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展覧会投稿 No. 8  岩城見一「《没後10年 麻田 浩展:電子メール討論会》のための幾つかの視点(3)、(4)」

投稿 No. 8  岩城見一「《没後10年 麻田 浩展:電子メール討論会》のための幾つかの視点(3)、(4)」


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京都国立近代美術館 館長・岩城見一

《没後10年 麻田 浩展:電子メール討論会》のための視点(3)

  前回「第1の視点」として麻田の絵画をまず見ること、「第2の視点」として、麻田浩自身が自らの個展に寄せた言葉を紹介しました。そのときに記しましたように、「これまでの麻田論をみておくこと」が〈第3の視点〉になります。絵画は単に直接見られるだけでなく、絵画を巡る言葉を介して見られ、理解されるからです。ところで、麻田論はあまり多くありません。この画家の個展についての短文の批評はいくつか新聞記事に見出せますが、それについては、今回の展覧会図録の「年譜」に掲載新聞名が挙げられています。このような短文の批評に比べて、比較的まとまった批評となると非常に少なく、この画家がこれまであまり詳しくは語られてこなかったことがわかります。その中で最も早く、また、比較的まとまった麻田論として残されているのは、小倉忠夫の二つの批評です。そのほかには、今回の展覧会に解説を寄せられ、また講演会でも講演をしていただいた、粟津則雄氏の「手紙」と麻田論でしょう。粟津氏の「手紙」は、『美術の窓』(1993年、7・8月合併号)に掲載された「麻田 浩への手紙」という麻田宛の書簡のかたちをとった評論であり、もう一つは粟津氏の著書、『日本洋画22人の闘い』(新潮選書 1988年)に収められた麻田論(「普遍的テーマを嗅ぎとった麻田浩——徹底的な内面凝視」)です。今回の図録に納められた粟津氏の麻田論は、以上二つの麻田論に基づいたものと見なすことができますので、ここでは、小倉による麻田論を紹介しながら、〈批評言説の中の麻田絵画〉について考えてみることにします。
  小倉は1970(昭和45)年に京都国立近代美術館事業課長(現在の学芸課長)として東京近代美術館から転勤しますが、その直後にすでに、渡仏以前の麻田に会っており、麻田の絵画制作について、直接会って話を聞く機会をもっていたこと、また先の粟津氏と同様、麻田がパリで制作を続けた時期にも、小倉も当地を訪れ、麻田のアトリエを訪問したり、ともにゴッホのアトリエと墓を訪れたりと、親交を重ねていたこと、このような事実が、これから見てゆく評論から確認できます。小倉は1970年代前半から、麻田自身との交わりを通して、その折々に作品制作や麻田の芸術への思い、さらにまたパリでの生活等々について聞いていたと思われます。1976年に今回の展覧会にも展示されている《赤い土の上の出来事’76》が京都国立近代美術館に購入されますが、このコレクションに貢献したのは小倉でしょう。
  以上のような作家との長年の交わりを経て、小倉の麻田論が公になります。小倉のこの最初の批評は、1986年、ギャラリー岡崎で開催された麻田の個展のための図録(『麻田浩作品集 1973–1986』ギャラリー岡崎 1986年)に掲載されています。ギャラリーが執筆を小倉に依頼したものと思えます。この評論には「麻田 浩の人と芸術」というタイトルがつけられています。このギャラリー岡崎での個展では、大作(500号)の《地・洪水のあと》が一点だけ展示されました。このため図録はそれを補うようなかたちで、1973年から1985年にかけてのこの作品を含む油彩画30点と、ドローイング5点の写真図版が収められています。しかもこの《地・洪水のあと》は、翌年京都国立近代美術館に購入され、寄贈の安井賞佳作賞受賞作、《原風景(重い旅)》(1974年)とともに館のコレクションに加わります。ここでも小倉はコレクションのために重要な役割を演じたわけです。ちなみに小倉は1970年から1980年まで京都国立近代美術館事業課長、1981年から1986年まで国立国際美術館・館長、1986年から1992年まで京都国立近代美術館・館長を務めています。この京都での館長就任の時に麻田の個展が開かれ、翌年に館への作品の購入と寄贈があったのです。
