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展覧会投稿 No. 8 (京都国立近代美術館長 岩城見一)

投稿 No. 8 (京都国立近代美術館長 岩城見一)


ご意見・情報の投稿

「日本画」を制作されている岡崎さんからご意見が届きました。私の現在の考えを以下に記します。役にたちますか…。

(1)日本画と水墨画の関係について
  岡崎さんは制作者の立場、経験から、「日本画」と「水墨画」との関係をどのように理解すればいいのかという問題に直面しました。実際この問題は簡単ではありません。まずご自身も書いておられるように、現在の日本の美術大学における「日本画」部門では、「水墨画」が科目として挙げられているところはないでしょう。だからこの言葉と深く関わる「山水画」という用語も、「日本画」の世界ではあまり使われず、地名などがタイトルになり、むしろ「風景画」という観念に近いものになっているように思えます。これは制度の問題と関わってくるでしょう。かつては、カリキュラムでまず重視されたのは「運筆」と「臨模」でした。次いで「写生」に進むわけです。ここでは、東洋の伝統的な絵画作品から、線の運びを学び(運筆)、また作品を傍において、それを摸写して対象把握の基礎を学習します(臨模)。それが次第に変化し、「写生」が重視されて、これによって「水墨画」の伝統は学校の教育システムからは消えてゆきます。このような教育方針の変化自体に、すでに近代西洋画的絵画観が日本画教育に入ってきたことが指摘できるでしょう。この教育システムの変化は、東京美術学校(現在の東京芸術大学)と京都の絵画専門学校(現在の京都市立芸術大学)の「百年史」などから知ることができます(注1)。そのような変化したシステムで学んだ作家が、現在の各地の美術大学の「日本画」教育に関わり伝統を形成し、そのような歴史の流れの中で岡崎さんは問題に直面したわけです。
  今回の展覧会からも見て取ることができますように、明治期の「日本画家」はまだ江戸以来の「水墨画」の技法にどっぷりつかっていました。それが感覚の深いところで働き、このため西洋の絵画に触れ、また西洋の風景を描いても、「水墨画」になってしまいました。今回の展覧会で言えば、例えば狩野芳崖の《地中海真景図》、「真景図」は中国近世から朝鮮半島を通って日本の近世に入ってきた用語で、その意味はまさに「真実の風景の画」です。中国、朝鮮半島、日本における「真景図」については、近々京都大学文学研究科在籍の、韓国からの留学生による興味深い論文が公にされるはずです。ところで芳崖は手に入れた版画か写真を基にこれを描いたと見なされていますが、そこに見出せるのは、「水墨山水画」の技法です。山や島の岩肌の襞は、東洋の伝統的な「皴法」で描かれており、実際に目に見えるという意味での「真景」ではなく、伝統的な技法の枠から見られた風景(正確には「山水」)です。その意味では「真景図」です。というのも、伝統的「真景図」は、描かれている場所が実際に画家の見たものであっても、技法は伝統的な山水画の技法、見方に従っているからです。もう一人の画家山元春挙は実際に渡米し、そのときのスケッチに基づいて《ロッキー山の雪》は描かれたと思われますが、しかしここでも山には「皴法」が使われ、松は伝統的な「水墨画」の技法で表現されています。伝統的な技法の中で育った画家にとっては、そのような表現に基づくことで、対象は最も「リアル」なものとして表現できたし見えたのではないでしょうか。私は「リアリティー」は「見える対象」にではなく、「描き方」(表現技法)に負っており、新しい表現を身につけたら、リアリティーも変わるという風に考えるべきではと思います。いかがでしょうか。
