげる。まあ、ふつうのスポーツ・ファッション店とかじゃ、やってもらえないでしょう。

だから丈だけじゃなくて、うちはなんでもやるの。もともとジャージに半袖や半ズボン、七分丈なんてなかったから、ふつうの長袖長ズボンの商品を買ってきては、うちでカットして半ズボンや七分丈に直してたの。それが売れるから、そのうちメーカーでも作るようになったんだよ。いまでも夏になると「これ半ズボンにしてくれ」って、うちで買った長ズボンを持ってくるお客さんもいるよ。もちろん、やってあげる。だって暑いんだから、切ってあげればいいんだよ!

渋谷や原宿のファッショナブルなお店で、アディダスのジャージ上下とかを買うとする。かっこいいけど、しょせんアメリカの黒人とは足の長さがちがうから、どうしてもぶかぶかのお引きずりになってしまう。そういう不便が、石山さんのような叩き上げの職人が生きてきた世界では、通用しない。長ければ丈を詰める。暑ければ袖を切る。ハイ・ファッションの業界人が聞いたら気絶してしまいそうな「お直し」が、浅草では当然とされてきた。

たとえばコムデギャルソンの長袖シャツを買って、「暑くなったんで半袖にしてください」なんて、ショップに持っていけるだろうか。考えてみれば、僕らがいままで大枚をはたいてきたファッション・ワールドとは「デザイナー側の論理」であって、「着る側の論理」じゃなかった。デザイナーの意図に、いかに忠実にこたえるか、それが「できる着こなし術」だった。

そういう「卑屈な着こなし術」にうんざりしたとき、新しいファッションの世界が立ち現れる。そして、そういう新世界を提供できるのが、表参道でも原宿でもなく、浅草なのだった。

メンズ・ショップいしやま

下段左端下:RODEO BROS(ロデオブロス)
和柄アロハシャツで、おそらく日本一のコアな品揃えを誇る亀有ロデオブロスのアクセサリー・コレクション
RODEO BROS

下段中:ダボシャツ
日本の男ならだれにでも似合って、外人モデルにはぜったい似合わない服が犬系セットアップ(ジャージ上下)とダボシャツだ。
お祭りの香具師、寅さん、トラック野郎、ダボシャツの天・・・・・・ひとそれぞれ、「ダボシャツ」という言葉から喚起するイメージはさまざまだろう。それは「シャツ」という西洋伝来の肌着であったものが、日本の風土にあわせて独自の変化というか進化を遂げた、きわめてローカルで、オリジナルな産物である。

そもそも、いわゆるダボシャツには「ダボ」と「鯉口」の2種類が存在することをご存知だろうか。寅さんや文太アニキが着ていたような無地で、ゆったりとしたボックス型、袖口は四角く広く開いているタイプ、あれが「ダボシャツ」である。ダボっとしてるからダボシャツ、というわけだ。いっぽう、お祭りで着用されるような派手めの生地で、からだにぴったりフィットするように少しシェイプ気味に仕立てられ、アームホールもダボに較べてぴったりめ、そして袖が「鯉の口のように」すぼまっているのが「鯉口シャツ」と呼ばれるタイプ。ボタンの数は5つと同じ、前開きのシャツでありながら、その用途も着こなしも、本来はまったく別物。しかし現在ではその境界もずいぶん曖昧になってきている。

ダボシャツは寅壱のような作業着を売る店で買うことができるが、鯉口シャツは祭り用品店のほうが、商品のバリエーションに富んでいる。そして作業着界における寅壱のように、祭り衣装界には「江戸一」というビッグ・ブランドがあり、全国の祭り用品店でも、「江戸一をたくさん揃えてます」というのをウリにしている店が少なくない。

江戸一はプリント生地を使った大量生産品で、値段も手頃だが、祭り洋品店のなかには江戸一のほかに、オリジナル本染め、手縫いによる、その店独自の鯉口シャツを製造販売しているところがいくつもある。「やっぱりお祭り好きのひとは、他人と同じものは着たくない、というこだわりがありますからね」と話してくれたのは、三社祭で有名な浅草の浅草寺脇で『絆纒屋』という祭り洋品店を営む小島章弘さん。もともと実家が浅草で老舗の奉り用品店を経営していて、小島さんは2000年に独立、自分の店を持った。

「鯉口シャツがこんなに派手になってきたのは、この15~20年ほどのことじゃないでしょうか」と小島さんは言う。かつて祭事の折りや、大工や鳶の棟梁、あるいは落語家や相撲取りなどの祝い事には、名入りの浴衣地や手ぬぐいを作って配り、それをダボシャツ、鯉口シャツに仕立てる風習があった。実際、絆纒屋にも自分で生地を持ち込んで、ダボや鯉口シャツに仕立ててもらう客がいるという。「迷彩柄とか、キティちゃんとか、微妙な生地を持ち込んでくるひとがいるんですよ」と、小島さんもちょっと苦笑い。御神輿担いでる粋な若衆が、意外にもファンシーな柄の鯉口シャツを羽織って、でも袖口から刺青がちらり覗いてたりしたら、それはそれでなかなかオシャレかもしれない?

今回モデルを務めてくれた浅草キッドの玉袋筋太郎さんも、実はひそかなダボシャツ愛好家。「1年ぐらい前に、こいつからもらったのがきっかけなんだよ」という芸人の桐畑トールさんと、親友のクラブシンガー「リトル」さんといっしょに自前のお気に入り、そして編集部で用意した絆纒屋の商品を着てもらった。

「前はずっと和柄のシャツが好きで着てたんだけど、流行りだしてみんな着るようになっちゃったでしょ、それでちょっとイヤになって、やめてたんだよね」と玉袋さん。「パジャマ感覚で、作業着屋で買った安いダボシャツを着てたんです」というトールさんに感化されたのか、「家ではダボシャツにサウナパンツ、これが夏の定番。天女の羽衣、裸の王様気分ですよ!」と力説する。

「着てみると、すごく楽なのがわかるし、エリがないのが涼しいんだよね。昔は喫茶店で"アロハ、ダボ、雪駄お断り"なんて貼り紙があったけど、これこそ日本人の知恵が生んだ、俺たちのクールビズでしょ!」と玉袋さん。たしかに!

絆纒屋

下段右端:アクリルと麻混紡の七分袖サマーセーター、ブランドはレシュロン・スポーツ。モデルは『裏窓』の編集をされ、『「奇譚クラブ」の絵師たち』『「奇譚クラブ」とその周辺』など100冊以上の著書を遺した作家であり、伝説の縄師でもあった飯田豊一/濡木痴夢男先生。浅草・木馬亭にて。

都築響一(選)《ニッポンの洋服》テキスト完全版