  ところで小倉の麻田論の特徴ですが、まず評論のタイトル(「麻田 浩の人と芸術」)から窺い知れるのは、小倉が麻田という画家の人格(人生)と作品との関係を重視しながら論を展開しているということです。このような「人と芸術」を結びつける理解は、特に近代以後、美術を語るときの、いわば「伝統的な語りの枠組み」になって流通してきました。小倉もなおそのような枠組みから麻田を理解しようとしていたようです。今日まで「・・・・(作家名) 人と芸術」というタイトルの評論がいかに多いことか。一度過去の評論や図録の文章や講演の題目などを調べればその多さが分かります。今日マスコミで報道される芸術番組も、有名人による芸術論も、ほとんどこのような理解の枠組みに従っています。〈作品から作者の人生、生活を読み取り、そして語るという言説、理解の枠組み〉です。
  これは、非常に広く理解されている、また理解しやすい、要するに私たちの心の奥底まで深く根づいた〈芸術を巡る言説のあり方〉ですが、同時にそれは〈一つの〉見方、〈一つの〉理解の仕方であり、他の見方や理解の仕方もありうるということ、このことも私たちは心得ておく必要があるでしょう。
  20世紀後半になって、上のような理解の仕方の問題点が明らかになりました。それは「作者の死」(ロラン・バルト)という、伝統的な見方にとってはショッキングな言葉で表現されました。「作者の死」ということで言われているのは、「作者はいない」とか、「作者などどうでもいい」ということではなく、そこで言われているのは、従来の「作者=主体」を原理にした芸術の理解や批評は無効だということです。「作者=主体」を芸術理解の原理や本質にするなら、〈作者のことがわかれば作品はわかる〉ということになります。つまり作者=「作品の原因」を、作品という「結果」と必然的に結びつける、「因果関係」がそこには前提されています。
  しかしまったく逆のことも考えられます。〈「作品」の方が「作者」を生み出す〉、〈作品によって作者は作られる〉という考え方です。麻田の場合で言えば、麻田はあのような絵画作品を生み出すことではじめて〈麻田〉になったのだ、ということです。麻田のような人生を歩んだ人が必然的にあのような作品を生むわけではなく、あのような作品が生まれたから、初めて麻田は麻田として世に出、人々に語られるようになり、また今も語られようとしている。制作プロセス自体を考えてもこれは言えるでしょう。麻田は最初から、不動の固定した〈主体〉として、自分自身がしっかりと意図的意識的に決定した諸々のイメージを、最初の計画通りに画面に入れていったのでしょうか。作品は麻田という主体に完全にコントロールされた「結果」でしょうか。おそらくまったく逆でしょう。描くにつれて、描かれたイメージが次のイメージを麻田に思い起こさせ、それに促されるように、言い換えれば、出現した一つのイメージに強制されるかたちで、麻田は次々にイメージを描き込んでいった、描きこまざるをえなかった。これが制作の真相ではないでしょうか。特に麻田の場合にこれは強調されねばならないでしょう。だから麻田が作品のプロセスを、ではなく、逆に作品生成のプロセスが麻田をコントロールしていった。そしてその結果作品は生まれた。そしてそのプロセスの中で、その都度徐々に、しかも過去に習得した様々なイメージを手掛かりにしながら、またそれに導かれ、引き寄せられるようにして、麻田は自分の描きたいと思っていたものを見出した。また同時にそれとともに自分が何であり、何を描きたいかを、つまり自分という主体はどのような主体なのかを発見していった。このような見方もありえます。恐らく反論が多く出てくるでしょうが、私はこのような考え方を取る立場に立っていますし、この方が絵画を具体的に語れるのではと思ってもいます。要するに、「主体=私」は経験のなかで経験につれて次第に後から姿を取ってくるのであり、最初から不動のものとして確定できるものではない、という考え方です。このような考え方もありうるということを記した上で、小倉の評論に戻ることにします。というのも〈作品が、またその都度の経験が作者を作り出してゆく〉という視点から小倉の評論を読み直す方が、小倉の評論も生きてくると思えるからです。そして小倉の評論自体も、自由に完全に意志的に生み出されたのではなく、多くの言葉に動かされ、導かれることで生まれたということも明らかになるでしょう。そこには無意識が入り込んで〈批評を語らせている〉わけです。この点も見ておきたいと思います。
