週末ハードコア

音楽で食えればかっこいい。食えない音楽にしがみついてるのはかっこわるい――世間はそう思ってる。でも、いい年して、それでもいちばん好きな音楽を捨てたくないから、仕事をしながら楽器を離さない。会社にも行くけれど、週末はステージに立ち続ける。40になっても、50になっても。そういう生き方と、売れて億のカネはもらえるけれど、レコード会社やテレビ局や広告代理店の言われるままにプレイしている"アーティスト"と、どっちが純粋だろうか。ブレないのは、どっちだろうか。

みんなに流行遅れと呼ばれ、誉められもせず、苦にもされず、雨にも負けずに都会の片隅で爆音を奏でつづけるウィークエンド・ハードコア。ロックな生きざまって、そういうことだろう。

ミリー・バイソン(流血ブリザード):

頭皮から50センチ以上は逆立つトサカ・ヘアー。全身黒づくめ、しかしTバックで露出した尻には片方ずつ「売」と「女」のマジック殴り書き。そうしてステージに立てば、「テメエのチンコに味噌汁ぶっかけて、ケロイドにしてやるぜぇ~!」(『MATSUDA』)なんてヴォーカルにあわせて、激しくギターをかきむしる。「過剰演出の鬼畜ロック」とみずから名乗る、ハードコアとお笑いを合体させた異形のロックバンド『流血ブリザード』のギターをつとめるミリー・バイソンだ。

ご本人のブログ『ミリーバイソンの気合いだ! バッチコーイ!』から、自己紹介を引用すると――

過剰演出のパンクロック集団「流血ブリザード」の紅一点ギタリスト。
テキサスで水牛を飼って生活していたが、ある日何者かに尻に「売女」の烙印を押され、その呪縛から逃れるために大阪に流れ着き音楽を始めたが、ある日風呂上がりに誤って呪いのTバックを履いてしまった。それがきっかけで悪魔に魂を売り'08年バンド立ち上げと同時に流血ブリザードに加入。
物議を醸すパフォーマンスで、全国各地のロックシーンを笑いと涙と生理ナプキンの渦に巻き込んできた。

ミリー・バイソンは1981(昭和56)年に大阪の東淀川育ち。小学校4年生から演劇部に所属、授業のあとは英会話、スイミングスクール、エレクトーンと習い事にも忙しいお嬢様小学生だったが、中学校で神戸のお嬢様女子校に入ってから、「神戸ノリと大阪ノリのギャップ」でイジメに遭うようになってしまう。しかし「休んだら負け、こいつらぜったい見返してやる」とこころに誓いながら、歯を食いしばって一日も休まず登校しているうちに、「自分を変える必要があるのか?」と自問自答、それがロックにハマるきっかけになった。

中2でピストルズ、クラッシュ、ダムド、そしてラモーンズとパンクの洗礼を受け、高校ではギターウルフのようなガレージ系から、GSへとさかのぼっていった。当然ながらバンド活動にも目覚めるが、「バンド募集に問い合わせたら、男から電話がかかってきて、お父さんが怒ってガチャ切りされました」。

大学に進んだあたりからは、本格的なバンド活動を開始。しかし「親に迷惑や心配かけたくないから、働きながらバンドやろう」と決意、卒業後は某有名下着メーカーに勤務しながら、ガレージパンクバンドに熱中する生活を送っていた。

そんなミリーさんに転機が訪れたのは26歳のとき。ギャルバンドのメンバーとして、CDデビューの話が持ち上がり、決意して4年間勤めた会社を退社。同じ年にヴォーカルのユダさんに「おもしろいことやろう」と誘われて、流血ブリザードを結成する。

ど派手なメイクとパフォーマンスに、大阪的なお笑いの要素も加え、下ネタのフレイバーをたっぷり振りかけた流血ブリザードは、大阪を中心に着実にファンを増やしてきた。メンバーは全員が、働きながらバンドを続けてきたが、「ここまで来たら本気でやってみよう」と、今年(2012)年4月に上京。バンドメンバー全員が、それまで大阪で就いていた仕事を辞めての、勝負をかけての上京だった。

