コレクション・ギャラリー

平成30年度 第2回コレクション展 (計201点)

会期

2018(平成30)年5月30日(水)〜7月29日(日)

主なテーマ

展示作品

特集展示:W. ユージン・スミスの写真

 アメリカのグラフ雑誌『ライフ』などに数々のフォトエッセイを発表し、来日して水俣公害の実態を世界に発信するなど、報道写真家として活躍したW. ユージン・スミス(1918-1978)。スミスは1918年にアメリカ・カンザス州ウィチタに生まれ、1937年、18歳の時にプロの写真家をめざしてニューヨークへ移りました。第二次世界大戦が始まるとグラフ雑誌『ライフ』の戦争通信員としてサイパン、硫黄島、沖縄などの最前線の地上戦を取材・撮影し、『ライフ』誌での発表を重ねます。このとき戦争に巻き込まれた人々の悲惨な状況を目の当たりにした経験は、スミスの写真家としての倫理観形成に少なからず影響を及ぼしました。
  戦後アメリカに戻ってからは『ライフ』誌に《カントリー・ドクター》や《スペインの村》などのフォトエッセイを発表。古典絵画の構図や明暗対比を巧みに取り入れた、主観にもとづく「真実」に迫るイコンとしての写真と、そこに通底する「偉大なるアメリカの正義」を背景とするヒューマニズムの精神によって、スミスはフォトジャーナリズムの歴史に大きな足跡を残しました。
 京都国立近代美術館は1993年以降、W.ユージン・スミスの写真作品を継続的に収集してきました。これらの作品は、《水俣》の取材パートナーであったアイリーン・美緒子・スミス氏が厳選して手元に保管してきたものです。生誕100年、没後40年にあたる今年、スミスの写真家としての活動の全容をほぼ網羅したこのアイリーン・スミス・コレクションから選んだ約90点を展示し、W・ユージン・スミスの業績を改めて振り返ります。

W. ユージン・スミス、楽園への歩み、1946年
W. ユージン・スミス《楽園への歩み》1946年
© 1946, 2018 The Heirs of W. Eugene Smith

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近代洋画に見る動物たち

 古今東西を問わず、美術の中で「動物」は盛んに表現されてきました。鳥や獣、虫、魚といった動物たちの中には人間にとって身近なもの、それどころか不可欠でさえあるものもいるからでしょう。食糧となる動物もいれば、生活を補助してくれる動物もいますが、家族同然の愛情を注がれる動物もいます。ですから動物の造形が多く生み出されてきたのは自然なことだったといえますが、それだけではありません。多様な地域の歴史、文化の中で動物は色々な観念や理想をも象徴してきました。東洋の文化においてコウモリが福を表し、魚群が豊穣や子孫繁栄を表してきたのはその一例です。動物の姿はそうした象徴性によっても喜ばれてきたのです。
 日本の近代美術でも動物の表現は好まれましたが、日本画の場合、東洋の伝統を受け継いで動物の美と意味を表してきた面があったのに対し、洋画の場合は、近代性の標榜の下、動物の造形性を純粋に探求するような面が強かったといえるかもしれません。しかし、だからこそ動物の姿かたちに対する画家たちの眼差しが素朴に、率直に表れていると見てもよいのかもしれません。
 この展示では、当館所蔵の日本近代洋画の中から、動物が描かれた作品を集めています。動物そのものを描いたものもあれば、風景や風俗の一部として動物を点じたものもあります。それぞれの絵の中で動物がどのような眼差しを向けられているのか、想像しながらご覧ください。

石垣栄太郎、鞭うつ、1925年
石垣栄太郎《鞭うつ》1925年

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ふたりの巨匠、ピカソとマティスを中心に

 20世紀美術の巨匠、パブロ・ピカソとアンリ・マティスの作品を紹介します。
 1869年フランス生まれのマティスは、モーリス・ド・ヴラマンクやラウル・デュフィらとともにフォーヴィズム(野獣派)の旗手として、そして1881年スペインに生まれたピカソはジョルジュ・ブラックとともにキュビスムの創始者として知られています。ピカソとマティスの初めての出会いは1906年頃、当時パトロンであったレオ&ガートルード・スタイン兄妹を介してのこと。画風や性格、絵画に対する考え方は異なりますが、ふたりは互いに刺激し、尊敬しあった生涯のライバルとして、20世紀絵画の新しい地平をひらきました。
 マティスの《鏡の前の青いドレス》はパリの画商ポール・ローザンベールの所蔵でしたが、その後、ナチス=ドイツ政権のナンバー2を務めた政治家であり、美術コレクターでもあったヘルマン・ゲーリングの手元へと渡ります。第二次世界大戦が始まると、フランス国内でもナチスによる美術品の組織的略奪が行われ、ユダヤ人であるローザンベールの管理する美術作品もまた略奪の対象となったのです。この作品は幸い戦火を逃れ、戦後ローザンベールへ返還されたのち、1978年に当館の所蔵となりました。ピカソの《静物−パレット、燭台、ミノタウロスの頭部》は、1937年に起きたスペインでのドイツ軍の無差別爆撃を主題とする代表作《ゲルニカ》の翌年に描かれたもので、ふたつの作品にはミノタウロスの頭部や燭台などモチーフ上の共通点が見られます。
 マティスとピカソが巨匠としての地位を確立しえた条件として、長年にわたって精力的に創作活動を展開したことと、彼らの作品群が(当時から広く愛されたがゆえに)多数残されたことが挙げられます。ヨーロッパでふたつの世界大戦を生き延びたふたりの作品の大多数が今日まで失われずにきたのは、戦禍や災害などによる破壊からこの作品を守りたい、という誰かの意思の集積でもあるのです。

