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展覧会投稿 No. 6  匿名希望A「絵画における『聖』麻田浩」

投稿 No. 6  匿名希望A「絵画における『聖』麻田浩」


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匿名希望A

  私の手元に『霊的な出発』(高橋たか子著)という本があります。表紙画とカットを麻田浩(敬称略)が描いています。出版年は1985年「地・洪水のあと」が描かれた頃です。
  今回の展覧会で、麻田浩の絵を初めて見ました。初期の作品、版画も興味深く拝見しましたが、なんといってもスタイルを確立されてからのもの、「地・洪水のあと」に続く、命を磨り減らすように(事実そうだったわけですが)描かれた一連の作品には心を打たれました。
  麻田浩の作品を論じるのは難しいかもしれません。なぜなら麻田の作品は、見る者を観想へと誘うからです。そして観想ということは「神」を求めるものでなければわかりづらい概念だからです。日本人には特になじみにくいのではないでしょうか?
  麻田の関心は「原風景」「原都市」「原樹」にありました。しかし「原」を知るためには自らが「神」(のようなもの)に出会うか、「神」(のようなもの)にならねばなりません。困難な道を麻田浩は選んだのです。
  「地・洪水のあと」以後、麻田浩もまた「霊的な出発」をしたのだと思います。私はキリスト者ではないのでうまく説明できませんが、麻田は「神」を求めて魂の暗夜へ向かって内へと下っていった。その観想のヴィジョンについてはアヴィラの聖テレジアや十字架の聖ヨハネ、その他の聖人たちが著作の中に書いていますが、麻田はそれを絵画で表現しえた希有な存在なのではないでしょうか?
  展覧会場の絵を思い出してください。最後の作品に至るまでの流れは、「神」を見出すまでの彼の観想の過程そのものではありませんか?遺作「原(源)樹」を前にしたとき、これは麻田自身の姿だと感じました。誘惑する者(蛇)と誘惑される者(樹=命)が螺旋形に昇華してゆく。それはまた私たちの姿でもあり、生命の本質が描かれていると思いました。これが「原」なのです。
  麻田浩、彼もまた、キリスト教における数多の聖人たちのように「聖」と呼ばれるにふさわしい努力をされた人であったと思います。
  今回の「表紙絵の仕事」のコーナーには『霊的な出発』は展示されていませんでした。長い間ページを開くことがなかったこの本を今回読み返してみて、麻田浩の絵を読み解くヒントをたくさんいただきました。そのおかげで上記の感想も書くことができました。おそらく、麻田浩にとっても『霊的な出発』はそれ以降の歩みを決定づけるエポック・メーキングな書物であったと思います。どうしてこの本がな かったのか、少し腑に落ちない思いがしました。
  「今、なぜ麻田浩なのか?」なぜでしょう?学術的な考察は先生方にお任せするとして、私は、「神」(のようなもの)が私たちに気づきを与えるために麻田の絵を開かれたのだと思っています。「四方・光」や未完の「原(源)樹」にはすばらしいメッセージが秘められていると思います。
  浅学ゆえに直感にまかせて感想を書きました。ご笑読いただければ幸いです。
  私的な関心からですが、麻田浩はどんな音楽を好まれていたのか、麻田の絵を若い世代(二十代、十代、それ以下)が見たときにどんな感じを受けるのか、気になっているところです。

(2007/08/27 匿名希望A)

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