京の由一 田村宗立 ― 京都洋画の先覚者

期間
2012年8月29日(水)〜10月28日(日)
展示作品
京の由一 田村宗立 ― 京都洋画の先覚者 展示目録

 「近代洋画の開拓者 高橋由一」展の開催に際し、「東の由一・西の宗立」ともいうべき田村宗立(1846-1918)の絵画創造の足跡を、京都国立近代美術館が所蔵する作品・資料によって、コレクション・ギャラリー小企画として特集展示します。
 田村宗立は、丹波国園部郡河内村(現在の京都府園部町)に生まれました。幼少時から画才に恵まれ、6歳にして画筆をとり、10歳で南画を学びました。その後、京都・六角堂能満院の大願和尚につき、仏門に入って僧侶となり、仏画の研究に没頭します。そして、見たままそっくりに描かれた絵のあることを知って、ひとり工夫を凝らしながら写生に熱中し、静物に陰影を描き添えることに気づいて、従来から踏襲されてきた「写生」を超えた描写に開眼しました。
 当館は、こうした宗立の創造の軌跡を物語る《写生画帖》が収蔵しています。この《写生画帖》が描かれた文久2(1862)年といえば、高橋由一が洋書調所画学局に入局し、川上冬崖の指導を受けはじめた頃にあたっており、由一35歳の時でした。そして今日残された由一の作品のなかで、もっとも早い時期の作品は、《丁髷姿の自画像》(1866-67年、笠間日動美術館)であるとされ、この自画像と宗立の《写生画帖》を見比べれば、宗立16歳にしていかにすぐれた描写力をもっていたかがわかるはずです。由一の代表作《鮭》(東京藝術大学蔵、重要文化財)にも「影」が描かれていますが、この作品の制作は1877(明治10)年頃だといわれています。
 宗立はこうして「写生画」に熱中し、興味深いのは、宗立が先の《写生画帖》を描いたころ、はじめて写真機を見て感動し、1865(慶応元)年には自ら写真機を買い求めていることです。そしてこの4、5年後に、宗立は油絵の存在を知りました。まさに写真から刺戟を受けて、「日本画でもなければ洋画でもない」新たな「写生画」に目覚めてゆく宗立の思いは、《宗立画庫》や《諸記》と題された画帖にも、まざまざと示されています。さらに宗立は、黒田重太郎が『京都洋画の黎明期』に記しているように「洋画を学ぶには洋学を、すなわち外国語からはじめる必要を感じ」て、ちょうど二条離宮の西に開校した最初の中学校で英語を修めます。第2回内国勧業博覧会出品に際して記した宗立自筆の履歴にも、「海外遊学の志有るを以て京都中学に入て時の教師米国人のチャーリスヘンリーボーレン氏に随て英語並に普通学果を学ぶ」とあります。
 そして一心不乱に学んだ宗立は、その成果を生かすべく、当時科学の最先端の場であった病院、すなわち粟田病院(京都府立駆黴院)に勤めて、医療用の解剖図を描きながら通訳の仕事もこなしていました。そして、病院にいたドイツ人教師ユンケル・フォン・ランケッグから油絵の手ほどきを受けたことが、先の履歴にも記されています。
 1872(明治5)年に京都博覧会が開かれ、宗立も以後出品を重ねて「洋画家」としての地歩をかため、1881(明治14)年に小山三造の後を受けて京都府画学校の西宗(洋画)で指導の場が与えられました。その翌年に、博覧会場で「田村宗立油絵展」が開かれ、1889(明治22)年に画学校辞職の後、画塾・明治画学館を設立しています。1901(明治34)年の関西美術会発足に際して、宗立は発起人に名を連ね、翌年の第1回展に水彩画5点、油画21点を出品しました。1903(明治36)年の第5回内国勧業博覧会に、油彩による破格の屏風《越後海岩図屏風》(1903年)を出品しています。
 このように、独力で「洋画」を切り開いた宗立の歩みは、まさに「京都洋画の先覚者」と呼ぶにふさわしいでしょう。そして宗立は、その後の浅井忠に引き継がれていった「京都洋画界」隆盛の原点に位置する人物といって過言ではありません。

広報資料
チラシ(裏面のみ)  PDF形式(4.8MB)
 
 
デザイン:西岡 勉

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