アンリ・マティス、鏡の中の青いドレス、1937年
アンリ・マティス《鏡の中の青いドレス》1937年

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横山大観と日本美術院の画家達

 3階企画展会場で開催する「生誕150年 横山大観展」に因む特集展示です。
 明治22(1889)年東京美術学校の第1回生として入学した横山大観は、29年同校図案科助教授となりますが、31年東京美術学校事件により同校校長を辞した岡倉天心に従って連袂辞職し、日本美術院の創設に参加します。ここで天心の理想を絵画化すべく、菱田春草等と共に空刷毛を使用した没線描法を生み出しますが、あまりにも急進的すぎたため朦朧体と揶揄されて世間に受け入れられず、美術院弱体化の一因となり、日本画部は天心の別荘があった茨城県五浦へ移転せざるを得なくなりました。しかし大観は、このような困難をものともせず、40年に開設された文部省美術展覧会(文展)に意欲作を出品して画壇での成功を収めます。その後、保守派によって文展の審査員から外されると、大正3(1914)年、前年に亡くなった天心の遺志を継いで野に下り、盟友・下村観山と共に日本美術院を再興しました。同院は、再興院展の三羽烏と呼ばれた安田靫彦、前田青邨、小林古径、その一世代後の速水御舟等が活躍して、一在野団体にもかかわらず、官展に匹敵する団体となり、今に至っています。
 本特集では、横山大観、菱田春草の作品と共に、再興日本美術院に所属した上記画家ほか、大観の弟子である堅山南風、院展では珍しい京都で活動した冨田溪仙や小松均、そして三羽烏亡き後の同院を理事長として支えた小倉遊亀等の作品をご紹介いたします。

速水御舟、埃及風俗図巻、1931年
速水御舟《埃及風俗図巻》1931年

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河井ェ次郎作品選

 近代日本を代表する陶芸家の一人である河井は、明治23年(1890)に現在の島根県安来市に生まれました。東京高等工業学校(現、東京工業大学)を卒業後、京都市陶磁器試験場に技師として勤務し、何万種もの釉薬の研究に没頭します。大正6年(1917)に試験場を辞し、陶芸家として独立後は、中国陶磁を手本とした作風で大正10年(1921)の最初の個展で「天才は彗星の如く突然現れる」と評されるなど華々しいデビューを飾りました。しかし河井は、その後、創作の方向を大きく変え、民藝運動に参画することで、「暮らし」と創作の密接な関係において作陶活動を展開していきます。河井の作品における造形性は、晩年に向かうほど、ますます意欲的となり、「生命」の喜びに溢れたものとなりました。
 当館所蔵の河井ェ次郎作品は、長年にわたる河井の支援者であった川勝堅一氏によるコレクション(川勝コレクション)が中核をなしています。川勝コレクションは、昭和12年(1937)のパリ万国博覧会グランプリ作品を含む、質、量ともに最も充実した河井ェ次郎作品のパブリック・コレクションで、初期から晩年までの河井の代表的な作品を網羅した、河井の創作意識の変遷を辿る上で欠かせないものです。また、当館には、これまでに川勝コレクション以外にも河井ェ次郎作品が寄贈されてきました。
 本展では、これまであまり紹介する機会のなかった川勝コレクション以外の作品も含めて、河井ェ次郎の作品世界をご紹介します。

河井ェ次郎 《魚鉢》1951年
河井ェ次郎《魚鉢》1951年

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近代日本の工芸

 明治前半期を中心に盛んに海外に輸出された日本工芸は、明治後半になると、図案の改良や個人作家の登場などにより、創作への意識を見せはじめます。例えば、神坂祐吉の作品は、旧来の花鳥風月とは異なる蒔絵と螺鈿による単純化された面的な構図が特徴です。富本憲吉は、自然写生による模様創作、器形と模様との一体化の追求などを通じて独自の世界を切り開きました。北大路魯山人は、書、篆刻、料理、陶芸、漆芸、絵画など多彩な才能を発揮しましたが、本作は、白磁に籠字が施された魯山人を代表する1点です。
 また、昭和2年(1927)に帝展に第4部美術工芸が設置されたことは日本工芸にとって大きな出来事でした。これによって国の制度上美術であると工芸が位置づけられたことで、多くの工芸家が同時代の美術動向との関連の中で制作を展開させました。アール・デコ様式に倣った楠部彌弌や六代清水六兵衞、信田洋、各務鑛三などの作品は、昭和初期の創作工芸のあり方をよく表しています。これら創作工芸に対して、戦後は伝統工芸という概念が誕生し、人の体得したわざ(無形文化財)そのものが有する芸術的・歴史的可能性にも注目が集まります。ここでは芹沢_介をはじめとする4人の人間国宝の染織作品を紹介します。
 そして八木一夫や鈴木治は、前衛陶芸家集団「走泥社」の一員として陶芸における彫刻的表現を切り開いた作家です。二人の初期の作品からは、古典や同時代美術を現代において消化していくための試みが見てとれます。

信田洋、蒸発用湯沸瓶、1934年
信田洋《蒸発用湯沸瓶》1934年

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