コレクション・ギャラリー

平成30年度 第1回コレクション展 (計165点)

会期

2018(平成30)年3月14日(水)〜5月27日(日)

前期:3月14日(水)〜 4月22日(日)
後期:4月24日(火)〜 5月27日(日)

主なテーマ

展示作品

没後30年 菅野聖子の世界

 菅野聖子(かんの・せいこ)は、1933年、宮城県仙台市に生まれました。
 福島大学学芸学部で美術を学び、卒業後、抽象画を描き始めます。1958年、夫の転勤で関西に移住し、1964年から吉原治良率いる抽象美術集団、具体美術協会に参加(1968年には会員)しました。
 菅野は、詩、音楽、哲学、物理、数学などにも深い関心を寄せ、それらの世界観は菅野の絵画にも大きな影響を与えました。1960年代の後半からは、繊細でち密な線と垂直と水平、繰り返しの構造を特徴とする彼女の独自のスタイルが現れます。
 1972年に具体美術協会が解散した後は、個展や関西の現代美術家によるGe展を発表の場とし、表現のさらなる深化を目指しましたが、1988年、京都府長岡京市の自宅で突然病に倒れ、54歳で亡くなりました。
 当館は、菅野の没後、ご親族から作品のまとまった寄贈を受けましたが、今年が菅野の没後30年となるのを機にそれらを一堂に展示し、その画業をあらためてふり返ります。

菅野聖子、いたるところ微分不可能な関数族のみたす方程式(2)、1988年
菅野聖子《いたるところ微分不可能な関数族のみたす方程式(2)》1988年

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特集展示:田村宗立(1846–1918)

 京都洋画壇の先駆者として知られる田村宗立は、弘化3年(1846)、京都府船井郡上河内村(現在の南丹市園部町船岡のあたり)に生まれ、十方明、月樵とも名乗りました。幼少の頃より絵を描くことを好み、大雅堂清亮に南画を、六角堂能満院の画僧大願からは仏画を学びました。その後、「眞物に見ゆる畫」があることを知り、試行錯誤をしていく中で、物には陰影があることに気づきます。
 明治2、3年(1869–70)頃には、「油絵」というものを知り、その画法を研究するためには英語を理解する必要があると考え、京都府中学校で英語を学ぶようになりました。またその頃、粟田口青蓮院内にあった療病院で解剖図を描く職を得ており、学校や病院で知り合った外国人に油彩画の手ほどきを受けながら、独自に油彩技法を研究しました。
 明治13年(1880)の京都府画学校開校当初より出仕として勤め、翌年には西宗(西洋画)専任教員であった小山三造が辞任したことに伴い、宗立が三等教員に任命されて小山の跡を継いでいます。明治22年(1889)に画学校を退任した後は、明治画学館という画塾を立ち上げて後進の育成に励み、原撫松や伊藤快彦などの優れた洋画家を育てました。
 本年(2018)は宗立没後100年の節目となるため、当館所蔵の日本画や油彩画のほか、英語学習の跡が残る《諸記》や「眞物に見ゆる畫」を目指して試行錯誤していた様子がうかがえる画帖類、さらには京都府画学校時代の任命書などの関連資料をご紹介します。

田村宗立、京都駆黴院図 1885年
田村宗立《京都駆黴院図》1885年

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春の日本画

 日本には四季があり、古来日本人はそれぞれの季節の美を愛で、詠い、書き、描いてきました。今回のコレクション展日本画コーナーでは、春の風物を中心に、四季の美を描いた作品をご紹介いたします。
 春と言えば「桜」。秀吉の花見で名高い醍醐寺の桜を描いた冨田溪仙の《醍醐之華》をはじめ、近代の日本画家によるさまざまな表現を見比べてお楽しみください。4月24日から始まる後期展示では、桜の花も散っている頃ですので、牡丹やケシなど、季語の世界では初夏に分類される花々を描いた作品をご覧いただきます。また、花と言えば、京都には「白川女」と呼ばれる、中世以来の雅な衣装を纏い、白川流域で栽培された花を洛中へ売りに来る女性達がいました。その姿は、今では時代祭で見られるぐらいですが、戦前までは普通に見ることが出来、鄙から街へと季節の香りを運んでくる彼女達も、四季の美の化身として多くの画家に描かれてきました。種々の花と共に、こちらもどうぞお楽しみください。