  すでに触れましたが、この評論を始めるに当たり、小倉は麻田との交わりについて書いています。その中で、パリ訪問のときに、麻田の案内でゴッホ最期の地オーヴェール・シュル・オワーズのゴッホのアトリエと墓を訪れ、また麻田のアトリエも訪問したことが記され、次いで、麻田がゴッホと比較されます。小倉によれば、ゴッホと麻田とは「夜の原理に支配されている」点で共通します。この場合、昼は「日常性」や「常識と論理」を、夜は「非日常性」、「常識と論理を超えた霊性」、「夢と深層心理」を意味します。小倉によれば、重要なのは昼夜の区別でなく「人間精神のタイプとあり方」だということになりますが、このような、昼夜の区別と人間の性格や心理状態(心性)の区別との類縁性はお馴染みのものでしょう。その枠組みから二人の共通性と語られています。そしてこの昼夜の区別を前提にしたうえで、次にゴッホと麻田との違いが語られます。それによれば、「ゴッホは昼間にも夜の原理で燃えた」のに対して、麻田は「炎とは無縁の石・水・木の画家」であり、ゴッホの苦悩は「キリストのような受難への道」だが、「麻田の苦業は仏陀のような悟道に通じる性質のものではないであろうか」ということになります。我が国でも、いつの頃からか「炎の人ゴッホ」という言説が、あたかも常識であるかのように流通してきました。これに従うかたちで二人の心性の違いが語られているわけです。ここでは東西の文化や宗教性の違いに関する一般的理解も小倉の言葉に枠組みを与えています。それは実は固定したものではなく、小倉自身が自分の身についた枠組みに照らし合わせながら、二人の比較をしていた、ということです。評論家小倉という主体自身も特定の理解の枠組みに動かされ、導かれて評論を書いている(書かされている)わけです。
  このような、小倉のほとんど無意識の次元で働く理解の枠組みは、次のような感想にもつながっています。
  麻田の好んだヒエロニムス・ボッスの「奇怪な幻想世界」には、「キリスト教と異教との対照」があり、「肉体と精神との対立がドラマ化されている」。ところが麻田の絵画は「ものたちの不気味なドラマの中にも、むしろ東洋的で仏教的な一元化された世界が感得される」、というわけです。シュルレアリストとしての麻田の特徴もここから導き出されます。つまり、「ボッスの系譜としてのシュルレアリズム」の中で、ダリでは「パラノイアの世界」、「肉体と内臓の異形や抑圧された性」が「主役」だが、麻田では「性や肉体性と無縁の大地・水・石ほかが主役」だ、という判断がこれです。こうして、「人間本位の西洋文化」と「自然本位の東洋文化」という「原景の差」が指摘されます。
  このように、小倉の評論は、「昼・夜」、「東洋・西洋」の違いという、かなり単純化された枠組みに動かされながら生み出されたものだということがわかります。しかしだからといって、この見解がまったく荒唐無稽で恣意的なものだとは言えません。というのも、小倉は比較に際して、作品に現われた特徴の違いに眼をとめて語っているからです。小倉は一定の枠組みから麻田絵画の特徴を語ろうとし、そのことを確かめるために作品を参照している、また作品を参照しながら、語るにふさわしい枠組みを見出している、ということになるでしょう。
  次に指摘されるのは、麻田の絵画における「ミクロとマクロの視覚の共存感」です。細かいものへのこだわり、これが「ミクロ」ということです。「マクロ」というのは、そのような「ミクロ」の諸物にこだわりながら、全体としての作品は、「原風景」というような作品のタイトルにもあるように、きわめて普遍的な問題が象徴されていると解されるからです。ミクロなものとして挙げられているのは「水滴」、「穴から出る煙」、「棒」、「ガラスの筒や器や球」、「枯木」、「石や岩」、「布」、「紙」、「紐やロープ」、「鳥の羽根や卵」、「蝶」、「動物の骨らしきもの」、「植物の断片」、「朽ちたり壊れたりした木材の構造物ないし建造物」、空の「雲」、「雨」、「その他えたいの知れないオブジェ」です。それらが「抑えられた彩調」の中で「演技」していると小倉は語っています。これは作品記述です。このとき、先に紹介しました参考資料1にある、1976年に麻田自身が個展に寄せた言葉の一部が引用されています。

