コレクション・ギャラリー

平成30年度 第4回コレクション展

会期

2018(平成30)年10月16日(火)〜12月16日(日)

主なテーマ

展示作品

パリに集った芸術家たち

 ウディ・アレンの映画『ミッドナイト・イン・パリ』では、現代のアメリカ人の主人公ギルが1920年代のパリへとタイムスリップして、ヘミングウェイやピカソ、ダリ、マン・レイといった彼が憧れた芸術家と遭遇する様子が描かれています。「狂騒の時代」と呼ばれたこの時期のパリを舞台に、藤田嗣治もまた一役を演じ、独自の画風を確立して注目を集めました。
 藤田がめざしたパリでは19世紀後半の印象派以降、象徴主義、フォーヴィスム、キュビスムといった革新的な芸術表現が次々と生まれ、世界各地から数多くの若き芸術家が集まっていました。1900年代から20年代にかけてモンマルトルの「洗濯船(バトー・ラヴォワール)」やモンパルナスの「蜂の巣(ラ・リュッシュ)」といった共同アトリエやその周辺で制作し活躍した、藤田嗣治(日本)、モディリアーニ(イタリア)、キスリング(ポーランド)、シャガール(ロシア)ら外国人芸術家たちは、当時「エコール・ド・パリ(パリ派)」と称されました。この呼称は国際的な芸術都市としての「パリ」を印象づけると同時に、主に東欧ユダヤ系の外国人を区別しようとするフランス国内の美術シーンとの微妙な関係をも表しています。
 そのほかロシアの興行師ディアギレフの率いるバレエ・リュスがパリで旗揚げしたのも1909年のこと。ピカソやマティス、エルンスト、ミロ、コクトー、サティなど数多くの前衛芸術家が公演に協力したことで、バレエ・リュスはパリで舞踊・音楽・美術をめぐる実り多き実験の場を提供したのです。

ジャン・ウジェーヌ=オーギュスト・アジェ、ブティック #91、1910年
ジャン・ウジェーヌ=オーギュスト・アジェ《ブティック #91》1910年

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没後50年 マルセル・デュシャン特集

 マルセル・デュシャンによる20世紀最大の問題作《泉》の誕生100年を機に同作品を一年間かけて検証した昨年につづき、今年は没後50年と、デュシャンの節目の年が続いています。
 先に紹介した映画『ミッドナイト・イン・パリ』では1920年代パリの夜のカフェで芸術家たちが集うなかにデュシャンの姿はありません。アレン監督の意図は定かではありませんが、事実、当時のデュシャンは競技チェスに没頭する日々を過ごし、パリの美術界とは距離を置いていたのです。
 1887年フランスのノルマンディー地方ブランヴィルに生まれ、二人の兄と同様パリで美術を学んだマルセル・デュシャンは、1912年アンデパンダン展に運動表現を取り入れた絵画《階段を降りる裸体No. 2》を出品した際、キュビスムのグループの反発により展示拒否事件を起こします。この作品は翌1913年ニューヨークのアーモリー・ショーに出品されスキャンダルの的となり、1915年には自らも渡米。1917年には友人らと企てて第1回アメリカ独立美術家協会展に《泉》と題する男性用小便器を作品として送りつける「リチャード・マット事件」を起こしたり、《花嫁は彼女の独身者たちによって裸にされて、さえも》(通称《大ガラス》)の構想・制作に没頭したり、キャサリン・ドライヤーやマン・レイらと近代美術の教育機関ソシエテ・アノニムを設立したりと、ニューヨーク時代にはデュシャン評価にとって重要な活動がいくつも遂行されています。
 パリへ戻ってきたのは1924年。チェス競技に没頭するかたわら、《大ガラス》の創作メモをまとめた《グリーン・ボックス》や、自作の複製ミニチュアを詰め込んだ《トランクの中の箱》などの「出版」活動、マン・レイとの映画《アネミック・シネマ》共作、また展示デザインや表紙デザインなどの仕事を手がけていますが、次第にデュシャンもレディメイドの存在もほとんど忘れられてしまいます。
 戦時中にアメリカへ移住したデュシャンは、戦後はラウシェンバーグら後進の芸術家から支持され、再び脚光を集めるようになります。フランス美術界は1977年ポンピドー・センター開館記念展の回顧展によって、遅まきながら(あるいは始まりとして)デュシャンを「現代美術の父」として召還しました。長年ひそかに制作していたことが1968年の没後判明した《与えられたとせよ 1.落ちる水 2.照明用ガス》(通称《遺作》)のほか、数多くのデュシャン作品を含むアレンズバーグ・コレクションは、作家本人の意志により現在フィラデルフィア美術館に収蔵され公開されています。