川村曼舟、古都の春、1949年頃
川村曼舟《古都の春》1918年
(展示期間:3月14日(水)〜4月22日(日))

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産業と美術の関係

 18世紀後半イギリスでの産業革命以降、従来の手工業から機械工業や大量生産が普及し、人々のライフスタイルや社会構造も大きく変わりました。こうした近代化の過程で、産業における美術の役割や位置づけはその時代ごとの思想や価値観を反映させながら展開してきました。ここでは主に応用芸術の刷新、特に図案の改良を目的としてアーティストが関わった事例に注目します。
 1917年にヨーゼフ・ホフマンの誘いでウィーン工房に参加したフェリーツェ・"リチ"・リックスは、テキスタイルや陶器、ガラス、七宝など幅広いジャンルのデザインを手がけ、そのプリント図案は「リックス文様」として当時高く評価されました。建築家の上野伊三郎と結婚して来日したリチは、建築家ブルーノ・タウトも関わった群馬県工芸所や、京都市染織試験場(現・京都市産業技術研究所)、さらに1950年代には京都・白川の稲葉七宝など、各地で図案制作を手がけています。
 1980年代にはキッチン用品で知られるイタリアのアレッシィ社が11名の建築家にデザインを依頼したテーブルウェア・セット「コーヒー&ティー・ピアッツア」が発表されました。「ピアッツァ」とはイタリア語で市民広場を意味し、都市と人間の関わりという真摯なテーマについての建築家のアイデアが、それぞれの遊び心やユーモアをまじえつつ日々の食卓を飾る食器のなかに映し出されています。
 19世紀に発明された写真術は、急速に社会に普及しさまざまな形で商業・産業化されました。そのなかでも「旅行写真」は観光地の記念品として流行したアイテムであり、その技術は、印刷など大量生産を可能とする複製技術へと受け継がれていきます。
 一方、産業や社会のなかで人間の置かれたさまざまな状況を冷静に観察し、そこに潜む矛盾を作品の主題に取り上げるアーティストの存在も忘れてはなりません。既製品をそのまま芸術として提示するマルセル・デュシャンのレディメイドは、機械生産による匿名性を芸術に取り込むことで、人の手の介在を前提とする芸術作品の既成概念をゆさぶります。ローズマリー・トロッケルは機械編みを模した手編みの「絵画」を通して、手の痕跡を排除するとともに、「編む」という行為が伝統的に女性と結び付けられてきた近代の社会構造を批評したものと言えるでしょう。

上野リチ 《壁紙「そらまめ」[Soede-Wichken](緑地)》1928以前
フェリーツェ・"リチ"・上野=リックス
《壁紙「そらまめ」[Soede-Wichken](緑地)》1928年以前

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手わざの美

 日本には、明治中期から昭和初期にかけての「帝室技芸員」や戦後の「重要無形文化財保持者(人間国宝)」という芸術家の顕彰制度があります。
 帝室技芸員は、帝室(皇室)の保護のもと、美術奨励を目的とした優れた美術家に与えられる終身制の栄誉職のことです。明治23年(1890)に第1回目の帝室技芸員10名が任命され、最後の任命が行われた昭和19年(1944)までに計13回、総勢79名がその職についています。一方の重要無形文化財は、昭和30年(1955)の第1回認定以降、現在まで続く、技(無形文化財)とその技を高度に体得した個人・団体を対象とした国家による工芸と芸能に関する指定・認定制度です。
 これら「技芸」や「無形文化財」という言葉を冠した制度からもわかるように、日本の社会には手わざを重視してきた歴史があります。それは何も美術・工芸界だけに限ったことではなく、ものづくりを日本文化の特性だと捉える見方にすでに現れています。このような手わざは、歴史の中で継承され、更新・洗練されてきたものです。とはいうものの近代以降に限ってみても、手わざは価値の置き方によって積極的な意味を持つこともあれば(超絶技巧)、否定される対象(技巧主義)となることもありました。
 ここでは、高度な手わざが優れた工芸作品を生み出す上での一つの柱であると仮定して、帝室技芸員の赤塚自得や板谷波山、清水南山をはじめ、日展や日本伝統工芸展等で活躍した15名の工芸家の作品を紹介します。

