京都国立近代美術館は、今年開館50年を迎え、開館50周年の記念特別展を開催いたします。展覧会タイトルは、「交差する表現 工芸/デザイン/総合芸術」。
それではこの「記念展」ご紹介の前に、まずは京近美50年の開館当初の出来事についてふりかえってみたいと思います。
当館は、1963年3月1日に、東京にあった国立近代美術館(現東京国立近代美術館)の京都分館として設置されました。
そして開館は4月27日で、開館記念の展覧会は「現代日本陶芸の展望ならびに現代絵画の動向」でした。
近代美術館として「現代絵画の動向」展の開催は、当然のことと思われるでしょう。
むしろ注目していただきたいのは「現代日本陶芸の展望」展です。開館記念の展覧会でなぜ「現代日本の陶芸」が取り上げられていたのか。実は、この展覧会の開催こそが当館の開館以来の活動方針を明確に物語っているのです。
当館の向かいには、すでに戦前から、わが国公立美術館として二番目に誕生し、30年の歴史を刻んでいた京都市美術館が建っていました。建設に際しては、京都市民から多額の寄付がよせられ、「帝展」や「新文展」そして「日展」の会場として、また「市展」や「京展」の会場となって市民に親しまれるとともに、国内外の大型企画展を開催し、関西圏ではもっとも広く美術愛好家に愛されてきた美術館だったといって過言ではありません。
その京都市美術館の真向かいに、しかも京都市が熱心に国にはたらきかけて「国立近代美術館」の誘致が行われたのです。ここには、自ずと京都市の「意向」が強くはたらいていたのも当然のことでしょう。そして京都市が誘致したその背景には、「産業上の要望として伝統工芸の展示に相当の比重をかける」との要望があったのです。
これに応えるように、国立近代美術館次長から京都分館長として迎えられた今泉篤男は、
「京都という土地柄、工芸を中心として展示に重きを置きたいと思って、それで最初に現代陶芸の展覧会を企画した」(『朝日新聞』)と表明しました。
以後、国立近代美術館京都分館として1963年の開館以来、5年後の京都国立近代美術館として独立以後も、当館はこの「工芸」を中心とする活動を堅持展開し、その姿勢は展覧会の開催のみならず、収蔵方針にも反映され、今日にいたっているのです。
詳細は「50年のあゆみ」をご覧ください。
それではここで、「開館50周年記念展」についてご紹介いたしましょう。
展覧会は大きく2部にわかれます。第T部は、展覧会のメインタイトル「交差する表現」のまさに核心部です。
3階の企画展示室及び、1階ロビーを会場に、この第T部をご覧いただきます。
「工芸」も絵画や彫刻と同じく、制作者の「表現」が前面に押し出された造形品であることに異論はないでしょう。しかしながら、たとえば今日、公募展でもっとも人気の高い「日展」を見ると、第1科の「日本画」にはじまって、「洋画」「彫塑」「書」とならんで、もちろん「工芸」のジャンルも含まれていますが、なぜか「工芸」については、わざわざ「工芸美術」と表記されています。「工芸」の文字だけでは、「美術」とはみなされないのでしょうか。実はここに、「工芸」という領域におけるひとつの問題点が潜んでいるのです。
「工芸」として誰もが知っている壺や器に代表される陶芸、着物などの染織、さらに範囲を広げて、ジュエリーやテキスタイル、壁紙や絨毯ほか、わたしたちが日常「工芸」品として目にするものは、いわゆる「用途」を想定して制作されたものばかりです。「用の美」という言葉も、よく知られています。けれども、先の「日展」の「工芸美術」に出品された作品を見わたせば、一概にそうともいえないものも数多く出品されていることに気づくはずです。これは何も「日展」に限ったことではなく、今日開催されている「工芸展」の多くにあてはまります。
一見すると「彫刻」とも見まがうような立体作品、あるいはまさに「抽象絵画」といってもおかしくない「染」や「漆」の平面作品など、まったく何に使えば良いのか「用途」もわからない作品が、数多く出品されているのです。「洋画」や「日本画」そして「彫刻」などは、いわゆる「ファイン・アート」として「美術」作品であること自明のこととされていますが、「工芸」にあえて「美術」の文字が加えられているのは、ここに今日の「工芸」というジャンルがかかえる状況が端的に示されているからにほかなりません。
少し話が横道にそれたかもしれません。しかしながら、こうした状況にこそ「工芸」というジャンルにかかわる本質が潜んでいます。そこで第T部では、タイトル「<工芸>表現の一断面」として、「工芸」作品の「表現」そのものに注目してみました。