「三十年も以前になるはずの幼年時代の事を,近頃はっきりとした映像と土の香りをともなって思い出すことがある.一人で庭の端にひざまずいて,木の葉をみたり、小石を集めたり、下草をちぎったり、秋に木々がつける小さい実に触ってみたり、あきずにそうした孤独な遊びにふけったものだ.そこには充実した透明な時があった.その時が現在に至るまで細くたえず裡を流れて来ているように感じる.それはまず子供が手にする自然と世界であり、小さい部分への偏愛だった」

  この引用文の子供の頃からの「小さい部分への偏愛」が注目されます。「ミクロ」の世界へのこだわりです。それを通しての大きな内容世界の表出が麻田絵画の特徴として語られます。作家の言葉が作品理解に対して大きく作用していることになります。作者の言葉は、作品理解や批評にとって一つの強い枠組みを与えるものです。とくに作家と同時代に生き、また交わった理解者は、作家から制作に際しての考え方や、その他の諸々の考えや芸術観を直接聞ける点で幸運でもあると言えます。小倉も、また先に挙げた粟津氏も、その点で幸運な出会いに恵まれていたと言えます。粟津氏の評論においても、上の麻田の子供時代について語った言葉は、麻田絵画の理解にとっての大切なヒントになっています。
  さらに資料2の、1980年の日本での個展カタログへの麻田の言葉に見出せる、異国の都パリにおける疎外感を、リルケ「マルテの手記」を介して感じ取った箇所、「この街の異国からきた人々に与える生理的なまでの冷たく、かたい、圧迫感、拒絶感、孤立感は、まさに雨が身に滲み通るごとく身の回りをとりまく物々が、その本来の機能など知ったものかという顔で、不気味なしかも硬いオブジェとして迫って来る様で…」、また「それらのオブジェが敵であり又唯一の友」だったという箇所が引用され、作品がこの言葉に基づいて理解されます。つまり、麻田が長年「パリの秋の〈冷い闇〉を経験し、漠然としかし圧倒的な不安な力をもって心をしめつけられ」、この体験が麻田の主題と表現内容によく投影されている、という批評です。
  余談になりますが、ここでも「表現が経験にかたちを与える」ということに気づく必要があります。なんとも言えない不安、しっくりしない感じ、居心地の悪さ、このような、麻田を包み込んでいたパリの街の雰囲気、ぼんやりした疎外感や圧迫感、これがリルケの「表現」によって具体的にかたちを取ったわけです。だから麻田はパリを「リルケ的言語に浸されたかたちで感じるようになる」ということです。例えば横光の『旅愁』に親しんだ者は、「横光的」「《旅愁》的」感慨に浸されてパリを見るでしょう。このときには感情は甘いセンチメンタルなものに変わるはずです。感覚にも感情にも言語が入っている、だからいつも感覚や感情も歴史性、文化性と切り離せない、ということになります。麻田が語っている感情も一切から独立した〈麻田の感情そのもの〉ではなく、〈他者に媒介された感情〉なので、それをそのまま作品に読み込んで「純粋麻田論」を展開することには多少無理があるわけです。麻田自身も、また麻田の絵画も、多様な文化の入り混じった「ハイブリッドなもの(異種交配的なもの)」として語られる必要があるでしょう。
  本論に戻りましょう。小倉は上の同じ資料に見られる麻田の言葉と、恐らく麻田自身から聞いたこととを合わせながら語っています。こうして、麻田が子供の頃からリルケ、ボードレール、創世記、黙示録に惹かれ、それが「パリ時代に血となり肉となって深められた」ことが語られます。しかもそれは、単に「西欧的というより普遍的教養というべき。麻田の精神の原風景の発見、自己確認」だとされ、「視覚的造形以上にゆたかで思想的なバックグランド」がそこに想定されています。
  また、最後に、麻田が幼児期以来心惹かれる原風景の一つが「ノアの大洪水」であり、こうして麻田の絵画には、世界の終末と創成にかかわるイメージが漂い、旧約の太古の物語に触発されながら、「現代社会の人間の危機的状況」が暗示され、麻田作品は「近い未来への警告」ないしは「黙示録的な予感」にもなっていることが指摘されます。しかもそこには「人間破滅への予告や威嚇」はなく、「あるがままの救済への予兆」、「浄土風景」がある、というのがこの評論の結語です。