  ところで、科目としての「水墨画」は消えても、画家は様々な技法に関心をもち、またそれを自分のものにします。ですから現在の日本画家の多くは、「水墨画」を学び、また同時に「西洋画」の表現も身につけます。これは展覧会に出ている「スケッチ」が大変いい参考になります。また一度ゆっくりご覧になって下さい。同時に隣の京都市美術館で今開催中の展覧会「春を待つ」も日本画、西洋画、そして「水墨画」の複雑な関係を見るのに有益です。要するに日本人は何でも取り入れる「ハイブリッド」人種だと思います。これは悪いことではなく、そこから面白いものが次々生まれてきたのだと思います。
  以上のことから「水墨画は日本画のなかの一つの技法なのか」という問いに答えるとすれば、「水墨画」は学校制度からは外れたが、実際には深いところで、しかも「日本画」のみか「西洋画」、さらには「工芸」の世界でも生き続けていると言うことになると思います。まさに様々な技法、そしてジャンルが「揺らぎ」、影響し合っているわけです。
  「水墨画」と「日本画」との関係は、わが国だけを見れば、凡そ以上のような状況にあると言えるでしょうが、より広く東アジアにまで視野に入れると、この問題はより複雑でまた深刻なものになってきます。特に日本が行った植民地政策、その中でも「文化政策」がこの問題と絡んでくるからです。特に朝鮮半島、台湾における「文化政策」です。前者に関しては、韓国の洪善杓(Hong Sun Pyo)梨花女子大学大学院美術史学科教授の論文「〈東洋画〉誕生の光と影——植民地近代美術の遺産——」が参考になります。現在韓国では「東洋画」という分野がありますが、「韓国画」はありません。それは植民地時代の日本の文化政策によって、「日本画」を含む「東洋画」が「西洋画」と並んで制度化され、朝鮮半島独自の絵画は認められなかったという歴史がなお尾を引いているからです。この論文のタイトルをここに紹介します。「水墨画」も出てきます。〔はじめに、1.「東洋画」の誕生。2.展覧会美術への転換と「官辺型画家」の出現。3.水墨画と色彩画の系譜。4.近代的様式の移植と開発。おわりに〕(注2)。台湾に関しては、植民地時代の絵画を指導した日本人画家を中心にした当時の史料(例えば『台湾日日新報』や『台湾公論』などの記事)がまとめられ日本語に翻訳されて出版されました。これは当時の日本人による台湾の文化政策や台湾に対する指導方針や絵画理解を知る上で大変参考になります(注3)。また中国の深?市では、インク・ペインティング(水墨画)のビエンナーレを開催して昨年で五回目を迎えました。現代にどのようなかたちで水墨画がなりたちうるかという実験を、市の3美術館と画院との共催で行い、海外からも作家が招かれ作品を展示しています。こういったことも含めて、「日本画」と「水墨画」の問題は広く考える必要があります。
     さて次に、「須田国太郎の《老松》と長谷川等伯の松林図屏風との比較」で、「須田の作品は油絵に近い表現のように思われ、〈日本画〉として扱われることに違和感を覚える」というご意見はまず正しいと思います。当然広い知識をもち、大学で美術史も講義した須田は等伯のあの絵を知っていたはずです。ただ今回の展覧会の《老松》は、等伯よりむしろセザンヌの樹木が最も意識されていたと私は思います。実際須田はセザンヌの絵画から多くを学びました。水浴図の人体表現も。《老松》では、須田は後期セザンヌの樹木表現を単色の墨絵に翻訳しようとしたと思います。セザンヌの、特に後期の絵においては、下の色が上の色を透過することで生み出される、色の動き、透明な輝き、そして色の重なりが生む深みが特徴になっています。そしてこれは水墨画の伝統と共鳴します。多くの日本人がセザンヌを好む理由も、このような東洋的伝統が感覚に流れ込んでいて、その枠組にセザンヌの色彩処理がマッチするからでは、と思います。須田は、水墨画の伝統が尾を引く日本の絵画世界で育ちながら西洋に行って西洋画をも身につけましたので、あのような《老松》というまさにハイブリッドな傑作が生まれたものと思います。ですからこれは私の考えでは、「西洋・東洋・日本画」だと言えます。

