キュレトリアル・スタディズ09
 上野リチのテキスタイル・デザイン〜ウィーン工房から京都へ


期間
2015年10月7日(水)〜 12月6日(日)

展示作品
キュレトリアル・スタディズ09
上野リチのテキスタイル・デザイン〜ウィーン工房から京都へ 展示目録
 
上野リチ
《服地デザイン「キャンディー」2(赤)》
1920年代

 2006年、京都インターアクト美術学校の閉校に伴い、同校が長年保管していた創立者の建築家上野伊三郎(1892-1972)とその夫人でウィーン生まれの上野リチ(フェリーツェ・"リチ"・上野=リックス、1893-1967)による作品・資料が当館に寄贈されました。そのお披露目として、当館では2009年に、「上野伊三郎+リチ コレクション展 ウィーンから京都へ、建築から工芸へ」を開催し、全展示作品の図版とコレクション全体の作品リストを掲載した図録兼所蔵作品目録を刊行しました。さらに展覧会終了後には、リチが京都市染織試験場で嘱託として勤務していた時代の貴重な作品群を、新たにご寄贈頂く機会に恵まれました。その中の数点は、当館ニュース『視る』440号に図版として掲載されものの、ほとんどのものはこれまで公開されてきませんでした。そこで、今回のキュレトリアル・スタディズでは、今まで未公開であったこれらの作品群を中心に、大阪新美術館建設準備室の協力を得て、テキスタイル・デザインの分野における、リチのウィーン工房時代から京都にいたる創作活動を紹介します。
 ウィーン工房時代、リチが最も多くの作品を残したのがテキスタイル・デザインの分野です。そのデザイン画や製品サンプルは世界の様々な工芸ないしデザイン博物館に所蔵されていますが、なかでも多くを保管しているのがウィーンのオーストリア応用芸術博物館(MAK)です(デザイン画はMAK所蔵作品のオンライン・カタログで見ることができます)。テキスタイル・デザインと並行して、リチは刺繍やアクセサリーなどのデザイン画も手がけ、同様の傾向は、京都市染織試験場時代の仕事にも受け継がれています。リチのデザインには、身近なもの(特に自然の)をモティーフとしたものが多く、ときに同じモティーフが何度も現れます。しかし、それらはその都度、様式化の仕方や構成・配色などが異なり、ひとつとして同じものは存在しません。確固たる個性を示しつつ、あたかも無尽蔵に生み出されるデザイン、その根底にあるものこそ、リチが創作において最も重要視した「ファンタジー(創造性)」なのだといえるでしょう。

企画:池田祐子(京都国立近代美術館主任研究員)
協力:植木啓子(大阪新美術館建設準備室主任学芸員)