  心性における昼と夜、文化における東西、宗教における西洋キリスト教と東洋仏教、このような小倉自身が身につけた思考の枠組みと麻田の言葉、これらの複層的枠組みに運ばれながら、同時に作品の特徴を見つつ、小倉は麻田絵画の特徴を語ろうと努力していました。まだ理解のための定着したテクストのない時点で、小倉の試みはいわば麻田絵画を理解するための一つの枠組みを呈示しようとした、ということができます。そしてこのような試み自体、評論自体も、決して歴史を超えたものではなく、特定の枠組みがあってはじめて可能になる歴史的なものだということを弁えることが私たちには必要なことでしょう。絶対的に客観的な解釈や理解などないのであり、解釈の枠組みが変わるごとに、作品は別の姿で意識に現われます。ですから絶えざる理解の試みが必要だし、またエキサイティングな試みにもなるわけです。「今なぜ麻田か」というこの討論会の問いはこのような理解の枠組みへの問いになるでしょう。

  数年後小倉は再度麻田論を書きます。それはギャルリー・ためなががニューヨークで開催した麻田展の図録に、「序(Introduction)」として収められている英文の麻田論です(《Hiroshi Asada》 October 11–November 5, 1991. galerie taménaga, New York 1991.)。この評論は、麻田の仕事を初期からたどったものです。要約しておきます。
  まずこの画家の簡単な経歴が示されます。すなわち、
  〔1931年京都生まれの京都育ち、同志社大学で経済学専攻、新制作協会展やその他の展覧会に絵画を出品し、大学卒業後は就職[大丸百貨店]。昼は勤務し夜に制作を続けるが、やがて自分の天職が画家であることを強く感じ、入社の数年後に退社。父[辨自]、兄[鷹司]は日本画家だが、浩はすでにこの頃、油絵のマチエールと技法とが自分の表現したいものに最適だと思うようになっていたようだ〕といったことが記されています。
  次いで麻田の初期の時代が素描されています。
  〔1950年代後半は、「ヨーロッパのアンフォルメルとアメリカの抽象表現主義が日本に影響を与えていた」時期で、麻田が「アンフォルメル」に影響を受けた時期は、最初のヨーロッパ旅行の「1963年」頃まで続く。ところが麻田はヨーロッパ旅行で欧州の美術館を訪れ、またパリに魅せられ、「西洋芸術の背景としての歴史を自分の目で確かめることが自己の芸術的な努力にとって最適の道だと感じた」。ここでも幼年期の麻田について記されています。つまり「幼い頃から自宅の庭の樹木を細かく観察するのが好きで、また小石を収集し、木目や壁の染みから幻想的なイメージを生み出すことに熱中した」という点です。さらに麻田が「西洋の小説や詩や創世記や黙示録」などにも親しんでおり、この素養により「ボッシュ、ブリューゲル、そして世紀末の芸術に魅せられ、優れたリアリスティックな技術を用いて自分自身のシュルリアリズム的幻想世界を生み出すことに成功した」〕。
  次いで、絵画記述が行われます。
  〔1971年、麻田は二回目のヨーロッパ旅行を実現するが、このパリ滞在は1982年の秋にまで及ぶ長逗留となり、麻田独自の制作に集中することになる。「キャンヴァスからは人物や生物が消え」るが、それは「《原風景(Original Landscape)》には、命に限りのある生物体は必要とされない」からである。画面では、「しっかりとは見定めがたい地の上に、まき散らされた石、板や枝の切れ端、板、布、ガラス、卵の殻、羽、水滴、穴から噴出す煙が描かれている。土、石、水、そして空気を主な元素としてもつことで、ミクロとマクロの可視的光景の共存によって、神秘的な効果が引き出される。生物的でないものだけが、忠実に差し出されている」〕。
  ここでも「ミクロ」と「マクロ」とがキーワードとして出ています。次に出てくるのは、先の資料2に見た、麻田がパリで感じた疎外感であり、そこから絵画が理解されます。
