福田平八郎と師友たち

期間
平成19年4月10日(火)〜 6月3日(日)

展示作品
福田平八郎と師友たち 展示目録

「福田平八郎展」が開催されるにあたり(4月24日〜6月3日)、このたびのコレクション・ギャラリーでは、福田平八郎をめぐる京都ゆかりの日本画家たちについて、「師友たち」という視点から、小企画を構成いたしました。

周知のように、福田平八郎は出身地の大分から画家を志し、父の従弟を頼って京都に出て、京都市立美術工芸学校(美工)に学びました。引き続き、市立絵画専門学校(絵専)本科にも進学しますが、この間、両校を兼務していた谷口香喬の教えを得ています。さらに竹内栖鳳、西山翠嶂、菊池契月ら錚々たる教師たちの指導を受け、抜群の実技成績を残しました。

また当時、平八郎の同級生には、後に国画創作協会に属し、異色の画家として知られることになる岡本神草、そして菊池契月に師事した木村斯光らがいました。

1922(大正11)年、福田平八郎は、師の西山翠嶂、菊池契月、西村五雲ら、美工や絵専の教師たちによって選ばれた、9名の新人作家集団「九名会」の一員となりました。このなかには、堂本印象や中村大三郎らも含まれていたのです。そして平八郎は、竹内栖鳳、山元春擧らが絵画専門学校を退いたのち、同校助教授となり、文字どおり、京都の日本画界の中心に位置してゆきます。

1924(大正13)年、平八郎は京都の下鴨芝本町に転居しましたが、この下鴨の地は、同窓であった岡本神草のほか、池田遥邨、徳岡神泉らの多くの新進気鋭の画家たちが住んでいたことでも知られています。

なかでも徳岡神泉は、京都に生まれ、市立美術工芸学校に学んで、卒業制作に《筒井筒》を提出していました。その後1919(大正8)年、23歳のとき、文展での落選を機に制作上の苦悩に見舞われ、京都を離れて各地を放浪した末、一時富士山麓で過ごしています。そして4年後には、ふたたび京都に戻り、下鴨に居を定め、先の平八郎らと交流がはじまったのです。

神泉の《蕪》(1958年)や後年の《富士》(1965年頃)などの作品には、写生に基づく自然表現を根底におきながらも、対象を浮かび上がらせる手法を採用し、一種象徴的な世界を創造しています。一方、福田平八郎は、理知的な構成と抽象的な対象把握をもとに、神泉とはまた異なる感覚の獲得によって、新たな日本画の境地を切り開きました。福田平八郎の斬新な制作活動の背景には、こうした豊かな、京都の日本画創造の水脈があったとことも見逃せないでしょう。

(主任研究員・山野英嗣)

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