広島太郎さんのこと

車体からこぼれそうな人形や掛け時計、おまけに猫まで2匹も乗せて膨れあがった自転車が大通りをゆっくり走っている。うしろには自動車がびっしり渋滞中。でも、だれもクラクションを鳴らそうとしない。そう、広島太郎のお通りだ!

路上生活40数年。30代以下の広島人にとって、広島太郎は「生まれたときからそこにある(いる)」存在だ。あるときは悠然と自転車を漕ぎ、あるときは商店街のど真ん中で、そこだけエアポケットのようにぽっかり空いた場所に座り込んで、太郎さんはずっと、ストリートの目線から広島を眺めてきた。

県知事や市長の名前は知らなくても、広島に住むものなら太郎さんを知らない人間はいない。そして声をかける人間もほとんどいない。だれもが「そこにいる」と知っていて、だれもが「そこにいない」ように通り過ぎていく。だれよりも存在感にあふれていて、だれよりも透明な、広島太郎は不思議な広島のカケラ。そして僕が知る世界でいちばんファッショナブルなホームレス、それが広島太郎だ。

2010年に広島市現代美術館で『HEAVEN 都築響一と巡る社会の窓から見たニッポン』と題した展覧会を開いたとき、「イメージ・キャラクター」になってもらったのが、何回か広島に通ううちに存在を知った広島太郎だった。太郎さんの巨大なバナーがアーケード商店街に吊されて、「広島太郎って都築響一だったんだ!」「あんなかっこで写真撮って回ってるんだ」などと光栄な噂がSNSに投稿されたりもした。

昭和22(1947)年、広島性安佐南区で広島太郎は生まれた。鉄工関係の仕事に従事する父親は昔気質で厳しかったが、太郎さんは草野球とお絵描きが好きな、ごく普通の少年だったという。

17歳、高校3年生のときに「父を殴って積年の恨みを晴らした」あと広島大学に入学、政経学部経済学科に進んだ。学園紛争まっただ中の時代だったが、「当時はハト派だった」太郎青年は、勉学ひとすじ。級友からは「学者さん」と呼ばれていたとか。

昭和45年、大学卒業と同時に東洋工業(現マツダ)に入社。設計技師として勤務し、サバンナ、カペラ、ルーチェなど、往年の名車の設計にかかわり前途洋々だったが・・・・・・同じ会社に勤めていた女性に恋したことから、太郎さんの人生の歯車は狂っていく。結婚まで考えるほど真剣な気持ちだったが、なんとその女性を同僚に奪い取られてしまい、結婚式ではスピーチまでさせられて、太郎さんは傷心のあまり仕事が手につかなくなる。そして、ついに退社。たった3年間の会社勤めの末の、26歳の夏だった。

このままではいけないと、太郎さんは東洋工業退社から2ヶ月後、こんどはブラザーミシンの就職試験を受け、見事合格。意気揚々と入社式に臨んだが、社長の挨拶を聞いて、お茶飲んでラジオ体操して、新人研修で営業マンがお客様のご婦人たちに平身低頭するのを見て、「仕事であろうが、日本男児が女に頭を下げることはできん!」と、一日目にして即・退社。それ以来「無職が仕事!」という人生である。

仕事を辞めた時点で、怒った父に「公式勘当」されて、「死んだのもあとで知ったぐらい」という太郎さん。天涯孤独、自由気ままの身となって、いまも元気いっぱいだ。趣味はギャンブル全般で、これまで競馬で42650円、競艇で50370円の高額配当を引き当てたこともあれば、万馬券を1日に3回、年間で14回出したこともあるという。いま乗っている愛車(自転車――26インチ10800円)も、2009年の8月6日に競艇で勝ったカネで購入したもの。

タバコを吸わない太郎さんのお楽しみといえば、なんといっても「酒と歌」だ。夜、流川あたりに座っていると、歌のうまいのを知っている飲み客が「太郎ちゃん、飲みに行かんか」と誘ってくれて、飲ませてもらう代わりに自慢のノドでお客さんたちを喜ばせる。フランク永井、石原裕次郎、小林旭、南有二・・・・・・歌詞なんか見なくても歌える多彩なレパートリーが、軽妙なおしゃべりとともに、太郎さんのご自慢だ。

カラフルなビニールテープで補強した自転車に、茶色のタロキチと黒のフミオ、2匹の猫を乗せて、きょうも広島の街角にいるだろう太郎さん。「どうしてそんなに時計を飾ったり、身につけてるんですか」と最後にお聞きしたら、にっこり笑って教えてくれた――「時間は信頼を裏切らないからね」。

都築響一(選)《ニッポンの洋服》テキスト完全版