  〔麻田は「高校時代以来リルケを崇拝し、原語で『マルテの手記』を読んでさえいる」。「この本を最初に読んで感じたことを、麻田はパリ滞在の最初の時期に深く経験することになる」。彼が感じたのは「パリの街の冷たさ」、このパリという街のもつ「圧迫感、拒絶感、孤独感」であり、「秋冬の冷たい暗さ」と一緒になったこれらすべてを、麻田はパリ時代に経験したが、このすべてが「彼の作品の主な主題と表現の特徴」に出ている。若き京都時代の麻田のうちに育っていた「ヨーロッパ文化」は、パリ滞在中に「生理学的経験」として深く根づいた。これが特殊な「心的《原風景》」につながるとともに、「彼自身のアイデンティティ」にもなっている。「絵画制作者麻田の人格」の背後にあるのは、「単なる幻想的な制作活動にとどまらぬ、深く豊かな観念の働き」である。子どものとき以来、麻田は「ノアの箱舟」に惹かれ、このイメージは間違いなく「彼の《原風景》」に現われている。例えば「《洪水のあと》や《大地の漂着》」というタイトルをもつ作品、それははっきりわかるように描かれたノアの箱舟ではなく、「そこに反映しているのは、明らかに世界の創造と終末のイメージ」である。この問題を広げるために、麻田は「洪水についてのこの旧約の物語を基調として利用している」が、そこで考えられていることは、「現代世界の人々や社会に立ちはだかる危機的状況に対する暗示」にもなっている〕。
  帰国後の麻田についても言及されています。
  〔11年間のパリ滞在後、1982年11月に麻田は帰国する。「自然、社会、人間の環境の変化に次第に慣れてゆきながら、パリでの10年間に育てた特有の考え方や制作を守りつつも、それでも彼は新たな絵画にとりかかっている」。彼の「物理的にも心的にも故郷である京都への帰還」さえ、単に様々な変化を証明するだけでなく、「一種の再度の進化」といったものになった。「麻田の芸術性がこの自然と文化を育む風土において新たな領域へと進展するであろうということはいわば単に自然なこと」であった。だが、帰国後わずかな年月の間に起こった彼の父、母、次いで兄の相継ぐ死は、強く麻田に影響を与えたに違いない。麻田は家族を守る身になった。ある意味でこれらの出来事の変化は、おそらく日本人であることへの彼の忍耐につながり、あるいはよりはっきりと東の日本と西のヨーロッパとの間の関係と融合とをもたらすことになった〕。
  そのような生活の変化と絵画の変化とが結び付けられます。
  〔麻田の絵画は次第に「かつての乾いた固く非有機的なキャンヴァス」から、「震動し湿気のある生きたキャンヴァス」に変化した。「彼の1980年代後半からの作品は—それらがニューヨークで展示されることになっているのだが——、野花、木、山、川、蝶、魚、そして家屋と人間」を含んでいる。もちろん、麻田がこれら様々なモチーフを複数の創造物をかたちづくるために一つのキャンヴァスに入れ、また上記のモチーフが全体の部分的に基本的な要素になっているからといって、麻田のキャンヴァスに固有の基本的な考え方は失われてはいない。だが「この変化は無視されてはならない」。というのも「この現象は疑いなく彼の芸術表現の主題上の変化と深く結びついている」からだ。「《霧の中の旅》、《木》、《青い大地と草》、《水—魚》、《春》、《朝》、《鳥籠のある空間》、《窓—鏡》」といったタイトルの作品を見るなら、それらはすべて「これまでは見られなかったタイトル」が付されている〕。
  小倉は特に1900年の二つの作品に注目しています。
  〔《滝、兄のための絵》、「この縦長の油絵は、彼の兄に捧げられたもので、日本の伝統的な掛け軸を思い起こさせる」。そしてそれは「那智の滝」という、実際長年に渡って「日本の画家お好みの主要主題」となってきた。この滝は、「高さ436フィートの日本の最も有名な滝の一つ」であり、この「那智権現」は「神聖な滝」と見なされている。それは「ナイアガラの滝」とはまったく異なる宗教的な意味をもっている。また麻田の絵では、「滝の上方の両側に四つ円の窓」があって、二つは「日本の滝」、他の一つは「麻田のオリジナルの風景」、そしてもう一つは、「ボッシュを思わせる西洋風の風景」である。もう一点は《帰えるところ》。これは「異なる面から合成された風景画」であり、それは、「麻田の精神的な故国が必ずしも日本ではないことを示唆しているように見える」。しかしまた「われわれはそれをヨーロッパだと断言することもできない」。この芸術家の帰るところは、「時間内の特殊な時代を超えた何処か」であるように見える。「東洋と西洋の眼をもちながら、麻田の心の故郷は、彼の内面的な自己のうちにある普遍的、ロマン的なユートピアであるに違いない」。