二十代堆朱楊成、山水図屏風意堆朱彫文庫及硯箱、1918年
二十代堆朱楊成《山水図屏風意堆朱彫文庫及硯箱》1918年

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川勝コレクションにみる河井ェ次郎の陶芸

 川勝コレクションは、昭和12年(1937)のパリ万国博覧会グランプリ作品を含む、質、量ともに最も充実した河井ェ次郎作品のパブリック・コレクションです。
 川勝コレクションが当館に寄贈されたのは、昭和43年(1968)のことです。当館への寄贈にあたっては、部屋一面に並べられた膨大な作品群の中から「お好みのものを何点でも」との川勝の申し出に従って415点が選ばれました。それ以前にすでに寄贈されていた3点と、初期作品が不足しているとのことで後に追加となった7点を加えて、計425点に上ります。このコレクションは、中国陶磁を手本とした初期から、民藝運動に参画後の最晩年にいたるまでの河井の代表的な作品を網羅しており、その仕事の全貌を物語る「年代作品字引」となっています。
 コレクションを形成した故・川勝堅一氏は、高島屋東京支店の宣伝部長、高島屋の総支配人、横浜高島屋専務取締役などを務め、また、商工省工芸審査委員を歴任するなど、工芸デザイン育成にも尽力しました。
 河井と川勝の長年にわたる交友は、大正10年(1921)に高島屋で開催した河井の第1回創作陶磁展の打ち合わせのために上京した河井を川勝が駅まで迎えに行ったことに始まります。そこでたちまち意気投合したことで、川勝は河井作品の蒐集を始めます。コレクションについて川勝は「これは、川勝だけの好きこのみだけでもなく、時として、河井自らが川勝コレクションのために作り、また、選んだものも数多いのである」と回想し、さらに「河井・川勝二人の友情の結晶」だとも述べています。

河井ェ次郎、鉄辰砂草花図壺、1935年
河井ェ次郎《鉄辰砂草花図壺》1935年

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「明治150年展」関連展示:明治時代(1868–1912)の西洋絵画

 日本が近代国家建設にまい進した明治時代(1868–1912)、ひと足先に近代化を遂げた西洋の美術界では、写真の発明を機に、絵画でしか表現できない世界を目指し、革新的で個性的な表現が生まれつつありました。
 パリで後に第1回印象派展と呼ばれる展覧会が開かれたのは1874年。武士の時代が終わって間もない明治7年のことです。印象派は、ウジェーヌ・ブーダンらが始めた屋外での制作に刺激され、まばゆい自然の光や空気感を画面上に描き出すことに力を入れました。代表的な画家としてカミーユ・ピサロ、ピエール=オーギュスト・ルノワールなどがいます。
 1880年代後半・明治10年代後半から20年代前半になると、原色のタッチの重なりで光を表現する印象派の技法を、ポール・シニャックらが点描画によってさらに発展させ、新印象派と呼ばれるようになります。
 1888年・明治21年には、色彩や形態による秩序だった画面構成を重んじるナビ派が活動を開始します。エドゥアール・ヴュイヤール、ピエール・ボナールらの作品は、20世紀初頭の抽象絵画の登場を予告するものでした。
 1905年・明治38年、色彩に感情を託し、激しい筆致で描くモーリス・ド・ヴラマンクら一群の画家が、フォーブ(野獣)と評されます。ここに来て絵画は完全に、画家の主観を表現する場となったのでした。
 このコーナーでは、そうした明治と同時代の西洋絵画をご紹介します。


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