0: ウィーン工芸学校
 リチは1913(大正2)年、20歳でウィーン工芸学校に入学します。ウィーン工芸学校は、1867(慶応3)年にオーストリア芸術産業博物館(現:オーストリア応用芸術博物館)の付属機関として設置されました。イギリスのサウス・ケンジントン博物館(現:ヴィクトリア&アルバート博物館)を手本として、1863(文久3)年に開設したこの博物館は、芸術家や産業家さらには一般の人々に、産業革命以降の社会において模範となるような応用芸術作品(陶磁器や金工製品、テキスタイル、さらには建築など)を提示することを目的としていました。そしてウィーン工芸学校は、博物館のコレクションを教材に、新時代のデザイナーや職人の育成、さらには、いわば「芸術産業」促進に寄与すべく、芸術家や教師を再教育することに主眼を置いていました。学校は数多くの著名な芸術家・デザイナー・建築家などを輩出し、そこにはかのグスタフ・クリムトも含まれています。
 ウィーン工芸学校は、絵画や彫刻といった純粋芸術の教育機関であるウィーン美術アカデミーとは対照的に、設立当初から女子学生にもその門戸を開いていました。そのため、リチのように工芸学校で学ぶ女子学生は多く、1929(昭和4)年に刊行された『ウィーン工芸学校創立60周年点カタログ』に記されている各専攻の男女比を見ると、全体で半数以上が女子学生であったことがわかります。工芸学校の教育は、従来の歴史的作品の模造ではなく、自然観察に基づく自由デッサンや、色や形そして線の構造研究に始まり、素材や技術の研究を経て、理論と実際の作品製作を組み合わせるところに特徴がありました。また、1899年には組織の大幅な改革が行われ、ウィーン分離派の芸術家たちやヨーゼフ・ホフマン、コロマン・モーザーといった進取の気風に富んだ若手教員が数多く採用されます。リチが学んだ当時の工芸学校は、まさに新しい時代の生活に相応しい応用芸術を模索する実験場の趣を呈していたのです。
1: ウィーン工房での"リチ"
 1917(大正6)年、リチはウィーン工芸学校を卒業し、師であるヨーゼフ・ホフマンの誘いでウィーン工房に参加します。現在オーストリア応用芸術博物館などに所蔵されているリチがデザインした作品には、七宝の宝石箱、アクセサリーやハンドバッグ、さらにはエナメル絵付けをしたガラス製品などがありますが、なんといってもその数で群を抜いているのがテキスタイルです。その数は、製品化されたものだけでも、113種類にのぼります。
 ウィーン工房は、1903(明治36)年に、建築家・デザイナーのヨーゼフ・ホフマンとデザイナー・グラフィックアーティストのコロマン・モーザー、そして実業家で芸術活動のパトロンでもあったフリッツ・ヴェルンドルファーによって、イギリスのアーツ・アンド・クラフツ運動を手本とし、応用芸術の分野においてその刷新を図ることを目的に設立されました。ウィーン分離派やウィーン工芸学校と緊密に連携しつつ、工房では、デザイナーと職人が協働し、食器などの日常品からアクセサリーや家具にいたる製造を手がけていました。バックハウゼンのようなウィーンの企業の協力のもと、工房設立当初からテキスタイル(特に織地)の製作は行われていましたが、独立したテキスタイル部門が設置されたのは1910(明治43)年頃のことです。この頃には工房内で製作されるプリント地が主流となり、それらはウィーン工房が手がける家具や室内装飾、さらには婦人服に応用され、人気を博します。1916(大正5)年には、ウィーン市内にテキスタイル販売専門の支店とファッション(モード)部門の支店が開店します。リチがウィーン工房に参加した時期は、工房内でテキスタイルの製作・販売がますます重きをなしていった時でした。
 ウィーン工房初期のテキスタイル・デザインは、《ウィーン工房包装紙》や《ウィーン工房封筒》にも見られるような、抽象的幾何学的な小紋模様が主流でした。しかし1910年代以降は、様式化された植物模様や大ぶりで大胆な抽象文様、もしくはそれらを組み合わせたデザインが多く見られるようになり、色彩も、当初のモノトーンから多様な色の組み合わせへと変化します。さらにウィーン工房のテキスタイル・デザインで特筆すべきことは、ひとつのデザインに、ときに20種類もの異なる色の組み合わせが考案されていたことです。リチのテキスタイル・デザインの大きな特徴でもある大胆で多彩な色の組み合わせ、その鋭敏な感覚は、まさにウィーン工房時代に磨き上げられたのだと言えるでしょう。
 1920年代、リチをはじめホフマン門下の数多くの女性デザイナーが、テキスタイル部門やモード部門で活躍していました。ここでは、リチとその同時代に活躍した人々の作品、そしてモード部門の関連資料をご覧いただきます。
2: 京都のウィーン人
 1924(大正13)年頃、リチは、当時ヨーゼフ・ホフマンの建築事務所に在籍していた、京都出身の建築家上野伊三郎と出会い、翌年二人は結婚しました。ホフマンの、特に初期の装飾デザインに日本美術の影響が顕著であることはよく知られていますが、そのもとで学んだリチもまた、関東大震災に思いを馳せて製作されたという《日本の国》と題するテキスタイルに見られるように、遠い異国の地に関心を寄せていたのでしょう。
 1926(大正15)年に来日したリチは、伊三郎とともに京都で建築事務所を開設し、その美術工芸部主任として、伊三郎設計の建築物の内装デザインなどを担当します。そこでは、リチがウィーン工房時代にデザインした壁紙《花園》なども応用されました。京都に居を構えながらウィーン工房での仕事も続けていたリチは、この頃京都とウィーンを行き来する生活を送っていました。しかしウィーン工房の経営悪化をうけ、1930(昭和5)年に工房を退職します(ウィーン工房は1932(昭和7)年に解散)。そのリチに技術嘱託としての勤務を打診したのが、京都市染織試験場(現・京都市産業技術研究所)でした。
 京都市染織試験場の歴史は、西陣織物同業組合が織物輸出振興のための技術開発・指導を目的として1908(明治41)年に設立した西陣織物染織試験場に遡ります。京染の振興をも目的に、1916(大正5)年、試験場は市に移管され公的機関となり、その組織は機織部、色染部、そしてリチが在籍した図案部で構成されていました。図案部の中心的業務は、業者から依頼を受けて図案を作成することで、そのことは、当時の図案の裏に貼られた試験場のラベルからもわかります。しかしリチは、図案部の図案制作室よりも工芸染織室で作業することを好んだと言われています。それは、デザイナーと職人の密接な協働が特徴であったウィーン工房での経験の反復であったのかもしれません。
 1944(昭和19)年にリチは試験場を退職します。戦後は、伊三郎とともに京都市立芸術大学などでデザイン基礎教育に従事するかたわら、京都の企業と協力して七宝作品やテキスタイルの製作に携わりました。リチが試験場に在籍したのは、戦時中の厳しい時代でした。それにもかかわらず、試験場でリチが産み出したデザインの数々は、明るい色彩に彩られ楽しげな印象を我々に与えます。それらは間違いなく、ウィーン工房での仕事の延長線上に位置するものでした。京都の伝統産業に間近に接しながらも、リチのデザインにそこからの明確な影響を認めることはできません。ウィーンで学び習得したことを、実製作や教育現場で伝え続けたリチは最後まで、京都に生きる「ウィーン人」だったのだと言えるでしょう。

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