没後10年 麻田 浩展
 I. 知られざる初期作品 1953-1971


没後10年 麻田 浩展: 紹介文

 

《作品C》 1965年
 

  麻田浩は、父が日展で活躍した麻田辨自、兄は創画会の麻田鷹司という境遇でしたが、自らは美術学校などへ進んで画家を志したのではなく、同志社大学で経済学を学ぶかたわら、同大学の絵画サークル「鞍馬画会」に所属し、当時の新制作協会の京都在住の新鋭・桑田道夫にも師事して絵画制作の基礎を学びました。本展覧会は、《沼》《牛. C》《牛. D》など、このころに制作され、麻田浩が大切に保管していた最初期の思い出深い作品の紹介からはじまります。
  そして、大学在学中の1954(昭和29)年に、麻田浩は、師・桑田道夫のすすめもあって、第18回新制作協会展に《作品A》《作品B》を出品、初入選を果たしました。当時の新制作協会には、同会の指導的存在であり、東京芸術大学教授に就任したばかりの小磯良平がいました。麻田浩もこの時期、京都の丸物百貨店(のちの京都近鉄百貨店)にあった新制作協会の研究所に足を運んでは、指導に訪れる小磯良平を慕い、生涯にわたって小磯に手紙を送っていたのです。
 

《自閉的窓風景(1)》 1967年
 
  大学卒業後、麻田浩は大丸京都店に就職します。しかし、多忙な勤務にもかかわらず、精力的に制作を続け、毎年、新制作協会展に大作を発表するほか、「朝日新人展」や「シェル美術賞展」などにも出品を重ねました。そして1963(昭和38)年には、父・兄とともに日本美術家連盟の滞欧団に同行し、はじめてヨーロッパの風土と美術に触れます。父と兄の帰国後も、麻田浩は一人残り、各地を旅しながら、翌年の2月に帰国しました。
  帰国後は、京都国立近代美術館の「現代美術の動向 絵画と彫塑」展(1965年)にも出品、京展では、須田賞を受賞。このころから、アンフォルメルの作風を脱して、手や足など部分的な人体モチーフで構成した半具象のイメージを追求します。1970(昭和45)年には、生涯にわたり、制作の支えとなった小林美禰と結婚。翌年には、松本清張の小説『ゼロの焦点』の文庫本表紙画にも、麻田浩の作品が採用されました。
 

《落土風景》 1970年
 
  しかしながら、麻田浩の1950年、60年代の展開は、新制作協会で主流であった、いわゆる非具象からモダニズムへという脈絡だけで捉えられるものではありません(新制作協会の桑田道夫に師事したとはいえ、京都における同協会の勢力は、小磯良平の地元である神戸ほど強くはなかったといいます)。初期のアンフォルメルへの志向は、当時の京都におけるこの傾向の旗手でもあった森本岩雄との交流が大きいように、むしろこの時期の京都における新たな美術界の動向と深くかかわっていたのではないでしょうか。さらに、1970年代はじめには、シュルレアリスム的表現への傾斜も顕著となり、万博記念に開催された京展で万博賞を得た《落下土風景》をはじめ、物語性をより意識した主題を求めて、新たな表現を模索してゆきます。
  当時の各展覧会に発表された作品は、残念ながらその後、まったく人目に触れる機会もなく、それらの大作群を紹介するのは、まさに本展覧会がはじめてのことです。後年、麻田スタイルが確立されるその助走期に、このような知られざる作品群が生み出されているのは、驚きであるに違いありません。

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