東京に来て以来、ミリーさんは昼は派遣社員としてOLスーツで出勤、夜は地元のスナックでバイトを掛け持ちしながら、音楽活動を続けている。流血ブリザードはテレビにも出たりして注目度が高まっているし、ライブもほとんど毎週のように入っているから、スタジオでの練習も頻繁。とはいえ勤務先に楽器を抱えていくわけにもいかないので、「朝、自転車で吉祥寺のスタジオまで楽器持っていって預けて、それから会社に行って、帰りにスタジオ寄るんです。だからOLスーツでギター弾いたりしてるんですよ」と笑うが・・・・・・失礼ながら30歳過ぎて、それまでの仕事も生活も捨てて東京にやってきて、こんな苦労を重ねながら、しかもお尻に「売女」とかマジックで書かれて(「なかなか落ちなくて、銭湯で恥ずかしかったりします」)、それでも平然と自分の信じる音楽を続けていける、そのスピリットの強度が素晴らしい。

多くのひとにとって、流血ブリザードのようなバンドは、ロックというより単なるイロモノにしか見えないだろう。番組の中で、なんのリスペクトもないテレビ芸人たちにイジられる姿を見ていると、それは宣伝として大切だろうけれど、見ていてこころが傷む。

でも、そんなことぜんぶわかっていて、彼女たちはステージに立つことをやめない。そうして、ついてきてくれるひとたちも確実に増えている。煙くて暗い、小さなライブハウスのねちゃつく床にしゃがんで、流血ブリザードの出番を待つたくさんの少年少女たち。彼らのほうが、高給取りのテレビ局プロデューサーなんかより、はるかに正しい目と耳と、こころを持っているのだし。

流血ブリザード

TOMO(DIGRAPHIA):

全身を鋲だらけの革で決め、推定30センチのトサカを天に向かって突き立てた、ハードコアバンド「DIGRAPHIA(ディグラフィア)」のTOMOさんは1980(昭和55)年、東京の田無生まれ。この年代に東京で生まれ育った音楽少年たちは、パンク・ラウドミュージックが結集した「AIR JAM」(1997)か、初期の日本語ヒップホップの記念碑的イベント「さんぴんキャンプ」(1996)の、どちらに行くかで後の音楽人生が決まってしまったといえる。

中学校時代からBOOWY、バクチク、ブルーハーツなどのコピーバンドを始め、高校時代も軽音楽部に属してバンド活動にハマっていたTOMOさんは、やっぱりAIR JAMサイドでパンク、ハードコアのバンドに惹かれていった。

高校卒業後は「遊んでばっかりいたので」大学に進学せず、フリーター生活。警備員をやったり、家具職人になってみたり、バイト先を転々とする生活を何年間か送るうち、誘われて24~25歳ごろにハードコア・バンドの結成に参加した。

「でもね、そのバンドはオレがギターヘタだっていうんで、リーダーなのにクビになっちゃって(笑)。それから別のバンドに誘われて入って、そのうちそこのリーダーが女がらみでクビになり、編成を変えて再出発したのがディグラフィアなんです」。

TOMOさんはバイト転々生活のあと、27~28歳あたりで現在の会社に就職することになった。建築工業関係の営業や配送の仕事で、勤務時間は平日の朝8時半から6時まで。週末の音楽活動が禁止されているわけではないが、さすがにショッキング・レッドの長髪モヒカンでは営業に差し障りあるので、入社1年目からカツラ着用! ふだんは地毛で、ステージだとヅラ着用というのはよく聞くけれど、その逆って珍しい。

カツラといっても何十万円もするハゲ隠し用ではなく、「パーティ用に毛が生えた」(笑)ていどの安価な品なので、よく見ればバレバレ。会社の同僚たちも「だいたい知ってます」ということだが、とりあえず問題はないらしい。「それに、飲んでる途中でパッと取れば、確実に大受け。飲み会じゃ鉄板ネタですしね!」

パンク、ハードコアといえばステージで暴れまくったり、エビぞって叫んだりして、ある意味体力勝負というイメージがあるが、「ハードコアって、意外に40代、50代でも続けられる音楽なんですよ」とTOMOさんは言う。大ブレイクは望めないが、コアなファン層は年代を超え確実に存在するし、ライブハウスの料金も安めだから、何バンドも集まってライブを組めば、金銭的な負担も最小限ですむ。集客とかCD販売とか、「そんなに無理しなくても続けられるんですね」。

最初は学生時代に「音楽やってりゃ楽しい」から始まって、社会人になると「音楽やるために働く」になる。そうして平日は仕事、土日は音楽、というふうに割り切って、無理せず、細く長く好きなことを続けていく。パンクやハードコアのように「太く短く」と思われがちなのが、むしろ「細く長く」楽しめる世界だったというのは、なかなか痛快なウッチャリでもある。

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