すでに明治時代から、わが国の「工芸」品は、その技巧が海外でも高く評価され、海外に輸出されるものも数多くあったことは、周知のとおりです。海外の文化が流れ込む明治時代は、万国博覧会にも象徴されるように、明治政府が掲げるスローガン「殖産興業」政策のひとつとして「博覧会」が脚光を浴び、わが国でも「内国勧業博覧会」などが数多く開かれました。ここには絵画や工芸作品なども数多く出品され、東京・上野公園で開催された「第1回内国勧業博覧会」(1877年)では、「美術館」と呼ばれた建物もはじめて登場しています。
そして1895年に、現在当館が位置する岡崎の地で「第4回内国勧業博覧会」が開かれ、博覧会を象徴するパビリオンとして平安神宮が造営されました。平安神宮も、平安遷都千百年紀年祭の事業の一環であり、こうした一千年余の歴史が刻まれた京都でしかできない祭礼として「時代祭」が構想され、1898年10月22日には、第1回の「時代祭」が行われたのです。注目すべきは、「時代祭」の衣装が、後世に残すべき伝統「工芸品」であるという意識も生まれ、今日にまでいたっていることでしょう。
そしてこの「第4回内国勧業博覧会」では、二代川島甚兵衛が、「工芸」技術の枠を結晶した綴織額《悲母観音》(東京国立博物館蔵)を出品、「50周年記念展」ではその原画である狩野芳崖の代表作《悲母観音》(1888年、東京藝術大学蔵)も、合わせて特別出品されます。狩野芳崖は、わが国近代美術史の冒頭に、「洋画」の高橋由一とともに位置する「日本画家」であり、ここには、「工芸」と「日本画」の共演が、見事に示されています。
さらに1910年にロンドンで開催された日英博覧会に出品され、現在大英博物館が所蔵する竹内栖鳳の《ベニスの月》(1904 年)と山元春挙の《ロッキーの雪》(1904年)(ともに高島屋史料館蔵)の大作の原画をもとにした染織品も、染織という「工芸」が、「日本画の表現」にも匹敵する迫力を示す、いわば「美術力」をもつことを如実に物語ってもいるでしょう。
加えて「第4回内国勧業博覧会」でもっとも存在感を有する建造物が平安神宮でした。これは周知のように、「建築」という言葉を考案した伊東忠太の東京帝国大学院生時代のデビュー作です。この建築図面は4年前に、平安神宮の倉庫から発見され、現在9面すべてが、平安神宮から当館に寄託されており、本展覧会でも披露いたします。画家になりたい夢をもっていた伊東忠太が描いたそれら20分の1の鮮やかな建物は、まさに「工芸品」のような趣をたたえています。
さらに当館には、京都洋画壇の先覚者ともいうべき田村宗立の作品・資料を多数収蔵していますが、面白いのは、当時宗立の「油絵」が、京都市の「新古工藝品展覧会」に出品されていたことを示す「賞状」です。それは高橋由一の《鮭》が、「工芸品」とみられていたこととも関連する、当時の興味深い状況を物語っているようでもあります。
第T部では、展示会の導入部として、以上のような明治期博覧会関係の作品・資料を紹介いたします。
これまでわが国の「美術」について語られるとき、特に海外の万国博覧会に出品された「工芸」が高評価を得たにもかかわらず、たとえばわが国の近代日本画や洋画が、果たしてどれだけの国際性をもつのか。わが国の「工芸」、むしろ明確に「国際性」をもっているといえるのではないでしょうか。古美術品であれば、異国趣味的なものとしての「表現」や、その技術に対して、高い評価を得てきました。また「伝統工芸」のように、技巧的にもすぐれた技の継承は、本展覧会にも出品した木村表斎の《鶯宿梅蒔絵吸物椀》や、富田幸七との共作になる《名取川蒔絵硯箱》などの漆芸作品にも見られるでしょう。本展では、並河靖之らの七宝作品によって、明治時代においても継承された、表現性豊かな手技の粋をご覧いただきます。
そして20世紀を迎えると、1900年のパリ万博開催に際して渡仏した洋画家・浅井忠は、当時のパリ美術界のみならず、生活工芸品や都市を彩る様々の装飾などにも波及したアール・ヌーヴォーの表現様式に魅せられ、絵画制作とともに、陶器図案も手がけてゆきます。浅井忠のパリの下宿には、ミュシャのポスター《ジョブ》も飾られていました。
また、京都の宮永東山や杉林古香らが浅井の図案をもとに、洋の東西の「表現」を見事に融合した漆器や陶器の作品を残します。そうした「工芸」における「東西交流」の一断面は、神坂雪佳、バーナード・リーチや富本憲吉、河合卯之助らの版画や陶芸作品にも見てとれます。
こうしたいわば伝統的な「陶芸」などの作品を超えて、さらに時代がすすむと、日々の生活品において、明確に「デザイン」と呼ぶことのできる「表現」が生み出されてゆきます。
その原点に竹久夢二が位置していることは、間違いありません。