(2)藤田嗣治に対して「日本画的」と言われるのは、すでに開かれた展覧会図録にもありますように、日本画の材料(胡粉)を用い、また穂先の長い面相筆を用いて、油絵ではできない白いマットな人体表現と繊細な輪郭線を重視した絵画を作ったからでしょう。小林古径の場合は、これも展覧会図録で指摘されていますように、近代以前の東洋の伝統的な線を習得したことと、また普通色彩顔料を用いる絵に水墨の技法を併用したことにあるでしょう。特に玉蜀黍(とうもろこし)の茎や葉等々の植物表現を見てくださればわかりますが。ですから古径は近代の「日本画」に「東洋画」的伝統を持ち込んだということになるのでしょう。

(3)「南画家(文人画家)は日本画家なのか」という問いは、次のように考えればいいのでは。近代日本には、「西洋画家」にも「日本画家」にも「南画」を同時に描き、またそれに魅力を感じ学んだ者が多くおり、またこれらの画家は近代西洋画や近代日本画の技法を身につけていたので、かれらの描いた「南画」は、それ以前の南画とは異なる、特有のものになり、同時にまた「南画」を学んでいたがゆえに、かれらの「日本画」、「西洋画」も、西洋、日本のどちらにも還元できないものになったと。逃げているようですがこれが真実なところではないかと思っています。この点では、四階の会場を是非ご覧下さい。多くの発見があると思いますので。

  ですから大切なのは、こういったことをどれだけ具体的に文章にできるか、また展示を通して目に見えるようにできるかということでしょう。これが私たち美術館に勤務する者の義務にもなります。
  これが小金沢さんの「美術史」における「言葉」への疑念への、私のお答えにもなります。「言葉」ができることというのは、作品の「一つの見方(切り口)の呈示」でしょう。これによってそれまで気づかなかった側面に光が当たれば、それでよし、ということです。当然一つの見方から見られれば、他の側面は見えなくなります。それはまた別の言葉で探ってゆく、切り出してゆくという、限りない営みが学問でしょう。
  この点では「展覧会」の切り口、そして見方も大切になります。いくつか「揺らぐ近代」に関わってくるものを挙げておきます。まず今度東京六本木に開館した国立新美術館、ここでは20世紀の美術の大規模な展覧会が、各地の美術館のコレクションを集めることで開催されています。この展覧会は、日本における20世紀の美術の流れを海外の美術との連関で見るという歴史的な見方も大切ですが、それ以上に私にとって興味深いのは、どの美術館がどのような作品を集めてきたかということを知ることができる点です。この展覧会を通して、日本各地のそれぞれの美術館のポリシーが見て取れることと、それらの美術館の仕事を通して、私たちの美意識や知識が育まれてきたことが改めてわかります。またこの展では、大阪の国立国際美術館の「大阪コレクション展」も参考になります。このどちらも、美術館のスタンスや感性を、展覧会を訪れる者が自由に「審査」できるわけです。またもう一つ、現在姫路市立美術館で開催中の「大正レトロ、昭和モダン ポスター展 ——印刷と広告の文化史——」も面白いと思います(3月25日まで)。大衆メディアとしての宣伝ポスターと美術との相互関係が見て取れ、また映画と美術との相互関係も見出せます。まさに「揺らぎ」の中にポスターはあります。こういった展覧会がどのような切り口で企画されているか、またそれを私たちはどう見、またそこから何を切り取ることができるか、これは中々エキサイティングな広い意味での「美術史」的営みにつながります。
  メールを下さった皆さんに心からお礼申し上げます。20日締め切りとしましたが、ご意見はご遠慮なくお寄せください。シンポジウム当日にまた参考にし、話題にさせていただくこともあると思いますので。

(2007/02/21 岩城見一)


脚注
(注1)
京都画壇におけるこの変化をあとづけた研究として、廣田孝「京都画壇近代化の
一様相」『美学』157号、1989年。
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(注2)
岩城見一編『芸術/葛藤の現場—近代日本芸術思想のコンテクスト』
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(注3)
顔 娟英 訳著 鶴田武良訳 『風景 心境 −台湾近代美術文献導読−』
雄獅美術 (台北)2001年。
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