レディース

暴走族が路上の絶滅危惧種とするならば、レディースは絶滅種といえる。

1970年代に登場した暴走族とともに、ヤンキー雑誌も数種発売されていたが、ヤンキー少女をフィーチャーした初の雑誌『ティーンズロード』(ミリオン出版)が創刊されたのは1989年。いきなり編集部には仕事に支障を来すほどの電話、毎日段ボール箱ぎっしりの手紙、ハガキが殺到する大反響を呼び起こした。編集部には専用の留守電が設置され、24時間電話を受け付けていたが、ほぼ一日で数時間分のテープが埋まってしまうほど、全国から熱い読者の肉声が吹き込まれていた。その多くはヤンキー関連よりも、彼氏、親、友達、シンナーの悩みなどのシリアスな内容。実際に購読していた読者が圧倒的に普通の子だったことを、よく示していた。

1990年の第5号では埼玉県東松山市のレディース「紫優嬢」が表紙を飾った。総長U子の紫のニッカにさらし姿とアイドル並みの容姿はきわだっていたが、集合したメンバーの中で取材チームに強い印象を与えたもうひとりが「すえこ」。紫優嬢の最年少メンバー、当時まだ13歳の少女だった。すえこはその3年後、15歳で紫優嬢4代目総長に就任、『ティーンズロード』史上でもトップクラスの伝説的存在として、全国に知られるようになる。

すえこの壮絶な青春は2008年に自伝『紫の青春—恋と喧嘩と特攻服』にまとめられ、2011年には『ハードライフ』として映画化もされている。『紫の青春』刊行時にリリースされた略歴はこんなふうに書かれていた——

1975年、埼玉県に生まれる。中学1年生、ヤンキーになる。タバコや深夜徘徊、無免許暴走行為で補導される。中学2年生、レディース『紫優嬢』に入る。中学3年生、喧嘩や集会などレディース活動にあけくれる。15才、紫優嬢4代目総長になる。テレビ、雑誌などメディアでカリスマヤンキーとして有名になる。16才、レディース連合『北関東女魂連盟』の会長になる。傷害事件で逮捕。少年院に入る。17才、退院後、紫優嬢を破門になり、地元を追われる。18才、スポーツショップでアルバイトをする。覚せい剤で再逮捕。19才、結婚。出産。23才、離婚。運送会社で働きながら子育てをする。27才、お互い連れ子同士の再婚。28才、出産。30才、出産。4人の子供の母親として子育てに奮闘する。

中村すえこさんは2009年に少年院出院者の自助組織「セカンドチャンス!」を立ち上げ、現在まで作家、ソーシャルワーカー、食育アドバイザーとしてさまざまな分野で活動を続けている。

都築響一(選)《ニッポンの洋服》テキスト完全版