今日「グラフィック・デザイン」と称される領域で、「夢二スタイル」は、そのデザイナーの卵たち(今竹七郎や山名文夫ら)の憧れとなっていました。
本展では、2006年から2011年にかけて収蔵をすすめて「川西英コレクション」の中から、夢二ほかの代表作を紹介します。
加えて見逃せないのは、わが国でも1920年代に顕著となる「前衛表現」の波が、「工芸」界にも押し寄せていることです。以後1940年代そして戦後にいたるまで、「工芸」界でも「前衛表現」は大きな柱となり、八木一夫(虚平)や山田光らがその「表現」の先頭に立って、「工芸」という領域をも超えた作品を、制作してゆきました。
記念展の第T部では、これまで紹介してきたように、「工芸」作品の「表現」に注目し、その多様性について、当館コレクションを軸にしながらも、大英博物館をはじめ、国内外の美術館などの協力も得て再考し、伝統や東西交流、デザインの問題などを取り上げました。そして本展では、2006年度に収蔵し、「ウィーンから京都へ、建築から工芸へ」の視点で展覧会を開催(2009年)して好評を得た「上野伊三郎+リチ コレクション」から、代表作のリチの壁紙やプリント服地の下絵など多数の作品も紹介いたします。加えて、上野伊三郎やリチと深い関係にあったヨーゼフ・ホフマン、さらにはウィーン工房の家具や、1910年代当時のファッションについても出品しています。
最後に1階ロビーでは、1932年にニューヨーク近代美術館で開かれたはじめての建築展でも紹介された、上野伊三郎とリチとの共作になる《スターバー》内装部を再現展示します。この再現展示をとおして、工芸と建築との出会い、さらにいえば「総合芸術」の具体例という「表現」を、ぜひ実感いただきたいと思います。
第U部「美術館と<工芸>−所蔵作品より」は、4階のコレクション・ギャラリーでご覧いただきます。
すでに紹介したように、当館は1963年4月27日に、「現代陶芸の展望ならびに現代絵画の動向」展で開館しました。その「現代陶芸の展望」展に出品された河井寛次郎の代表作《打薬扁壺》は、川勝堅一氏から寄贈いただいたもので、このほかに同展出品作の中から24点が、最初期のコレクションとなりました。1965年には、ハンス・コパーやルーシー・リーなど海外作家の工芸作品も加わり、これはすべて前年に開かれた「現代国際展」に出品されたものでした。開館から5年が経過した時点では、先の「川勝コレクション」第1弾も含めて、700点を超える「工芸」作品が集められました。
そして、1970年に特別展の予算が増額され、独自の海外展の実現も可能となり、その第1陣として「現代の陶芸―ヨーロッパと日本」展が企画されたのです。これはヨーロッパ8か国から海外作家86名の280点余の作品が出品され、日本作家47名も各1点ずつ出品という空前のスケールの展覧会でした。しかもこれらの出品作のうち、202点がコレクションに加えられました。ここには美術館活動の根幹を形成する「展覧会とコレクションの連動」という方針が実現され、それは当館のもっとも顕著な特色であるといって過言ではありません。この姿勢は、翌年開催の「現代の陶芸―カナダ・アメリカ・メキシコと日本」でも継続され、以後に開かれる「工芸」展でも一貫して行われています。
第U部のさらなる見どころとして、当館が収集してきた「工芸」作品の守備範囲の広さ、これもぜひご覧いただきたいと思います。
壺や皿などの陶芸、漆に木工、竹工をはじめ、着物などの染織は、すでに「工芸」作品として誰もが理解しているところでしょう。けれども当館は、それらの作品だけではなく、もっと自由な観点から「工芸」をとらえているのです。
たとえば、染めや織りの技法を軸にした作品は、ふつう染織と呼ばれています。ところが、染織をテキスタイルととらえ、素材として用いられてきた糸や布は、身体や住空間とかかわることで、さらに広がりを示します。空間を意識して、天井からぶら下げられた巨大なファイバーワーク。逆に手芸であるニードルワーク、そして装身具であるジュエリーやアクセサリーなど、「工芸」は私たちの生活と密接なかかわりをもっています。
当館でも、最初期の企画として貴重な「染織の新世代」(1971年)、「今日の造形〈織〉−アメリカと日本−」(1977年)「イギリスのニードルワーク」(1982年)など、他館では開催され得ない独自の「工芸展」も数多く開いてきました。加えて「現代ガラスの美−オーストラリア・カナダ・アメリカと日本−」(1981年)、「今日のジュエリー」(1984年)なども開催して、同時に染織やガラス、ジュエリーなどの作品も数多く収蔵するにいたっています。
第U部では、当館のこうした多彩なコレクションの中から代表作を一堂に展示いたします。