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日本の洋画 −藤田嗣治の同時代人−

  藤田嗣治が1920年代、エコール・ド・パリの画家として人気を博したとき、それを知った日本の美術界の人々の反応は複雑でした。若い日本人芸術家の快挙を喜んだ人々もいましたが、なぜ彼がパリで高く評価されたのかを不思議に思う人々もいました。日本人ならではの個性とも見える独特な表現によってパリで高い評価を得た藤田は、日本ではむしろ、西洋にありながら西洋風の絵を制作しない妙な人物であると見られてしまってもいたようです。
 海外における高い評価とは異質な、日本における賛否の間の乖離は、1933年、彼の帰国以降も続いたといえます。藤田の愛した祖国は、芸術家としての彼にとっては居心地の良くない場所だったのかもしれません。
 では、藤田の同時代、日本の洋画界にはどのような人々がいたのでしょうか?  例えば、小出楢重や黒田重太郎、鍋井克之は二科会で活動した画家で、小出は藤田の帰国前に亡くなりましたが、黒田や鍋井は、帰国して二科会に入った藤田と親しくしていました。藤島武二や宮本三郎は藤田と同じく戦争画の制作に従事した画家たち。安井曽太郎と梅原龍三郎は、同時代の美術界の頂点にいた画家たちです。
 注目に値するのは吉原治良でしょう。師の画風に倣うことで満足していた彼は、師の師にあたる藤田に叱られたことで己の表現を見詰め直し、やがて藤田と同じく、誰の真似でもない自分ならではの表現を生み出し、世界に認められました。藤田のあとに続いたわけです。

安井曽太郎、少女像、1912年
安井曽太郎《少女像》1912年

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川勝コレクションにみる河井ェ次郎の陶芸

 川勝コレクションは、昭和12年(1937)のパリ万国博覧会グランプリ作品を含む、質、量ともに最も充実した河井ェ次郎作品のパブリック・コレクションです。
 川勝コレクションが当館に寄贈されたのは、昭和43年(1968)のことです。当館への寄贈にあたっては、部屋一面に並べられた膨大な作品群の中から「お好みのものを何点でも」との川勝の申し出に従って415点が選ばれました。それ以前にすでに寄贈されていた3点と、初期作品が不足しているとのことで後に追加となった7点を加えて、計425点に上ります。このコレクションは、中国陶磁を手本とした初期から、民藝運動に参画後の最晩年にいたるまでの河井の代表的な作品を網羅しており、その仕事の全貌を物語る「年代作品字引」となっています。
 コレクションを形成した故・川勝堅一氏は、島屋東京支店の宣伝部長、島屋の総支配人、横浜島屋専務取締役などを務め、また、商工省工芸審査委員を歴任するなど、工芸デザイン育成にも尽力しました。
 河井と川勝の長年にわたる交友は、大正10年(1921)に島屋で開催した河井の第1回創作陶磁展の打ち合わせのために上京した河井を川勝が駅まで迎えに行ったことに始まります。そこでたちまち意気投合したことで、川勝は河井作品の蒐集を始めます。コレクションについて川勝は「これは、川勝だけの好きこのみだけでもなく、時として、河井自らが川勝コレクションのために作り、また、選んだものも数多いのである」と回想し、さらに「河井・川勝二人の友情の結晶」だとも述べています。