この「多様に組み合わされた風景」には、「すべての人類と生き物が帰ることのできる、精神的な、経験を超えた地が見出されるかもしれない」。彼のこれらの絵画に対して次のように言うことができる。それらはすべて、「物理的ではなく精神的な光によってほのかに照らされている」、と。「すべては平静さに覆われ、あらゆる物的存在と重さとを奪われ、神聖さに満たされた世界になっている。この世界は常識によっても論理的なものによっても自由にすることはできず、非日常的で、超現実的で、超論理的なものによってのみ理解できる世界である。比喩的象徴的に言えば、麻田の絵画世界は昼よりも夜の原理に支配されていると言うのが正しいかもしれない」〕。
  この評論では、最初の評論を踏襲しながら、より広くなった視野から麻田が語られています。そして次のような言葉でこの評論は締めくくられます。
  〔われわれは20世紀の終わりを目撃しようとしている。それはまたキリスト降誕1000年の大きな終わりでもある。もし19世紀の終わりとは異なるスタイルの世紀の終わりがあるとすれば、麻田の個人的ヴィジョンはそれを示す一つだと私は思う〕。

  かなり長々と小倉の評論を紹介しました。それは、この評論が麻田の絵画についての理解の枠組みを形成したに違いないと思うからです。勿論これを読んでいない人も多くいるでしょう。しかし評論は直接読まれなくとも、読んだ人々の見方を方向づけ、さらに言葉を生み出しながら広く伝播して、人々の見方に浸透してゆきます。だから多くの麻田ファンが、意識的か無意識的かは関係なく、こういった評論の言説の枠を通して麻田の絵画に接してきたということになるのです。評論を分析することを議論のための「一つの視点」に選んだのは、言葉の介入しない直接的理解などないということ、このことを確かめておきたいからでした。過去の理解の再検討は、私たちに知らないうちに入り込み根づいている無意識の枠組みに光を当て、私たち自身のものごとの見方の限界を再考するうえで、常に必要なことだということになるでしょう。固まらないためにも。

《没後10年 麻田 浩展:電子メール討論会》のための視点(4)

  このためまた、「第4の視点」も必要になります。それは「麻田の作品を歴史の中に置き直してみる」という視点です。今回の展覧会では、これを4階で試みました。麻田は絵画を始めたとき、どのような芸術動向の中にいたのか、これを作品展示を通して再考しようとし試みたわけです。特に1960年から70年代のはじめにかけては、日本の芸術が大きく動いた時期です。そのような動きの中で、京都でも色々なグループが競うように芸術論を戦わせ、また展覧会を開催していました。そのうちの幾つかは、近現代日本美術史という歴史物語に登録されていますが、多くはこの物語から漏れてしまいました。これをもう一度検討し直すことは、これまで流通してきた日本近現代美術史の言説が一枚岩ではなく、他の見方もあると言うことを提言することにつながるでしょう。京都国立近代美術館も、美術、工芸すべての面でこのような新しい芸術運動に深く関わっていました。特に1963年に「現代絵画の動向」展、翌年から70年までの「現代美術の動向」展は新しい動向に光を当てるもので、ここに麻田とともに彼と親しく交わり意見を交わした当時の若き作家たちが選ばれ作品を展示しました。このような時期の再検討、これは今始まったばかりで、今回の展示はそのような、「日本近現代美術史言説再検討」の試みのほんの一歩にすぎません。しかし幸い、これまで忘れられてきたこのような運動を再考する試みが何人かの人々によってすでに開始されています。また、そのとき活動していた方々の一部がなお健在である今こそ、この再検討をしておかなければなりません。私たちの美術館にとり、そのような再検討を試みておられる人々との共同作業による、細かな研究とそれに基づく作品展示が今後の不可避の課題になるでしょう。
  それを踏まえて、麻田浩の絵画ももう一度議論されねばならないでしょう。シンポジウムでは、この点も語り合えればと思っています。

(2007/08/30 京都国立近代美術館 館長・岩城見一)


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