河井ェ次郎、草花図扁壺、1939年
河井ェ次郎《草花図扁壺》1939年

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特集展示:富本憲吉

 藤田嗣治展の開催に合わせて、藤田と同年に生まれ、東京美術学校(現・東京芸術大学)でともに学んだ富本憲吉を特集します。昭和30(1955)年に重要無形文化財「色絵磁器」保持者に認定されるなど、近現代陶芸の先駆者として知られる富本憲吉は、「模様から模様を作らず」という言葉が象徴するように、創作のあり方を生涯にわたり探求した作家です。そもそも富本は当初から陶芸家を目指していたわけではなく、東京美術学校図案科を卒業後、ロンドンに留学し、帰国後は諸工芸、創作版画制作に加えて、図案事務所を開設するなど、幅広い分野で活躍します。この時期以降、富本は「趣味」の面白さが評価されていきました。それは留学中に影響を受けたウィリアム・モリスの思想と実践、また現在のヴィクトリア・アンド・アルバート美術館で世界中の工芸を学んだことに由来します。富本は一貫して生活の芸術化、よい趣味の普及を創作と並ぶ芸術活動上の課題として持ち続けており、一時期、民藝運動の同人にもなっています。つまり富本の趣味とは、プリミティヴィズムとアマチュアリズムが生み出す原初性を有した世界観であり、社会や生活とかかわるための方法論であったといえます。富本が最終的に陶芸を選択したのもこうした理由からです。富本は陶芸家として、染付、白磁、色絵、色絵金銀彩と作品における華麗さを増しながら作域を広げ、模様と形との関係を通じて立体物としての陶芸表現を確立します。同時に、その表現を社会に還元していくための方法も様々に模索していきました。

富本憲吉、色絵更紗模様瓢形飾壺、1944年
富本憲吉 《色絵更紗模様瓢形飾壺》1944年

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1918.11.1.国画創作協会展 開ク

 大正7(1918)年1月20日、土田麦僊、小野竹喬、村上華岳、榊原紫峰、野長瀬晩花(入江波光も創立に尽力したが、自ら、他の会員に比べて技量が劣るとして、創立会員の列に加わらず、第1回展の国展賞受賞をもって会員となる)を創立会員とした国画創作協会が誕生します。「国画創作協会宣言」は、個性の尊重、創作の自由、自然への愛を謳いあげて多くの若い画家達を感激せしめ、同年11月に開催された第1回展には京都だけでなく、全国から多数の応募がありました。妖艶な女性像や北方ルネサンス美術の影響を受けた素描作品、西洋風の細密描写など様々な傾向を持つ作品が集まる同展覧会は、文展では受け入れられない新しい画家達の受け皿となり、発展します。経済的な理由から惜しくも昭和3(1928)年第7回展をもって解散(会員、会友を中心に新樹社が結成されたが2回展覧会を開催した後自然消滅している)しましたが、この10年間に生まれた未完成であっても個性的で濃厚な作品群は、近代日本の青春期とも言うべき大正時代の日本画界に彩りを添え、現代の我々にその熱を確かに伝えているでしょう。
 国展誕生100年に当たる2018年最後のコレクション展では、創立会員ではなく、国展に集った若手画家達の作品だけを展示します。そのことによって、国画創作協会の特色がよりハッキリと見えてくるのではないかと期待しています(当館所蔵の国展出品作は全て、笠岡市立竹喬美術館で現在開催されている「創立100周年記念 国画創作協会の全貌展」へ出品しているため、国展と新樹社展当時に描かれた作品を展示しています)。

稲垣仲静、軍鶏、1919年
稲垣仲静《軍鶏》1919年

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